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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
寄りし影

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第53話 もりの くまさん

「……9、8、7──っ!」


背後から聞こえる声は、焦燥に濡れていた。


息の詰まるような空気が張りつめ

森の静寂が、いっそう鋭利に感じられる。


普通の人間ならば──

カウントが進むたび

冷たい音の刃が背筋を撫でるように思うだろう。


だが、ソーレンは微動だにしない。

両腕を挙げたまま、わずかに首を傾けるだけ。


押し当てられた銃口の照星(しょうせい)

シャツ越しに肌を抉り

冷たい鉄の感触を刻みつける。


浅く息を吐き、眉を僅かに寄せた。


(……ちっ!ド素人が──)


苛立ちと共に、ある男の顔が脳裏を過った。

皮肉を覆い隠した、穏やかな笑みだ。


その顔を思い浮かべた瞬間──

ソーレンの口端が歪む。


「……おい」


低く、くぐもった声。

焦燥の気配をも切り裂くように落ち着いていた。


いや──呆れが滲んでいたのかもしれない。


「シャツに穴を空けんなよ?

ウチの店長様は、身嗜みに細けぇんだわ」


その軽口は

火薬の匂いよりも鋭い挑発そのものだった。


「うるさい!黙って情報を吐け!

……6、5、4──っ!」


声が震えていた。

焦りと恐怖が混じり、息が詰まりかけている。


ソーレンの笑みが深くなった。


震える指先、上下する肩

わずかに揺れる銃口──


それら全てが、相手の未熟さを物語っている。


(カウントで恐怖を演出しようなんざ

肝の据わらねぇガキの常套(じょうとう)だ)


虚勢を張る声。

それに宿るのは殺意ではなく──怯え。


「おいおい」


ソーレンは肩を竦め笑った。

その笑みは、冷たく歪んだ刃のようだった。


「黙ればいいのか、喋ればいいのか……

なぁ、どっちだよ?」


くつりと、乾いた笑い声が空気を裂く。


引き金がわずかに引かれた音が

耳の奥で、鈍く響いた。


銃口がまた深く押し込まれ

鉄の冷たさが、肉を押し潰す。


(……調子に乗ったな、クソが)


ソーレンの瞳が、静かに細まった。

琥珀の光が、夜の中で獣のように光を宿す。


その瞬間、彼の笑みは完全に冷たくなった。


「……3、2、1──クソ野郎がッ!」


背後の叫びが空気を震わせる。


──ガチャリ


銃口が僅かにずれた。

背中の中心から、脇腹へ。


男は、殺すつもりはなかった。


生かしたまま痛めつけ

情報を引き出すつもりだった。


──パンッ!


銃声が、森の夜を裂いた。

しかし、その直後。


──ドッ!!


銃口が、まるで逆流するように火花を散らした。

乾いた爆音と共に、閃光が闇を焼く。


「うあ゛ぁあああっ!!」


悲鳴が、木々を震わせた。


右手は捻じ曲がり、骨ごと砕けていた。

血が弾けるように飛び散り、土を濡らす。


銃は吹き飛び

男は呻きながら地面を転げ回る。


その一方で──


放たれたはずの弾丸が、宙に留まっていた。


ソーレンの背の前、シャツすれすれの空間に

弾丸は鋭く回転しながらも、静止している。


重力の檻に囚われたように

空気がその一点で捻れていた。


やがて回転が止まり

弾丸は、乾いた音を立てて地面に落ちていく。


「……くそ、が……ぁ……っ!」


地に転がる男の呻きが、森に滲む。


ソーレンは、その声を背で聞きながら

ゆっくりと振り返った。


琥珀の瞳が、光を殺し

夜の闇を吸い込むように細められる。


その瞳に映るのは

退屈か、それとも──狩りの愉悦か。


森は、沈黙を始める。


風も息を潜め

ただ、破壊の余韻だけが静かに漂っていた。


「……化け物を護る奴も──

化け物ってことかよッ!」


血に染まった右手を押さえ

男は、痛みと恐怖に震えながら叫んだ。


その刹那──ソーレンの目が変わった。


さっきまでの悪戯めいた光は掻き消え

そこに宿ったのは、底なしの闇。


氷のように冷たく

狂気に濁った光が瞳孔の奥で蠢く。


「……俺のことは、どうでもいいがな」


言葉とは裏腹に

その声は血を啜るように低かった。


ソーレンは一歩、また一歩と近づく。

足音は驚くほど静かだ。

だが、その静けさこそが、恐怖だった。


まるで、地の底から響く地鳴りのように

空気そのものが軋み始める。


「──アイツは好きで

あんな身体になった訳じゃねぇんだよ」


静かな怒声だった。


それは激情ではなく

深い断層から滲み出るような憤怒。


次の瞬間、ソーレンの右手が閃いた。

掴み取る動きは一瞬だった。


男の首を鷲掴みにし

そのまま宙へと持ち上げる。


「ぐっ──!」


男の喉から、潰れたような音が漏れる。


両足が宙を蹴り、必死に逃れようと藻掻くが

ソーレンの指は微動だにしない。


その掌には、圧倒的な重力が宿っていた。


「……なぁ」


囁く声が、耳元に落ちる。


「知ってるか?

宇宙空間に、生身のまま放り込まれた人間が──

どうなるか」


淡々とした声音。

あまりにも穏やかで、あまりにも残酷だった。


「教えてやるよ……その身で味わいな」


その言葉と共に

空気が、悲鳴を上げるように歪んだ。


──ズズズ……


周囲の大気が引き絞られる。


木々が軋み、葉が逆巻き

音という音が押し潰されるように消えていく。


圧力が、世界をねじ伏せていた。


「──あ゛……が、ぁ……っ!」


空気の圧が下がり、分子が拡散する。

圧力の崩壊は、人体の沸点を狂わせる。


体内の水分は、急速に沸騰を始め──

血液でさえ、泡立つ。


吊るされた男の肌の下で

無数の気泡が膨れ上がった。


筋肉が裂け、皮膚の表面が不自然に波打つ。


耳や鼻から血が噴き出し

眼球の裏で血管が破裂を始める音が

直接脳に響く。


「や……めっ……」


掠れた声は、音として響かない。


命乞いに口を開いたとて──

空気はもうそこに存在しないのだから。


そのすべてを見下ろすソーレンの瞳は

一片の感情も浮かべていなかった。


琥珀の瞳に無慈悲な光が宿り

口端がゆっくり、歪む。


「……まだ──始まったばっかりだぜ?」


その声は

地の底の煉獄から這い上がるように低く

森のすべてを凍りつかせた。


夜の闇が──悲鳴を呑み込む。

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