第59話 狂気の桜
夜は静かに、喫茶桜を包み込んでいた。
表の街路は既に人通りを失い
裏庭に差し込む月明かりだけが
石畳を銀に濡らしている。
その片隅で、時也は一本の煙草を咥え
ゆっくりと紫煙を吐き出していた。
白く細い煙は宙に溶け
すぐに夜風に攫われていく。
日中は店主として絶えず気を張り
訪れる客の心に耳を澄ませ続けねばならない。
だが、このひと時だけは肩の力を抜き
静寂に身を委ねられる。
──と。
「⋯⋯あっ、時也さん!」
可憐な声が、裏庭の静けさを破った。
振り返ると──
スカートの裾を翻しながら
レイチェルが駆け寄ってくる。
彼女の頬にはうっすらと赤みが差し
夜風に揺れる黒髪が
その表情を柔らかに縁取っていた。
「お疲れ様です!」
その無邪気な笑顔に、時也はふっと目を細める。
「ふふ。
ソーレンさんではなくて、申し訳ありませんね」
「えっ!?ち、違いますってば!
からかわないでくださいよ⋯⋯もう!」
レイチェルは
両頬をぷくりと膨らませて抗議する。
だが、その仕草すらもどこか愛嬌に満ちていた。
「すみません、つい」
時也は肩を竦め、煙草を口に戻した。
レイチェルは離れた木製のベンチに腰を下ろし
裾を丁寧に整えると
仰いだ夜空に瞳を輝かせた。
「わぁ⋯⋯素敵な皓月ですね!」
「えぇ。今日の月は、とても優しい光です」
月光に照らされた彼女の横顔は
どこか幻想的に淡く輝いていた。
その澄んだ瞳に映る月を見て
時也は心の中で静かに微笑む。
やがて、彼はそっと問いかけた。
「レイチェルさん」
「はい?」
「⋯⋯貴女は、ソーレンさんのことを
どう想っているのですか?」
「──え゛っ!?⋯⋯な、何を急に!」
レイチェルは慌てて顔を向け、耳まで赤らめた。
時也は煙草の火を見つめながら
わざと素知らぬ顔をして言葉を続ける。
「いえね。
いつも彼に視線を送っているのを
僕は見ておりましたから」
「み、見てたんですか!?
え、や⋯⋯そんなことっ!」
「ふふ。
今日のことも嬉しかったのでしょう?」
「そ、それは⋯⋯
まぁ、その⋯⋯助けてくれましたし」
口ごもる彼女の頬は
月明かりに照らされて
ますます赤みを増していく。
視線は泳ぎ
指先が落ち着かないように
スカートの裾を弄んでいた。
「素直になれば良いのに」
「や、やだなぁ〜っ!
時也さんってば、もう!」
レイチェルは勢いよく立ち上がり
腕を振って抗議する。
だがその瞳の奥には
確かに揺るぎない光が宿り始めていた。
彼女は、ふと動きを止め
どこか柔らかな微笑を浮かべる。
「でも、最初はソーレンのこと──
怖い人だと、思ってました」
「えぇ。
無愛想ですが、本当はとても優しい方ですよ」
「⋯⋯そうなんです。
あの人、言葉はぶっきらぼうだけど
誰よりも⋯⋯人を見てる気がします」
「ただ⋯⋯
彼は自ら距離を置くことが多いですからね」
「うん、それはわかるかも。
いつも一歩引いてるっていうか⋯」
「だからこそ
貴女がもっと近付いてあげてください」
「⋯⋯え?」
レイチェルは息を呑み、時也を見上げる。
その真剣な眼差しに
彼女の胸は不思議な高鳴りで満たされた。
「貴女が傍に居れば
彼は、もっと〝人らしく〟なれる。
貴女には、その力があるのです」
「⋯⋯わたし、に?」
「はい」
時也は微笑みながら、桜の枝を見上げた。
夜風に揺れる花弁が
まるで彼の言葉を後押しするかのようだった。
「ソーレンさんには
もう〝倫理観〟があまり
残されていないのかもしれません。
ですが──貴女の笑顔が
その心の奥に残された大切なものを
引き出すはずですよ」
「大切な、もの⋯⋯」
レイチェルは小さく呟き
自らの手を見つめた。
その掌に、自分に託された責任の重みを感じる。
「わたしにできるって、本当に思いますか?」
「えぇ。心から」
時也の即答は、迷いのない響きを持っていた。
その言葉の重さが
彼女の胸に深く刻み込まれる。
レイチェルは小さく息を吸い込み
ぎゅっと拳を握った。
「⋯⋯私、頑張ってみようかな」
顔を上げた時、その瞳には
迷いを振り切った確かな光が宿っていた。
それは、彼女が覚悟を決めた──瞬間だった。
「ふふ。応援していますよ」
時也の言葉に
レイチェルは照れくさそうに笑った。
「時也さんが
こんなに揶揄ってくるなんて珍しいですね⋯⋯」
「えぇ。
貴女とソーレンさんの組み合わせは
見ていて楽しいものですから」
「もうっ!」
くるりと背を向け
レイチェルは軽やかに駆けていく。
その背中が夜の闇に溶けるまで
時也は静かに見送った。
桜の下──裏庭に再び静寂が戻る。
月は白々とした光を投げかけ
石畳の上に冷たい影を作り出している。
時也は静かに
もう一本の煙草に火を点けた。
ライターの小さな炎が風に揺れ
打ち石の乾いた擦過音が裏庭の静寂を裂く。
炎が移ると、赤く燃える先端が
彼の瞳に一瞬、妖しく反射した。
「⋯⋯ふふ。
さて、どうやって背中を押しましょうか」
掠れた声が夜気に溶ける。
白い煙が吐き出され
ゆっくりと冷えた空へと漂い
やがて闇に混じって消えていく。
その吐息と共に
先ほどまでレイチェルと語らっていた時の
穏やかな笑顔は
もう跡形もなく消え失せていた。
残されたのは、硬く沈んだ表情。
微笑の裏に隠してきた──
暗く凍り付いた、本性であった。
「これで⋯⋯
彼の中に残っている
アリアさんへの〝未練〟が消えてくれるのなら。
僕にとって、願ったり叶ったりだ」
その呟きは、あまりに苦い響きを孕んでいた。
それは煙草の灰よりもなお苦く
心臓の奥に沈殿している黒い澱が
言葉となって漏れ出したかのようだった。
脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。
桜から蘇った瞬間──
涙の結晶に自らを封じ
長き絶望を耐え抜いたアリアを救い出した場面。
彼女の頬に触れた時の、氷のような冷たさ。
永劫の沈黙を続けてきたことが
その温度一つで理解できてしまうほど
痛切な感触だった。
だが、その瞬間──
別の声が彼の心に突き刺さった。
〝貴女様に非は無いと、存じております。
お慕いしております⋯⋯アリア様〟
その響きは、ソーレンの声を借りていた。
けれど──違う。
声色は同じでも
その感情の濃度があまりに異なる。
深く、切実で、身を裂かれるような恋慕。
それは、転生を越えてなお残る
〝悲恋の未練〟だった。
(あれは⋯⋯ソーレンさん自身ではない──
彼の中に眠る、前世の魔女の声⋯⋯)
報復に縛られた転生者たちの魂と違い
彼だけは別の鎖に囚われている。
愛を果たせなかった悔恨。
決して叶わぬ恋の、成就を求める亡霊。
時也の手にした煙草が
ピシリと乾いた音を立てて軋む。
握り締める指の力が強まり、先端の火が揺れた。
(それだけは⋯⋯叶えさせる訳にはいかない)
その影がアリアに伸びることを思うだけで
時也の胸は焼け爛れる。
「⋯⋯許せないな」
その囁きは呪詛のように重い。
彼は己の内側に潜む〝獣〟を知っている──
それは、愛の形をした呪い。
慈しみを装った、破壊の衝動。
煙草はその言葉と共に潰され
火種が掌に食い込む。
──ジュッ。
火が肉を焼く匂いが広がった。
瞬間、焼け付く痛みが鋭く皮膚を刺す。
だが、時也は手を離さない。
寧ろ、焼け付く痛みを抱きしめるように
ぎり、とさらに握り込む。
目を閉じれば、あの男の顔が浮かんでくる。
ソーレン・グラヴィス。
粗野で、無骨で、血に塗れ
しかし、人間らしさをどこか捨てきれない──
彼の笑み。
彼の皮肉。
彼の不器用な優しさ。
(今の貴方なら
アリアさんを悲しませることはないと信じたい)
それでも。
もし、その未練がアリアに届いてしまえば。
もし、彼が彼女に触れるようなことがあれば。
(その時、きっと僕は⋯⋯)
掌の痛みが熱となり、意識を灼く。
ようやく煙草の残骸を落とすと
時也の瞳には冷ややかな光が宿っていた。
黒く焦げたフィルターが
石畳の上で無惨に転がっている。
その焦げ跡を見下ろしながら
彼の唇は微かに震えた。
「アリアさんは⋯⋯誰にも渡さない」
呪詛のように冷たい声。
その響きは、自らの胸に突き刺さりながらも
外界に零れ落ちた。
「例え──それが家族のような貴方であっても」
開いた掌は焼け爛れた皮膚がひび割れ
黒く炭化していた。
深く走る裂け目の奥から
ぞわりと何かが動いた。
赤黒い肉の隙間を押し広げるように
無数の緑の小さな蔓がゆっくりと顔を出す。
暗い夜に不釣り合いなほど、鮮やかな──緑。
細く、しかし強靭な繊維質が
脈打つように蠢きながら
じわじわと皮膚の下に根を張っていく。
肉が、土壌のように分け入られていく。
血潮が、栄養として吸い取られていく。
焼け焦げた傷口は、やがて緑の網に覆われる。
ひび割れを縫い合わせるように蔓が絡み合い
再生のための模様を描いていく。
まるで
自然が人の肉を苗床にしたかのように皮膚は閉じ
何事もなかったかのように
滑らかさを取り戻した。
しかし──
そこに刻まれた再生は
生の喜びではなく、異質な不気味さだった。
人の身体が〝植物〟と一体化している光景。
命と命が交わるのではなく
互いの隙間を抉り合いながら癒着していく
背筋を粟立たせる異形の再生。
時也は、その手を見つめた。
表情は変わらぬまま。
だが、胸の内側で何かが軋んだ。
震えが走る。
掌を再び握りしめる。
爪が肉を抉り
再生を終えたばかりの皮膚からは
また血がじわりと滲み出した。
「レイチェルさん⋯⋯」
微かな声が漏れる。
それは呼びかけというより、祈りに近かった。
「どうか、彼を⋯⋯僕から守ってください」
爪の痛みが胸の奥を抉る。
焦燥が身体を裂く。
「僕は⋯⋯ソーレンさんを、傷つけたくない」
喉が詰まり、声がかすれる。
それでも止まらない。
「本当は、友として⋯⋯家族として⋯⋯
心から、笑い合いたいのに!」
言葉が途切れ、涙が零れる。
石畳に落ちる雫は
夜気に吸い込まれるように消えていった。
「嫌だ⋯⋯殺したくない、のに⋯⋯っ!」
ひび割れた声で、小さく震えながら呟く。
その一言が、裏庭に冷たく響く。
(僕は⋯⋯狂っている)
その自覚が、己をさらに追い詰める。
アリアを守るためなら、誰であろうと
それが、友であろうとも
殺めても構わないと思う、自分。
彼は知っていた。
心の奥底にある冷たい声を。
理性をも押し流す、絶対的な執着を。
それは陰陽師としての信条でも
夫としての誓いでもなく
ただ狂気の発露に過ぎなかった。
(でも、ソーレンさんは違う!あの人は⋯⋯)
ぶっきらぼうで、不機嫌そうで、口が悪い。
だが、本当は誰よりも人の痛みを知っている。
傷付いて、踏みにじられても
人間らしさを捨てきれない。
そんな⋯⋯
(本当は、優しい人なんです)
その事実が、時也を余計に苦しめる。
もし、そんな彼が〝愛〟を知ることができれば
前世の悲恋の未練は消えるはずだと信じたい。
「それが、一番いいはずなんです⋯⋯っ!」
だがもし、それでも──
その未練がアリアへ伸びるのなら。
──僕は、彼を躊躇い無く殺してしまう。
「あぁ⋯⋯!嫌だ⋯⋯嫌だ⋯⋯っ」
声が震え、裏返り、涙が滲む。
嗚咽が喉を塞ぐ。
己の中に巣食う矛盾が、胸を裂く。
(守りたい。殺したくない⋯⋯っ!
でも、アリアさんを奪うものなら
例えソーレンさんでも──!)
涙が止まらない。
矛盾と狂気の渦が、己を蝕んでいく。
拳を握り締める力が強まり
爪がさらに肉を裂いた。
血が再び溢れ、滴が石畳を黒く染めていく。
「僕を、とめて⋯⋯」
掠れた声が闇に溶けた。
「頼む⋯⋯レイチェルさん」
消え入りそうな囁き。
「彼の血で、僕の手が汚れないように⋯⋯っ!」
それは祈りであり
懇願であり、呪いに近かった。
夜風が彼の髪を揺らす。
月光は冷たく降り注ぎ
石畳の上に震える影を落とす。
震えた背中を、桜の木が静かに見つめていた。
花弁がひとひら、夜風に散り
時也の肩に落ちた。
その重さは、限りなく軽く。
しかし──
彼の心を押し潰すには
充分すぎるほどの重さを持っていた。




