第52話 たのしい おつかい
喫茶桜の裏庭には
ひと筋の静寂が流れていた。
夕暮れの光が柔らかく地を染め
空気は澄みきっている。
桜の枝々がわずかに揺れ
散り際の花弁が風に乗っては、儚く宙を舞った。
淡い花の香が漂い
静かな息づかいのように庭を包み込む。
その片隅に、ソーレンは立っていた。
指先に挟んだ一本の煙草が
白い息のような煙を細く吐き出す。
吸い込み、吐き出すたびに
葉の苦みと仄かな甘みが胸の奥に溶け
苛立ちの澱を少しずつ拭い去ってゆく。
「……ふぅ」
吐息は静寂へと溶け、音さえも霞んでいった。
だが──
その静けさの裏で、何かが蠢いている。
目には見えぬ気配が
風の流れの底にひそやかに潜んでいた。
(……時也、聞こえてるか?
多分〝アレ〟が、また湧いてんな)
思念が心の内で響く。
読心術を持つ男なら
この声はすぐに拾うはずだ──
そう確信して
ソーレンは再び煙草を唇に挟んだ。
火は静かに赤く灯り
薄闇の中で一瞬、夕陽よりも深く輝いた。
吐き出された煙は細く
溶けるように空へと昇っていく。
(……最近、多いな。こないだの残党か?)
視線を細め、彼は庭の違和感を探る。
夕暮れの庭は穏やかに見えながらも
空気の密度は妙に重く
風の粒子までもが張りつめていた。
しばらくして、背後から砂を踏む音が近づいた。
音で誰かを識る──その一瞬に
彼の口角が、僅かに上がった。
「……遅ぇよ」
低く呟く声に、返すように衣擦れの音がした。
藍の着物の裾を揺らし、時也が静かに並び立つ。
その所作はゆるやかで、どこか品を帯びていた。
懐から煙草を取り出し、唇に当てる。
カチリ──
ソーレンのライターが灯る。
小さな炎が揺れ、時也の頬を仄かに照らした。
火が先端を染めると、彼は横を向き
細い煙を吐きながら遠くを見つめた。
その瞳には、沈む陽よりも深い光が宿っていた。
「ソーレンさん」
穏やかな声が風に乗って届く。
その響きは柔らかくも
芯のある静寂を孕んでいた。
「では……御遣い、よろしくお願いしますね」
時也が差し出した小さな紙片を
ソーレンは片眉を上げて受け取った。
「はいよ。ったく……人遣いの荒い店長様だな」
皮肉を含んだ声に
時也は小さく肩を竦め、微笑を浮かべた。
「お手数をおかけします。
でも、貴方なら問題ありませんから」
その笑みは柔らかい──
だが、その奥に何か別の意図が潜んでいるのを
ソーレンは感じ取っていた。
「分かってるよ」
煙草を足元で揉み消し
紙片をポケットに押し込む。
軽く片手を上げると
彼は夕映えを背にして歩き出した。
「んじゃ、行ってくるわ」
その背が遠ざかるのを
時也はしばらく見送った。
目を細め、静かに煙を吐く。
淡く舞い上がった煙は
やがて靄のように溶けてゆき
夕空の金に消えた。
「ご無事で──なんて言葉は
あの方には必要無いのでしょうが」
誰にともなく零したその言葉だけが
裏庭の静謐に吸い込まれるように消えていった。
⸻
夕暮れの空が
薄紅から紫へと静かに沈みゆく頃。
丘の上から見下ろす景色は
燃えるような光を失いながらも
まだどこか温かった。
ソーレンはその中を
ゆるやかに歩を進めていた。
足元で乾いた石畳が軋み
踏みしめるたび、小さく砂利が弾ける音がする。
風が頬を撫で、背丈のある草がざわめき
その音は──
世界が呼吸しているように穏やかだった。
──だが、その静寂の下には
確かな殺気が潜んでいた。
(……五人。
は!舐めた数だな──偵察か?)
その気配は距離を取って動いている。
だが、風向きの僅かな揺らぎで
その在り処は容易に読めた。
「……下っ手くそ」
小さく吐き捨てる。
彼らは隠密のつもりなのだろう。
しかし、呼吸の間隔、踏み音の乱れ
乾いた小石が靴裏で弾けるたび
拙さが露わになる。
そのすべてが──死への前奏に過ぎなかった。
ソーレンはあえて道を逸れ
森の中へ足を踏み入れた。
陽光は葉の影に遮られ
世界はひときわ深く、冷たく沈む。
ポケットから取り出したのは
時也の書いた紙片。
『六名様 銃所持有り
転生者無し ハンター確定
拠点がある可能性、有り』
「ふん……メモでまで、お上品なこった」
苦笑と共に、鼻で息を漏らす。
(六人?……は、そういうことか──)
五つの未熟な気配の背後に、ひとつ。
深く潜み〝完璧に〟呼吸を殺している影がある。
それは、狩り慣れた手の者。
群れを守る檻の鍵を握る──ひとり。
「……面倒くせぇ」
掌で紙片を握り潰し、無造作に森の奥へと放る。
乾いた音を立ててそれが落ちた瞬間──
空気の密度が変わった。
一歩、また一歩。
ソーレンは木立の間を抜け、足を止める。
何気ない動作のように見えるが
そこに張られた罠は、あまりに精密だった。
「……っと」
彼はわざと周囲を見渡し、一本の樹の前に立つ。
ベルトに手を掛ける仕草。
人払いの理由にするには、それで充分だった。
(さあ──来い)
わざと生じさせた隙を餌に
背後の気配が動き出す瞬間を、待つ。
空気が震える。
木々が一瞬、風を止めた。
次の瞬間。
──ゴリッ
背に押し付けられたのは、鉄の冷たさ。
「……動くな」
掠れた声
焦りと恐怖の滲んだ呼気が
耳のすぐ後ろで震える。
ソーレンは、ベルトに添えていた手を離し
ゆっくりと両腕を上げた。
口元に、笑みが浮かぶ。
まるで猫が爪を隠すような、静かな笑み。
「不死の血を持つ者を……知ってるな?」
低く抑えた声。
だが、喉の震えが緊張を隠せていない。
「……あぁ?不死だぁ?」
ソーレンはわざと眉を顰め
不機嫌そうに息を吐いた。
「俺はただのウェイターだぜ?
知るかよ、んなもん」
吐き捨てるような言葉。
同時に、体の力を抜き、わざと無防備を装う。
銃口の圧が、さらに強く背に押し当てられる。
鉄がシャツを裂きそうなほどに。
「風穴が空いてから命乞いしたって遅いんだ。
洗いざらい話してもらおうか。
十秒だけ──待ってやる」
(十秒、ねぇ……)
ソーレンの瞳が、琥珀色の光を宿して細くなる。
嘲りの気配が、口端に浮かんだ。
(尋問の手順も知らねぇとは……
はぁ。お遊戯にもならねぇな)
彼の眼差しは、獲物を見据える獣のそれだった。
その奥にあるのは、怒りでも怯えでもない。
──愉悦。
唇が静かに歪み
喉の奥から、冷たく湿った笑いが漏れた。
(さぁて。
どこまで壊れずに──遊べるか、だな)
夕闇が森を包み込む。
風が止み、鳥の声すら途絶えた。
闇の中で──獣が目を開いた。
水面に映る月のような、琥珀色の殺意を孕んで。




