第6話 劫火の怨嗟
「さぞ戸惑われている事と思いますが──」
静かな声が、微睡む空間を優しく揺らした。
「まずは、そちらの粥を。
冷めない内にどうぞ、お召し上がりください」
そう促した時也の声は
まるで凪いだ水面のように穏やかで
感情を過度に揺さぶらぬよう
配慮された音色をしていた。
「後ほど……僕が、説明いたしますね」
柔らかな笑顔が添えられたその言葉に
レイチェルの強張った胸の奥が、僅かに緩む。
だが──その安堵は、儚く崩れ去った。
「と、時也さん!」
裂けるような声が、彼女の喉から迸る。
それは堰を切ったように
記憶の奔流を呼び戻した。
「待ってください!
私、私……さっき、お店で……っ」
声が震え、喉が詰まる。
「女の人を……お客さんを──
こ、殺……して……っ!」
最後の言葉は
掠れた音となってかろうじて吐き出された。
脳裏に焼き付いた光景が
まざまざと再現される。
ナイフの鈍い手応え。
柔らかな肉が裂け、骨に当たる感触。
弾け飛ぶように迸った、鮮血の赤。
「──っ」
耳の奥で、心臓の鼓動が爆ぜるように響く。
目の前の景色が、ぐらりと揺れた。
(夢じゃない……!
あれは、夢じゃない……っ!)
意識の奥底が、冷たい現実で満たされていく。
息が詰まり
ただ、震えることしかできなかった。
だが──
「ご心配なさらず……」
時也の声は、変わらず柔らかだった。
「彼女なら──
彼処の席で、ずっと貴女を案じていましたよ」
「え……?」
静かに伸ばされた時也の指先が
ある一点を示す。
レイチェルは恐る恐る
その先へと視線を向けた。
──視線の先。
椅子に腰かけていたのは、あの女性だった。
血の気のない陶器のような白い肌。
金糸を紡いだような、絹の長髪。
伏せられた睫毛は黄金に光り
静かに閉じられた瞳の奥には
何か深い沈黙が宿っていた。
(……う、そ……生きてる……?)
目を疑った。
あれほど深く何度も刺したというのに──
その首筋にも、腕にも、服にも
血の痕一つ残っていなかった。
まるで、最初から何も無かったかのように。
「……っ!?」
困惑が頂点に達したその時。
その長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
深紅──
血のように濃く、宝石のように輝くその瞳が
まっすぐに此方を見据えた。
レイチェルの身体が強張る。
その視線には
怒りも、恐れも、憎しみも──何も、無かった。
ただただ、無機質な静けさだけがあった。
(どうして……あんな事を、したのに──っ)
視線が離せなかった。
背筋を冷たい汗が伝い
指先まで氷のように酷く冷えていく。
その時、ふいに。
──ぽん、と。
背に、優しく添えられる掌。
時也だった。
その手の温もりは
不思議と現実へと引き戻してくれるようだった。
「大丈夫ですよ」
その声は、ただそれだけで
全てを包み込むようだった。
「先ずは……粥をどうぞ。
お話は、その後で──ね?」
安心させるように、微笑むその顔に
ようやくレイチェルの呼吸が落ち着いていく。
震える手でスプーンを取り
粥の中へと沈めた。
とろりとした米が
塩の淡い風味と共に、喉を滑る。
生姜と出汁の優しい香りが広がり
冷えた身体を、じんわりと満たしていく。
(……あったかい……)
なのに──
直ぐにまた、背筋が強張ってしまう。
彼女の視線が
ずっと此方を離さずに向けられている。
何の感情も感じ取れない
その無表情の双眸が──余計に恐ろしかった。
(うぅ……味が、しない……)
粥の温かさも、繊細な味わいも
恐怖に支配された感覚は
何一つ受け入れてくれなかった。
それでも、時也の微笑みに促されるように
スプーンを止めることなく
最後まで口へと運んだ。
完食を迎えたその瞬間、ふっと──
重石のように圧し掛かっていた胸の痛みが
ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
(お腹が、満たされたから……?)
不思議な安堵が、微かに息を楽にする。
その時──
「では……ご説明いたしましょう」
時也が口を開いた。
その声音も、相変わらず柔らかかった。
だがその優しさの奥に、ほんの一瞬──
翳りのような哀しみが、滲んだ気がした。
「彼女の名前は、アリア・ミッシェリーナ。
僕の妻であり
〝不死鳥〟という神をその身に宿す──
〝魔女〟の一族の末裔です」
「え?……不死鳥……?魔女……?」
耳に届いた言葉の全てが
どこか現実味を欠いていた。
だが、時也はそのまま語りを続けた。
「不死鳥は本来〝光の神〟なのですが……
その強すぎる光は
故に、濃すぎる闇を生むことになります」
静かな語り口。
まるで何百年も前の物語を
語り継ぐかのように──
「その闇に魅入られた不死鳥は
五百年程前、魔女狩りを引き起こしました」
「……魔女狩り……あの、歴史で習う?」
その言葉に、レイチェルは
どこか既視感のような痛みを、全身に感じた。
「不死鳥は人間を唆し、魔女を襲わせたのです。
憎しみの連鎖を広げ、絶望を喰らい──
己の力とするために」
言葉がゆっくりと、しかし確かに胸を打つ。
「ですが、魔女達は──
人間の扱う炎如きでは死にません」
「え……?」
「魔女とは──
貴女のように〝特別な力〟を持つ者の事。
本来は人と変わらぬ存在ですが……
その力ゆえに忌み嫌われ
迫害され続けてきたのです」
「……私の、ような……」
その一言に
レイチェルの中で何かが繋がり始める。
「人間達は、魔女達を確実に殺す術を求め
彼女──アリアさんに目をつけました。
不死鳥の炎なら、確実に彼女達を滅ぼせると」
「……まさか……」
「人間に一族を人質に取られたアリアさんは……
自らの手で、仲間達を、魔女達を──
殺してしまったのです。
その、不死鳥の炎で⋯⋯」
「──っ……!」
美しすぎる彼女の静けさが、胸を締めつける。
「同胞を自らの手で葬った彼女の
深い絶望を喰らい⋯⋯
不死鳥は、その味と力に魅了されてしまった」
「絶望を、喰らう……」
「ええ。
深い苦しみ、悲しみ──
そして、身を焦がすほどの怨嗟。
それこそが、不死鳥の糧なのです」
レイチェルの指先が、シーツを握りしめる。
「そして不死鳥は人間たちに
秘密裏にその業火を授け
彼女の一族をも──今度は殺したのです。
絶望を極限にまで深める為に⋯⋯」
「……酷すぎる……」
「殺された魔女たちは⋯⋯
どれ程の無念を抱えたことでしょう。
信頼していた筈の彼女に
焼き尽くされたのですから⋯⋯」
「……⋯⋯っ」
レイチェルは喉が詰まるようだった。
「不死鳥の業火で焼かれた魂は
転生しても尚、怨みに苛まれ続けています。
それ故に貴女のような転生者達は
何も知らないまま、アリアさんを憎み
報復の衝動に駆られてしまう⋯⋯」
「⋯⋯だから、私⋯⋯」
あの時
ナイフを振り下ろしながら
喉を突いて吐き出された言葉。
──何故です⋯⋯何故っ!
〝私達〟を、裏切ったのですかっっっ!!
自分でも理解できなかった
その言葉の意味が、漸く繋がった。
「だから、どうか──
ご自分を責めないでください」
優しく背を摩る時也の手が、温かく感じた。
「でも……」
「貴女の心が望んだわけではないのです。
魂に刻まれた苦しみが
無意識に貴女を追い詰めたのですから」
時也は、ふと遠い眼差しを見せる。
「不死鳥は本来、光の神として在るべく
五百年に一度──
魔女に討たれ、産まれ直して
闇を祓わねばなりません」
「……産まれ直し……?」
「はい。
そして、僕はそのために──」
彼の瞳に、静かな決意の色が灯る。
「彼女を
不死鳥の呪縛から〝解放〟するために──
現代に転生した魔女達を集めているのです」
その言葉が、まるで小さな焔となって
レイチェルの胸の奥に灯った。
まだ、その言葉の意味を真には咀嚼できないまま
それでも──鳶色の瞳を見つめた。
その柔らかな笑顔の裏に
哀しみの色が混じっているように見えた。
「⋯⋯⋯⋯」
この人は、きっと〝全てを背負っている〟──
彼女の魂も、その罪も、その過去も。
レイチェルは、何も言えずに、ただ静かに──
その眼差しを見つめ続けていた。
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アリア・ミッシェリーナ
イメージ画像
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