第56話 お袋
夜は、すでに更けていた。
喫茶桜の居住スペースには
灯りの柔らかな明滅と
紙の擦れる音だけが残っている。
机上には、仕入れ先の帳簿や経費の記録が
几帳面に整列していた。
紙の白は灯火に淡く溶け
インクの線が影のようにその上を滑る。
時也は
静かな呼吸と共に羽根ペンを走らせていた。
ペン先が紙を撫でる音が
微かな波紋のように空気を震わせる。
この夜の静寂を乱すものは何ひとつなかった──
ただ、その匂いが漂ってくるまでは。
──ふわり
鉄錆のような、乾いた血の匂い。
それは
夜気に滲む予感のように、時也の感覚を刺した。
眉をひとつ顰め、彼は顔を上げる。
長い睫毛の影が頬を掠め、静かに苦笑を結ぶ。
(……やれやれ。
派手に〝愉しまれてきた〟ようですね)
諦念の奥で、深く息を吐く。
そして
椅子を押し退ける音すらも丁寧に立ち上がると
用意してあった服とタオルを腕に抱え
玄関へと向かう。
廊下を渡るたび、足音が木の床を低く鳴らした。
「おーい。開けてくれよ!」
玄関の向こうから響くのは、聞き慣れた声。
その調子の軽さとは裏腹に
扉の隙間から漏れた気配は濃く、重かった。
──カチャリ
扉の鍵が静かに開かれる。
月光が差し込む中に立つ男──
血と硝煙の匂いを纏い
返り血に染まったソーレンが
獣のような気配を背負って笑っていた。
「……ずいぶんと、ご機嫌ですね」
時也は、血と煙の混じる空気を片手で扇ぎ
わずかに顔を背けながらも
ソーレンへとタオルを差し出した。
「足を拭いてから上がってください。
真っ直ぐお風呂にお願いします」
「なぁ。洗ってくれよー、ママ!」
無邪気にも似た、巫山戯た声音。
その言葉に
時也の鳶色の瞳が冷ややかに細められる。
「血と殺しで昂ぶった貴方は──
本当に厄介で面倒ですね。
馬鹿なことを言ってないで
早く、狂犬から人間に戻ってきてください」
「へいへーい」
ソーレンは肩を竦め
ご機嫌な鼻歌を零しながら靴を脱ぎ、足を拭く。
そして、廊下を抜け
軽い足取りでバスルームへと消えていった。
その姿は
血塗れの夜を楽しんだ男とは思えぬほど
暢気で──
だがその背に漂う赤は
まだ〝物足りなさそうに〟熱を帯びていた。
その足跡に、ぽつり、ぽつりと赤い雫が落ち
時也はそれを一瞥し、静かに眉を顰めた。
「……はぁ」
その背を見送りながら、静かに長く息を吐き
脱ぎ捨てられた靴とタオルを腕に抱えると
彼もまた、静かにその後を追う。
バスルームの脱衣場では
ソーレンがもう服を脱ぎ始めていた。
血に濡れたシャツが床に落ちる寸前──
時也の指が、それを掬い上げる。
「雑に脱がないでください。床が汚れます」
「へいへい……ママの言う通りにな?」
軽口の裏に、湯気のような余韻が漂う。
ソーレンが浴槽にその巨躯を沈めると
湯の表面が爆ぜるように跳ねた。
──ザバァッ
紅を溶かしたような湯が、タイルの上に滴る。
血と泥が混じり
まるで夜の墨が床を染めるかのようだった。
衣と靴を抱えたまま、時也も無言で中へ入る。
「なんだよ?マジで洗ってくれんのか?
悪いが、俺にそんな趣味は無いぜ?」
挑発するように湯の中で腕を広げる男に
時也は一瞥をくれて淡く答える。
「えぇ。洗うのは──貴方の服、ですが」
その声には
微かな皮肉と、静かな慈しみが混じっていた。
時也は袖を襷で束ね
床に置いた衣服を前に、静かに椅子に腰掛ける。
指先は、血に沈んだ布を掬い上げ
石鹸の泡を纏わせた。
血の色は容易く消えぬ──
布の奥に絡みついた紅が
まるで記憶のように離れようとしない。
時也は黙したまま、泡立つ水面に指を沈める。
指先に伝う温もりが、夜の冷たさと溶け合う。
「……なぁ」
浴槽の縁に背を預け
暫く時也の動きを黙って見ていたソーレンが
低く呟いた。
水音と布を擦る音の合間に落ちるその声は
先程までの軽口とは異なり、どこか沈んでいた。
「なんです?
何度言われても、洗ってあげませんよ?」
時也は手を止めずに答える。
衣服を洗う指先は静かで
紅く泡立つ光景だけを真っ直ぐに見ていた。
「違ぇよ」
短く吐き出された声に
先程までの軽薄な響きは無かった。
「……お前、人数、読み間違えたろ?」
その一言に──時也の指がぴたりと止まる。
石鹸が滑り落ち、床に転がる音だけが
しばしの沈黙を埋めた。
「……はい?」
鳶色の瞳がわずかに動き
湯気越しにソーレンを見やる。
「六人じゃなくて、五人だったぜ。
〝俺が〟尋問して確かめたんだ」
ソーレンは浴槽の縁から身を起こさず
湯面をじっと見つめていた。
血の色がまだ消えぬその水面は
夜の闇を映す鏡のようだった。
「……まさか、僕が読み違えるなんて──」
時也の声には
驚愕よりも静かな違和感が滲んでいた。
読心術を持つ彼の読みが外れるなど
本来あり得ぬことだった。
「だよな?
お前に限ってそんな事はねぇって
俺が一番分かってる……」
ソーレンはそう呟くと
天井を仰ぎ、しばし黙した。
天窓の向こうで、遠雷がかすかに光を落とす。
それは血の気配を照らす一瞬の閃きだった。
「……まぁ、アジトに帰ったのかもしれねぇが」
「駆除は、もちろん済ませたのでしょう?」
時也の声は低く、冷たい。
水面を流れる湯の音に紛れても
確かな硬度を帯びていた。
「一匹残らず、な。
だから、そん中に居るかもしれねぇ。
──だが、なぁんか妙だ」
ソーレンの言葉には
確信めいた違和感が潜んでいた。
まるで皮膚の裏に何か這うものを感じるような
粘ついた感覚がその声音を掠める。
「……気を付けるに越したことはありませんね」
時也は静かに返した。
その声色は、どこか祈りにも似た慎重さを孕む。
湯が、浴槽からタイルに滴り落ちる音が響き
その一音一音が、静寂の中で異様に重く響いた。
湯の表面には
まだ血の紅が薄く漂っている。
その揺らぎは、まるで夜の底で息づく影のように
形を持たず、しかし確かにそこに在った。
時也はその赤を見つめたまま
ひとつ、深く息を吐いた。
「……今度からは
返り血を浴びないで帰ってきてください。
貴方なら──造作もないでしょう?」
淡い皮肉の中に、微かな憂いが宿る。
濡れた衣服を丁寧に絞り
布の雫が床に落ちるたびに
鉄の匂いが淡く広がった。
「それに──」
「なんだよ、まだ文句あんのか?」
「血の染み付いたものがあれば
レイチェルさんも心配されますよ。
彼女は、この類には──不慣れなんですから」
その声は、叱責というよりも
どこか母性めいた優しさを帯びていた。
襷紐を解き、静かに立ち上がる。
時也はもう一度だけ湯気の向こうを振り返り
小さく溜息を洩らすと
扉の向こうへと姿を消した。
「……〝お袋〟ってもんが居たら
あんな感じなのかねぇ?」
ひとり残された浴室に
滴る湯の音と、ソーレンの呟きが残る。
その言葉は冗談めいていたが
湯の波紋は、どこか寂しげに広がっていった。
ソーレンは湯気の中で静かに肩を回し
まだ肌にこびりついた血を洗い流した。
紅がさらに水面に広がるたび
浴槽はまるで
誰かの記憶を溶かしていくように濁っていく。
シャワーの蛇口が締まる音が響き
滴る水音と共に扉を開けると
石鹸の香りが
血と硝煙の匂いをようやく押し退けた。
「……はぁ。どうにも──引っ掛かるな」
低く漏らした声は、湯気よりも重く空気に沈む。
⸻
自室の扉を乱暴に押し開け
ソーレンはそのままベッドに腰を下ろした。
濡れた髪を乱雑に拭いながら
心の奥に貼り付いた違和感を
どうにも振り払えずにいた。
「そういや──
ガキの頃、狩ったハンター共……」
その呟きと共に、遠い夜の記憶が滲み出す。
血と煙の中で息を潜め
野良犬のように街を彷徨っていた──あの頃。
アリアというお宝の噂に惹かれ
街には無数のハンター達が流れ込んだ。
──最初、奴らは異様に〝馴染んで〟いた。
まるで長年そこに暮らしてきたかのように
市場で野菜を選び、人と談笑し
笑い声までもが一般的で自然だった。
そのどこにも、血の匂いなど欠片も無かった。
「……そうだ、あの感じだ」
ソーレンは目を細め
濡れた髪先から滴る雫の音を聞いていた。
─昼は市民の顔、夜は狩人の目─
夜が訪れるたびに、瞳が獣のそれに変わる。
まるで──スイッチが切り替わるように。
「……あの時も、そうだった」
拳がゆっくりと鳴る。
昼間に捕らえた者たちは
皆がただの素人のように震えていた。
痛みに泣き、怯え、命乞いを繰り返した。
だが──
再び狩人の顔を取り戻した奴らは
一切の感情を見せなかった。
折られた骨の痛みにも沈黙を貫き
鋭い目でこちらを測る。
同じ人間とは、到底思えなかった。
(──あれは、操られていたに違ぇねぇ)
当時のソーレンは
無意識にその感覚を掴んでいたのだろう。
〝人を意のままに操作する〟何者かの存在を。
ソーレンは拳を握り、息を深く吐いた。
──あの五人。
どれほど痛めつけても
もう一人の存在を口にしなかった理由。
もし、その記憶ごと──
消されていたのだとしたら。
もう一人の存在を
最初から〝知らない〟ように
書き換えられていたら?
腑に落ちた。
あまりに自然に──
「……記憶が無ぇなら
いくら締め上げても答えようがねぇよな」
冷えた声が、部屋の空気を震わせた。
しばらく沈黙の中で息を整え
ソーレンは拳を開いた。
(……明日、時也に話してみるか)
思考がまとまると同時に
頭の中のざわめきが、すっと静まっていく。
「……ふあぁぁ」
大きな欠伸。
肺の奥に冷たい空気が入り込み
その冷たさが、生を感じさせた。
どっと疲労が押し寄せる。
ソーレンはタオルを枕元に放り投げ
ベッドへ身を沈めた。
枕に顔を埋めると
微かな柔軟剤の香りが鼻を擽る。
その人間臭い香りに
少しだけ現実へ引き戻される気がした。
目を閉じると、闇が音もなく満ちてくる。
「……ったく、面倒だな」
小さな独り言が、部屋の天井に届く前に溶け
ソーレンは深い夜の底へと沈んでいった──




