第63話 幸福の予兆⋯⋯
「私は、時也様の式神──
意識を共有しておりますゆえ
時也様の記憶も混じえて、お話できましょう」
青龍の声は
深淵の底から湧き上がるように静かだった。
その声音は
古の記憶を辿るように淡々としており
だが、確かにその奥底に宿る温もりが
レイチェルの部屋に満ちる灯を
ひとつずつ薄めていく。
「まだ、時也様が……
不死鳥に命を奪われる前の話です」
語る青龍の瞳は
過去という深淵を覗き込むように
遥か遠くを見つめていた。
⸻
その頃、時也とアリアは夫婦となり
二人はようやく掴んだ穏やかな日々の中にいた。
時也はこの世界における
唯一の陰陽師として人々に頼られ
術を以て厄を祓い、穢れた魂を鎮め
静かにその名を広めていた。
その朝も、彼は早くから起き出し
厨房に立っていた。
白米の湯気が仄かに香り
焼き魚の香ばしい匂いが漂う。
味噌汁には刻まれた野菜の色が淡く浮かび
朝の光に透けていた。
「アリアさん、おはようございます」
微笑とともに、丁寧な所作で盆を運びながら
時也は静かに声をかける。
その声は、春の風のように穏やかだった。
だが、香り立つ湯気の中で──
アリアは、ふいに眉を寄せた。
「アリアさん……ご気分が優れないのですね?」
彼女はわずかに、首を縦に振る。
その仕草ひとつで、内なる不快が伝わった。
「……お食事は、下げましょうか」
時也は無理に勧めることなく
膳を静かに片づけた。
その手際には、彼女を気遣う優しさが滲む。
膳を片づけ終えると
時也は彼女の傍に腰を下ろし
背をそっと撫でた。
その指先に伝わるのは、細く震える体温。
華奢な肩がわずかに揺れ
アリアは静かに彼の胸に凭れかかる。
「……アリアさん」
名を呼ぶ声音に、慎ましい感情が滲む。
しばし沈黙が流れ、やがて時也は呼吸を整えた。
「アリアさん……不躾をお許しください。
最後に血穢があったのは、いつ頃でしょうか?」
アリアは瞬きをし、わずかに首を傾げる。
思いも寄らぬ問いだったのだろう。
彼女の内奥で静かな思考が波紋のように広がる。
(……四ヶ月、前)
その心の声を、時也は確かに受け取った。
瞬間、彼の瞳が柔らかく見開かれる。
「……あぁ!」
思わず、声が震えた。
彼は喜びを堪えきれず
アリアの身体をそっと支えたまま
背後から抱きしめた。
「……?」
驚いたように振り返るアリアに
時也は微笑を浮かべ、息を整えた。
「アリアさん……貴女のお腹に──
新しい命が、宿っています」
その声は、歓喜に震えながらも
彼女を驚かせぬよう優しく紡がれた。
「……赤子、が……?」
アリアの唇が、わずかに震えた。
「私と……お前の……子が……此処に?」
かすかな声とともに
彼女の両手が静かに腹部へと添えられた。
深紅の瞳が潤み、光を宿す。
「えぇ、アリアさん」
その言葉に宿る響きは、かすかでありながら
世界のどんな祈りよりも真実だった。
時也は彼女の手の上に自らの手を重ねた。
その温もりの中で、鼓動が二つ、確かに重なる。
「男の子でしょうか。女の子でしょうか。
どちらにしても──楽しみですね」
穏やかに笑うその声音には
父となる覚悟が宿っていた。
「……女児で、あって……欲しい……」
目を伏せたその囁きの奥で
彼女の心が、ひとつの祈りを密やかに紡いだ。
(……不死鳥が相伝されたならば
お前と共に──人として、死ねる)
その想念を受け取った瞬間
時也は息を呑んだ。
不死鳥は、女児にのみ相伝される。
娘が生まれ、不死鳥を継ぐならば──
アリアの不死は終わりを迎える。
永き苦痛の連鎖に、終止符が打たれるだろう。
だが同時に
その娘は新たな〝呪縛〟を受け継ぐことになる。
時也は目を閉じた。
胸の奥に、恐れとも祈りともつかぬ熱が広がる。
(……だめだ。今は)
今この瞬間、弱気になってはならない。
増えた命を守るために
心を曇らせてはならないのだ。
「……大丈夫です。僕が、必ず守りますから」
静かに、しかし確固たる声で告げる。
アリアを包み込むその腕は
春の陽のように温かく
祈りのように穏やかで──烈しかった。
アリアはそっと目を閉じ
そのまま彼の胸に頬を寄せる。
沈黙の中に
二人の鼓動だけが穏やかに重なり合っていた。
⸻
アリアの腹部は
時の流れとともに静かに丸みを帯びていた。
それは、命の鼓動が確かに
この世に息づいている証のようで
その穏やかな膨らみは
見る者にさえ神聖な畏れを抱かせた。
その日も彼女は、窓辺の椅子に腰を下ろし
淡い光の中で静かに息をしていた。
指先はゆるやかに腹部を撫で
唇からは細い旋律が零れ落ちる。
その歌は風に溶け
まるで遠い記憶を呼び起こすように
柔らかく揺らめいた。
降り注ぐ陽光が、金糸のように髪を照らす。
光に包まれた姿は
まるで神話の女神のようであった。
だが、その瞳の奥だけは──
微笑みをたたえながらも
氷の刃にも似た鋭さが潜んでいる。
その瞬間、空気が変わった。
風の流れの乱れ、微かな影のざわめき。
──気配。
ひと筋の風が、獣の息を運んだ。
狩人の匂い。
誰かが、視界の外で息を潜めている。
アリアは動じない。
ただ、窓の外を見つめたまま
右の掌をゆるやかに持ち上げた。
指先に、ぽうっと紅蓮の火が灯る。
その炎は命のように呼吸し
やがて一枚の羽根の形へと変わっていった。
艶やかな紅の羽は、細く鋭く
刃のような美を宿して煌めいている。
彼女はその羽を、何の躊躇もなく宙へと放った。
音もなく舞い上がった羽は
まるで意志を持つかのように標的を見定め
潜んでいた影の喉笛へと吸い込まれた。
ズシャ──
空気が切り裂かれる音。
狩人の喉が割れ、血が噴き出す。
彼は声を上げる間もなく、身体を痙攣させ
膝を折り、赤い線を残して地に崩れ落ちた。
命が途切れるその刹那
恐怖に見開かれた瞳だけが
冷たい風の中に取り残されたまま、静止する。
アリアは、その骸を無感情に見下ろし
微かに唇を動かした。
「……死の翼に触れよ。愚かなるものよ」
その声は、風よりも冷たく
祝詞のように静かな響きを帯びていた。
彼女が指をひとつ鳴らす。
パチン──
瞬間、倒れ伏した肉体から炎が立ち昇った。
紅蓮の焔は息を呑むほど美しく
血を焼き、骨を焼き
やがて塵ひとつ残さずにすべてを呑み尽くした。
音も、匂いも、悲鳴さえも──
ただ、春風のような静寂がそこに残った。
何事もなかったかのように
庭の花々が風に揺れ、鳥が囀る。
穏やかな日常が
何事もなく続いていくように見える。
アリアはそっと息を吐き
再び腹部に手を添えた。
その掌に伝わるぬくもりが
唯一確かな現実であった。
指先で命の鼓動を感じながら
先ほどの冷たさとは対照的に
柔らかい鼻歌を再び口ずさみ始める。
光が彼女を包み
その姿はまるで──
聖母の絵画のように静謐であった。
⸻
「ただいま戻りました!アリアさん!」
玄関の扉が開き
陽の光のように明るい時也の声が響いた。
「ただいま戻りました、アリア様」
続く青龍の声は、深みのある静寂を伴っていた。
その二人の声が重なると
家の中に春の息吹が満ちていく。
子を授かった幸福は
彼らの間にも新しい光を灯していた。
時也が部屋に入ると
アリアは窓辺から静かに振り返る。
その動作ひとつに、慈愛と威厳が宿っている。
「アリアさん。今日は依頼の謝礼にと──
穫れたての魚をいただいたんですよ」
弾む声に、優しい喜びが滲む。
日によって体調の揺らぐ妻の身体を気遣い
少しでも滋養があり、食べやすいものをと
彼は日々、工夫を重ねていたのだ。
「お腹の子のためにも、腕を振るいますね」
時也の笑みは眩しく
台所へと向かうその背に、確かな決意があった。
「では、私も……」
青龍が控えめに続こうとした刹那──
アリアの視線が、ふと彼に向いた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、青龍の表情が陰ったのを
アリアの深紅の瞳は見逃さなかった。
(……?)
しかし、その影はすぐに消えた。
青龍はいつもの厳然とした面持ちへ戻り
恭しく頭を下げて部屋を出ていく。
残された部屋に、再び静寂が降りた。
アリアは深く息をつき
膨らんだ腹部に手を添えた。
命の温もりが、掌に広がる。
その瞬間、
彼女の瞳には、戦う者ではなく、
ひとりの母としての優しさが宿っていた。
不安はない。
ただ──
胸の奥で、確かに息づく愛おしさだけが
彼女の全てを満たしていた。




