第62話 響かぬ絆
リビングでは
暖炉の薪が静かに燃え続けていた。
赤々とした炎がゆるやかに揺れ
時折、木片が爆ぜる乾いた音が響く。
弾けた火の粉が宙に舞い
ひとつ、またひとつと空気の中に消えていく。
だが、その穏やかな灯りとは裏腹に──
部屋の空気には、妙な静けさが満ちていた。
声が、ほとんどなかったのだ。
時也とアリアが並んでソファに座り
テーブルを挟んだ向かい側には
エリスとルナリアが並んでいる。
四人は皆、穏やかな顔をしていた。
それなのに、誰一人として言葉を発さない。
まるでこの空間そのものが
〝沈黙〟という名の祈りに
包まれているかのようだった。
けれど
その静寂は決して冷たいものではなかった。
時折、誰かの唇がかすかに弧を描く。
ふっと微笑が零れるたびに
見えぬ言葉が交わされたような温もりが走る。
──そう、これは沈黙ではない。
心と心が交錯する〝対話〟の時間だった。
時也の読心術は
アリアの無言の想いを誰よりも正確に捉える。
そして、双子──エリスとルナリアもまた
その能力を受け継ぎ
静かな会話の世界に生きていた。
彼らにとって〝声〟はただの器にすぎず
心が語るものこそが、真の言葉──
「まぁ!お母様ったら、心配症ですね!」
突然、エリスが弾けるように笑い
静まり返っていた空気に
春風のような柔らかな波紋が広がった。
「お母様、ありがとうございます。
勿論、大丈夫ですよ」
ルナリアが続く。
声音は落ち着き払っており
感情を抑えたように聞こえるが
その響きの奥には
確かな敬意と愛情が宿っていた。
レイチェルはその様子を見つめながら
胸の奥で思った。
(アリアさん……
もしかして、心の中では結構お喋りなのかも?)
その発想に、自分で思わず小さく笑みを漏らす。
彼女の瞳に映る四人は
まるで時間さえ止まったかのように穏やかで
けれど確かにそこには家族の音があるのだろう。
時也の柔らかな微笑み。
エリスの無邪気な笑顔。
ルナリアの静かな視線。
そして、無言のまま
アリアの瞳の奥に灯る──ほのかな光。
それは、声を超えた絆の証。
彼らにしか見えぬ、音なき会話の連鎖だった。
「レイチェル様、ソーレン。
私どもは二階へ参りましょうか」
青龍の声が静かに空気を震わせる。
その響きには不思議と場を整える威厳があった。
「……ん、そうだな。
ここに居ると凍えちまうしな」
ソーレンが頷きながら立ち上がる。
火の明滅が彼の背に影を落とし
歩み出すたびに淡い橙が揺れた。
「家族水入らず、ね!」
レイチェルが微笑み
どこか名残惜しそうにソファを振り返る。
彼女の声が軽やかに響き
沈黙にひとつの彩りを添えた。
三人が階段へ向かおうとした、その瞬間──
「行ってしまうのですか、青龍」
ルナリアの声が静かに背を呼び止めた。
彼女の声音には、氷のような冷ややかさと
幼い娘らしい素直さが奇妙に同居している。
青龍は足を止め、振り返る。
幼子の姿のまま
礼を崩さぬように立つその姿には
かつての龍としての威厳が微かに滲んでいた。
「はい。
お嬢様方には、どうか一家団欒の時を
ごゆるりとお過ごしいただきたく存じます」
深く、恭しく。
青龍の声音には、柔らかな忠誠が宿る。
「だったら──青龍も、家族でしょ?」
エリスが、陽のように微笑みながら言った。
「ねぇ、とと?」
ルナリアも頬をわずかに緩め、声を重ねる。
二人の声が重なった瞬間
室内の空気がほんのり和らぐ。
青龍は一瞬、言葉を失ったように固まった。
そして、すぐに視線を逸らし
わずかに肩を揺らす。
「……まったく、その呼び方はお止めなされ。
貴女方の父君は──時也様です」
そう言いながら顔を背ける青龍の耳が
ほんのりと赤く染まっていた。
(……〝とと〟?どんな意味だろ……?)
階段を上りかけたレイチェルは
その小さな響きに首を傾げた。
まるで秘密の呪文のように
温かく、懐かしい響きだった。
「では、時也様。何かあれば念話にて……」
「ありがとうございます、青龍。
お前も⋯⋯ゆっくりしなさい」
「……はっ!」
青龍は深く一礼し
ソーレンとレイチェルと共に
階段を上がっていった。
炎の光が三人の背を淡く照らし
静かな足音だけが
家族の残るリビングを包み込むように
遠ざかっていく──
「ねぇ、青龍!」
レイチェルが階段を上りながら
小声で呼びかけた。
その声は陽の光のように柔らかく
静まり返った廊下に小さく響く。
「皆で私の部屋に集まらない?
双子ちゃんのお話も聞きたいし!」
「……ふむ。良いでしょう」
青龍は一瞬だけ考えるように目を細め
静かに頷いた。
その声音には、相変わらず威厳があるのに
不思議と温かみが混じっている。
「俺も暇だし⋯⋯お前らと居るかな」
ソーレンが肩を竦めながら続く。
だが
ふとリビングの方に目をやり、眉を寄せた。
「……あ、その前に。
薪を足しといてやんねぇとな」
彼は踵を返し、再び暖炉の前へ戻った。
火はまだ燃えていたが
炎の輪郭が細くなりつつある。
ソーレンは手際よく薪をくべ
火掻き棒で位置を整える。
火花がぱちりと弾け、炎が再び勢いを取り戻す。
温かな光が室内を染め
影をゆらりと壁に揺らめかせた。
「……っと。これで大丈夫だろ。」
小さく呟いて満足げに頷くと
ソーレンは軽い足取りで
再び二人のもとへ戻った──
⸻
レイチェルの自室は
彼女そのものを映したような空間だった。
温もりと生活の匂いが混ざり合い
整頓されすぎず
どこか安心できる雑然さを湛えている。
ベッドの上には
色とりどりのクッションが無造作に並び
壁には趣味で集めたポスターや
喫茶桜での日々の写真が貼られていた。
窓際には、淡い花の香を放つ小瓶がひとつ。
灯りに照らされたその硝子が
部屋の空気の中で穏やかに光を返していた。
部屋の隅には小型の冷蔵庫。
その上にはマグカップやお菓子の袋
可愛らしい人形が無造作に積み重ねられている。
「はい、どうぞ!」
レイチェルは冷蔵庫を開け
取り出した三本の飲み物をテーブルに並べると
自分もベッドに腰を下ろす。
ボトルの触れる音が小さく響き
炭酸の泡が光を反射してきらめく。
「飲み物……
こんなのしか無いけど、好きに選んで!」
「お、サンキュー。
さすがにもう下には取りに行きにくいしな」
ソーレンはデスクの椅子に腰をかけ
手を伸ばして無造作に炭酸飲料を掴む。
「ほう……?
貴様にも、ようやく〝配慮〟という言葉が
理解できたらしいな」
青龍が軽く眉を上げ、静かに正座を正した。
小さな身体に宿る声音は
相変わらず凛としていて
どこか父親めいた響きを帯びている。
「あははっ!」
レイチェルは思わず吹き出した。
和やかな笑いが、部屋の空気を少し柔らげる。
「お前ら……俺をなんだと思ってんだよ。」
ソーレンが拗ねたように眉を寄せ
ペットボトルを指先で軽く弾くと
ふわりとボトルが宙に浮き──
キャップがプシュッと音を立てて開いた。
彼の重力の異能が
無意識の仕草として自然に滲み出る。
「にしても!本当に驚いちゃった!」
レイチェルが身を乗り出して言った。
「時也さん達にお子さんが居たなんて!
あの二人って──
手を繋ぐだけで子供ができそうなくらい
神聖な雰囲気あるし!」
「は?」
ソーレンが間の抜けた声を出し
ぽかんとレイチェルを見た。
「子供って……
手を繋いでる内にできるんだろ?」
「……え?」
レイチェルは一瞬、固まった。
冗談か本気か分からぬその表情に
思わず口をぱくぱくさせてしまう。
「……うーん?」
言葉を濁した。
だがソーレンの過去を思えば
その無垢さが、全くの冗談とも言い切れない。
「……ソーレン、マジ?」
「はぁ……!
俺の名誉のために言っとくが
冗談に決まってんだろ!バカか!」
頬を赤らめたまま
ソーレンはペットボトルを持ち上げ
ごくりと飲み下した。
その仕草が余計に照れ隠しのように見えて
レイチェルはますます笑いを堪えきれなかった。
「……馬鹿に名誉があるか」
青龍が冷ややかに言い放つ。
だが、その声色には僅かに笑みが混じっていた。
「青龍、ほんと辛辣!
……あ。そういえばさっき
双子ちゃんが言ってた〝とと〟って
どういう意味なの?」
「……」
一瞬、青龍の表情が微かに揺れた。
いつも泰然としている彼の山吹色の瞳が
僅かに陰を帯びる。
「……父親、にございます」
「ん?お父さんは、時也さんでしょ?」
レイチェルが首を傾げる。
「お嬢様方をお育てしたのは⋯⋯
この私でしたので」
青龍の声には、かすかな寂寥が滲んでいた。
幼子の姿のまま
彼の小さな手が膝の上でぎゅっと握られる。
「俺も、軽くしか話を聞いてねぇからな。
教えてくれよ〝とと〟?」
ソーレンの口元が意地悪く緩む。
その一言に、青龍の眉がぴくりと跳ね上がった。
「貴様のことも確かに育てはしたが──
こんな口の悪い愚息を持った覚えはないぞ
小童!」
吐き捨てるような言葉の中にも
叱る父のようなぬくもりが確かにあった。
「……ふふっ。仲良し師弟ねぇ?」
レイチェルが静かに笑った。
その声音は、夜の灯火のように優しく、温かい。
青龍は遠い目をして
手元のジュースを一口、ゆっくりと口に運んだ。
冷たい甘さが喉を滑り落ち
その奥にかすかな苦みが残る。
それは、幾度の時を越えても消えぬ記憶の味──
彼が〝とと〟と呼ばれた日々の残響だった。




