第58話 穏やかな日常
喫茶桜の店内は、昼時の活気に満ちていた。
カウンター席、テーブル席、奥のソファ席まで
ほとんどの席が埋まり
馴染みの常連の笑い声と
新たな客たちの楽しげな囁きが
柔らかな光とともに店の空気を温めている。
磨き上げられた硝子窓の向こうには
桜の枝が陽光を受けて揺れ
店内には珈琲の焙煎の芳香と
焼き立ての菓子の甘やかな匂いが漂っていた。
「よぉ、兄ちゃん!〝アレ〟やってくれよ!」
陽気な声が響き
カウンターに腰をかけた常連の男が
ソーレンへと声を投げた。
「……あぁ?またかよ」
カウンターの内側で皿を拭っていたソーレンが
気怠げに顔を上げ、短く息を吐いた。
陽を背に受けた瞳は
琥珀のように鈍く光を宿していた。
「いーじゃねぇか!チップ弾むからさ!」
男は笑い、ポケットから
小さく折り畳まれた紙幣をちらつかせる。
「……ちっ。しゃーねぇな」
ソーレンは短く息を吐き、皿を置くと
渋々といった様子で客のもとへ歩み寄った。
(〝アレ〟って……なんだろう?)
ホールを回していたレイチェルは
気になって、視線をそっと向ける。
ソーレンが
客の前にあったカトラリーのバスケットを
手に取った、その刹那──
スプーン、フォーク、ナイフが
触れ合う音を微かに立てながら
銀の羽のようにふわりと宙へと舞い上がった。
「……うわぁ……っ!」
レイチェルは思わず足を止め、息を呑む。
宙に浮かんだカトラリーたちは
まるで重力を忘れたかのように滑らかに連なり
ソーレンの指先の動きに呼応して
円を描きながら
光の輪となって彼の周囲をめぐった。
その銀の輝きは
昼の光を裂き、幻想のような軌跡を残す。
「……幻想的……」
レイチェルの唇から、無意識に声が零れた。
彼女が知るソーレンの〝重力操作〟といえば
重い荷物を軽々と浮かせたり
凄惨な状態のアリアの肉塊を運んだり──
少なくとも
こんな詩的な光景とは無縁だと思っていた。
無骨な彼が、まるで舞を踊るように
静かにカトラリーを操っている。
その姿に、言葉よりも先に
息を呑む音が店内を満たした。
ソーレンが両手を交差させる。
瞬間
──ギィンッ!
空気が鳴動した。
宙に漂っていた銀器たちは
弾かれたように一瞬で歪み
金属が悲鳴を上げるような音を立てながら
捻じれた形に変わっていく。
「おぉ……っ!」
観客のように見つめていた客たちが声を上げた。
金属の残響が消えると同時に
ソーレンは片手で軽くバスケットを振り
歪み、捻れ──
狂おしいまでの造形美を描いて宙に留まる
銀器たちを瞬時に収めた。
テーブルの上に戻されたバスケットへ
興奮気味の常連客が手を伸ばし
一つずつ取り出して確かめる。
どの一本も、真っ直ぐで──
磨かれたように艶やかだった。
「……おぉ!
捻れてたのに綺麗に真っ直ぐになってる!
相変わらず、タネが全くわからんマジックだ!」
「そりゃ、どーも。ほら、チップくれよ」
周囲から拍手が沸き、喝采が店内を包む。
木漏れ日のような笑い声が重なった。
「……すっご!」
レイチェルが思わず声を上げた、その瞬間──
──ぐらり。
(あっ……!)
気付けば
ローラースケートの靴紐が緩んでいた。
足元の不安定さに体勢を崩し
手にしていたトレンチの上の皿が
宙へと舞い上がる。
「わ……っ!」
(しまった、落とす──!)
崩れゆく感覚──
その時、ふわりと何かが彼女の身体を支えた。
「……っと」
低い声が、耳元をかすめる。
気づけば、ソーレンの腕が腰を支えていた。
片腕の力強さが、崩れた均衡を一瞬で立て直す。
彼の指が触れた場所に──熱が伝う。
「……大丈夫か?」
耳元で響いたその囁きに
レイチェルの呼吸が止まる。
同時に、もう片方の手が宙に舞う皿たちを
まるで時を刻むような正確さで
次々と受け止めていく。
──カシャッ、カシャッ、カシャッ……!
金属と陶器の、静かな調べ。
皿は一枚も割れることなく
料理も、ソースも一滴も零れずに
再びトレンチの上へと戻っていった。
店内の喧騒の中で、二人の間だけが
時間を失ったように静まり返っていた。
「……ったく。危なっかしいな、お前」
ソーレンはレイチェルの身体を離し
軽く指先で彼女の額を小突いた。
その仕草は呆れたようでいて
どこか優しさを含んでいる。
「……あ、ありがとう……」
レイチェルは気が抜けたように呟き
胸の奥で心臓の鼓動が、遅れて跳ねた。
頬の紅が、柔らかな陽光の中で一層濃く映える。
「おう。気を付けな?」
軽く肩を叩き
ソーレンは料理を乗せたトレンチを抱えたまま
何事もなかったかのように客席へと歩み出した。
その背に
照れ隠しのような不器用な温度が滲んでいた。
「熱いねぇ!お二人さん!」
見物していた客が茶化すように声を上げると
店内には、どっと笑い声と拍手が沸き起こる。
陽光が差し込む硝子窓の向こう
花弁を纏う風までもが微かに揺れたようだった。
「……ちっ。これは、見せ物じゃねぇよ!」
ぶっきらぼうに吐き捨て
ソーレンは皿を静かに卓へ置いた。
「お待ちどうさん」
その一言だけを残して、カウンターへ踵を返す。
彼の歩く足音が遠ざかる。
その背を見送りながら
レイチェルはそっと胸に手を当てた。
──ソーレンの掌の感触
大きく、固く、それでいて驚くほどに、優しい。
その温もりがまだ
彼女の腰のあたりに淡く残っている気がした。
「……あぁ、もう……っ」
頬に広がる熱を押さえるように
レイチェルは俯いて、乱れた靴紐を結び直す。
その指先まで、どこか震える。
胸の鼓動が
店の喧噪とは別のリズムで鳴っていた──
賑わう客たちの笑い声
カトラリーの触れ合う澄んだ音
料理が運ばれるたびに、歓声が弾ける。
その喧騒の奥
カウンターの中で時也は静かに息を吐いた。
店内の随所に飾られた植物たちが
わずかに葉を震わせていた。
壁の蔦は微かに揺れ
テーブル脇の花々は小さく蔓を伸ばす。
時也の鳶色の瞳が細められ、静かに笑みが宿る。
(……やれやれ)
指先が空中をなぞるように、弧を描く。
瞬間、葉の震えはぴたりと止まり
蔓は静かに縮み
波打っていた葉がもとの穏やかな形に戻る。
指先から漂っていた淡い緑光が
ふわりと溶けるように消えた。
「……ふふっ」
時也は小さく笑みを零し
手にした布巾でグラスを丁寧に拭き始めた。
ほんの数分前
レイチェルがよろめいた瞬間──
時也は咄嗟に植物へ命じ
ソーレンの〝マジック〟として
支える準備をしていたのだ。
あのままソーレンが間に合わなければ
蔓が彼女の身体を包み込んでいたに違いない。
だが、その必要はなかった。
「……杞憂でしたね」
静かな独り言が、硝子の中で淡く反響する。
その響きの奥に、確かな安堵の色が滲んでいた。
カウンター越しに視線を上げれば
ソーレンの背が見える。
無造作に髪をかき上げ
片手でトレンチを持ちながら
人の波を抜けるように歩いていく。
ぶっきらぼうな姿勢のまま
その足取りだけが──
どこか上機嫌な拍を刻んでいた。
その視線の先で
ふと、レイチェルがソーレンの袖を軽く引く。
彼女の唇が動いた。
きっと
「さっきはありがとう」と言ったのだろう。
ソーレンは短く「おう」とだけ返した。
その口元に、微かに笑みが浮かぶ。
その一瞬を見た時也の唇にも
静かな笑みが零れた。
(貴方が、少しずつ〝人〟らしくなっている……
それが、何よりも嬉しいのですよ)
ソーレンは決して〝優しい男〟ではない。
その瞳には
血と暴力の世界で生き抜いてきた者の
冷たさが、今もなお宿る。
人の脆さも、醜さも
誰よりも知っているがゆえに
ときに残酷な決断を選ぶ。
それでも──
彼の奥底には、確かな〝温もり〟がある。
誰かのために手を伸ばし、守ろうとする衝動
それは人としての、最も純粋な在り方だった。
時也は、その本質をずっと見抜いていた。
ふと、視線を横に移すと
アリアもまた、静かに二人を見つめていた。
「……ふふ。
貴女も──同じ気持ちのようですね」
時也は拭き終えたグラスを棚に戻し
そっと目を伏せる。
(こんな穏やかな日々が……
いつまでも続けば良いのですが)
窓の外では、春の陽が柔らかに差し込み
淡い光が店内を包み込んでいた。




