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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
寄りし影

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第60話 鏡合わせの来訪者

喫茶桜は、その日、店を閉じていた。


普段は珈琲の香りと談笑が交わる空間も

今は息を潜めたように沈黙している。


居住スペースのリビングには

窓越しに差し込む初夏の陽光が

時の流れさえ緩やかにして滲んでいた。


階段の上から、眠たげな声が降りてくる。


「おはよぉございま〜すぅ……ふぁあ」


レイチェルが欠伸を噛み殺しながら

ゆるりと降りてきた。


寝癖の残る髪を無造作に撫でつけ

ラフな服に身を包んだ姿は

休日の気の抜けた柔らかさを纏っている。


彼女はソファへと歩み寄り

どさりと身体を預けた。


「はよ。」


低く短い声。

テーブルの向こうにはソーレンが座っていた。


湯気を立てるカップから

焙煎豆の深い香りが静かに漂う。


それはまるで

沈黙の中に灯された小さな穏やかさのように

リビングを満たしていた。


「……ん?」


レイチェルは、ソーレンからコーヒーを受け取る

アリアに目を向けた。


その姿は絵画の一部のように整っている。


しかし、その隣に時也の姿が無いことに気付くと

眉を僅かに顰めた。


「……あれ?時也さん、居ないの?」


「ん?あぁ、アイツならまだ起きて来てねぇよ」


ソーレンは気怠げに答え

コーヒーを一口含んだ。


苦味が喉を撫で

静かな熱が胸の奥に滲んでいく。


彼はその温度を確かめるように

低く息を吐いた。


「へぇ?珍しいこともあるのね!」


レイチェルは目を丸くした。


時也が誰より早く起きてくるのは

もはや日常の儀式のようなものだった。


だからこそ、その不在は

微かな不安を呼び起こす。


「……アイツ、たまに

読心術のせいで部屋に籠ることがあんだよ」


ソーレンの声は淡々としていたが

その奥にわずかな気遣いが滲んでいた。


「今回も、それじゃねぇかな」


「そっか……そうなる時も、あるよね」


レイチェルの表情が、かすかに翳る。


彼女はかつて

ソーレンの提案で時也に擬態したことがあった。


その時──彼の〝読心〟の地獄を見た。


幾千もの声が押し寄せ、頭の内側を侵す。

怒り、悲しみ、恐怖、そして絶望──


他者の心が波のようにぶつかり

時也という存在を削っていく。


あれを日常として抱えるなど──狂気の沙汰だ。


「……精神、削るもんね……」


レイチェルの呟きは

静かに空気へ沈んでいった。


「ま、ソッとしときゃ

そのうち出てくるから心配すんな」


ソーレンは無造作に髪をかき上げ

気怠げにそう言った。


それは、不器用な優しさの響きを帯びていた。


「……うん」


レイチェルは小さく頷き、深く息を吐く。


「おい、アリア。

時也のコーヒーじゃねぇからって

フリーズしてんじゃねぇよ」


ソーレンが指先でアリアの頬をつつく。


アリアは、カップを持ったまま微動だにせず

無表情のまま空の一点を見つめていた。


まるで、時間の歯車が

彼女だけを置き去りにしたかのようだった。


ソーレンの指先が頬に触れた瞬間

アリアの睫毛が微かに震える。


「……きっと、時也さんが心配なのよ。

ね、アリアさん?」


レイチェルが、そっと微笑みながら言う。


アリアはその声に視線を向け

ほんの一拍ののち、瞳を伏せた。


沈黙のままコーヒーを口に運ぶその仕草は

どこか痛ましいほど静かだった。


まるで、平静という薄氷の上に

感情を封じ込めているかのように。


その隣で、青龍が幼子の姿で正座し

目を閉じて控えていた。


小さな背筋は真っ直ぐで

顔には張り詰めた気配が漂う。


まるで、主の痛みを

己の内にまで引き受けているかのように──


「時也さん、早く元気になるといいなぁ……」


レイチェルの呟きは、誰に届くでもなく

空気に溶けていった。


だが、その願いは確かに

この空間にいる誰もの胸に染み入っていく。


コーヒーの香りが

どこか切なく、胸を締め付けるようだった。


──その刹那、静寂が裂ける。


青龍が、弾かれたように目を開いた。

瞳の奥に走った光は、鋭い警鐘のようだった。


床に座した姿勢から

ほとんど音もなく立ち上がる。


その俊敏な動作に

ソーレンとレイチェルの視線が一斉に向く。


「どうしたの?青龍!」


レイチェルの声にも応じず

青龍は小さな足で奥の部屋へと駆けた。


数分と経たぬうちに戻ってきた彼の手には

柔らかなブランケットが握られていた。


「……アリア様、どうぞお掛けくださいませ」


静かながら、焦燥を帯びた声音。


青龍はアリアの前に膝をつき

ブランケットを丁寧に差し出した。


ソーレンは無言のままそれを受け取り

アリアの肩へとそっと掛ける。


「俺、薪を用意してくるわ」


「うむ。頼んだ」


短く交わされた言葉の裏に

ただならぬ気配が走る──


朝の光は柔らかく、季節は初夏。


なのに

彼らの空気だけが異様に冷たく張り詰めている。


「え?薪?こんなに暖かいのに?」


レイチェルが困惑して首を傾げる。


「いーから。お前も羽織るもん持って来い」


その声は普段の軽さを欠き

抗えぬほどの緊張が滲んでいた。


レイチェルは言葉を呑み込み、静かに頷いた。


そして──


ジリリリリ……ッ!


玄関のインターホンが、鋭く鳴り響き

沈黙の空間に、金属音のような響きが走る。


「ん?配達かしら?わたし、行ってくるね!」


何も疑うことなく

レイチェルは明るい声を残して玄関へと向かう。


その背を、誰も止めることはできなかった。


「おいっ──!……行っちまったか。

……っと、急いで薪を……!」


ソーレンが舌打ちを残し

裏手へと駆けていく音が響く。


張り詰めた空気の中で、アリアの睫毛が震え

青龍の山吹色の視線が

玄関の方を真っ直ぐに見つめるだけだった。



玄関──


「はーい!」


軽やかな声とともに

レイチェルは扉のノブを回した。


しかしその瞬間、彼女の喉は音を失う。


息を呑んだまま

ただその光景を見つめるしかなかった。


扉の向こうに立っていたのは──

まるで〝光〟と〝影〟が

ひとつの世界に並び立ったかのような

対照的な二人の少女だった。


一人は

陽を受けて淡く輝く金の髪を波のように垂らし

雪のように純白の着物を纏っている。


その穏やかな微笑みは

彼女の周囲を光が滲むように包んでいた。


もう一人は

深い夜の闇を溶かしたような

黒褐色の髪を肩まで流し

漆黒の着物に身を包んでいた。


その表情は凛としており

陽の差す玄関でさえ

薄明の静寂に閉ざされるかのようだった。


二人の瞳──片目が深紅、もう片目が鳶色。


互いに鏡のように映し合う左右異色の瞳が

何よりも鮮明に視線に焼き付いた。


十二、いや十五ほどの年頃か──


そして、どこか既視感のある面影が

レイチェルの胸をざわめかせた。


「知らないお姉さんね、ルナリア」


金髪の少女が、目線だけを隣に向ける。


「ええ。初めましての方ですね、エリス」


黒褐の髪の少女もまた、

同じく視線だけを寄せて静かに応じた。


二人の間に言葉を交わす仕草ひとつにさえ

完璧な均衡が保たれていた。


レイチェルは息を詰める。

玄関の空気が、ゆっくりと温度を失っていく。


頬を撫でる風が冷たく

背筋に凍えるようなものが這い上がった。


思わず両腕を擦るその仕草が

場違いなほど生々しく感じられるほどに──


その瞬間

二階から突き上げるような轟音が響く。


──ドタッ!バタバタッ……ドンドンドンッ!


「……?」


天井が微かに揺れ、埃が光を縫うように舞った。


今、二階にいるのは時也だけ──

だが彼が、こんな慌てた音を立てるだろうか。


レイチェルが顔を上げたとき

双子の少女は、互いに微笑を交わした。


「少し、待ちましょうか。エリス」


「ふふ。

支度が整っていないみたいだものね、ルナリア」


その声音は優雅で

彼女たちは

扉の前から一歩も動かず、静かに佇む。


その姿勢の美しさが

かえって異様な圧を放っていた。


レイチェルは、凍りついた喉を無理やり開く。


「……ど、どういう……」


レイチェルの声は震え、言葉が形となる前に

空気が後方から揺らいだ。


──階段を軽やかに駆け下りる音。


「アリアさんっ!

あぁ、良かった……暖かくされてますね!」


朗らかにリビングから響いたのは、時也の声。


その声の裏にあるのは

安堵か、それとも焦燥か──


続いて、穏やかで確かな足取りの音が

玄関へと近づいてくる。


彼の姿が現れた瞬間

空気がわずかに和らいだ気がした。


時也は着物の上に羽織を重ね

まるで冬を迎えるかのような装いで立っていた。


けれどその瞳は、春の陽射しのように穏やかで

どこか少年めいた〝はしゃぎ〟を帯びている。


「エリスさん、ルナリアさん──

よく来ましたね!」


その声に

対のような二人の少女は微かに口元を綻ばせ

揃って優雅に頭を垂れた。


「「──ごきげんよう。〝お父様〟」」


ふたつの声が重なり

まるで静かな祈りのように響いた。


「は……」


レイチェルの口から、間の抜けた声が漏れる。


一拍の間を置き

ようやく意味が追いついた瞬間──


「お、……は?え?〝お父様〟ぁっっっ!?」


その驚愕の叫びが、喫茶桜の玄関に木霊した。


外気は凍りつくように冷たく

だが双子の笑みは春風のように柔らかかった。


その対照が

かえって異様なまでの静寂を生み出す。


〝光〟と〝影〟──

まるで世の理を映し出す、二つの鏡のように。


そして、彼女たちが踏み込んだ瞬間

その冷たい気配は静かに

リビングの奥へと広がっていった。



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