第51話 それぞれの心配り
夜気はまだ醒めやらず
薄く滲む月光が
窓辺のカーテンを透かして床を照らしていた。
「うぅ……」
微かな呻きとともに
時也の腕に抱かれていたレイチェルが
ゆっくりと目を開く。
ぼやけた視界の中で、最初に感じたのは──
温もりだった。
静かな鼓動と、確かに自分を支える力強い体温。
その感触が、まだ夢の続きのようで
思わず彼女は小さく息を吐いた。
「うわぁ……
泣いてる時也さんって、色っぽすぎて……
破壊力ばつぐんの夢だわ……」
寝言のような呟きが
静かな室内にふわりと零れる。
それを聞いた時也は、思わず小さく笑った。
「ふふ……
夢かどうか、頬を抓って差し上げましょうか?」
穏やかな声に
レイチェルの意識が一気に冴える。
「へ……?ほ、本物の時也さん!?
雪音さんが
私の言いたいこと言ってくれる夢見てて──
あれ!?」
慌てて身体を起こそうとするが
まだ全身に残る疲労が彼女の動きを鈍らせる。
布の中で藻掻くように動くその姿に
時也は苦笑しながら肩へ手を添えた。
「無理をなさらず……もう少し休んでください」
その声音には
深い夜の静けさのような優しさがあった。
レイチェルが顔を上げると
鳶色の瞳が彼女を見つめている。
涙の痕を残したままのその目には
痛みと温もりが同居していた。
「……時也さん、その顔は……反則よ……っ」
思わず漏らした言葉に
彼はわずかに頬を緩めた。
「おかげで
僕が良い夢を見させていただきました。
……ありがとう、レイチェルさん」
その声は震えを帯びながらも
どこまでも穏やかだった。
その一言が、彼女の胸の奥を静かに熱くした。
──その時。
「おい。見ろよ、アリア。
お前の旦那の──浮気現場だぜ?」
不意に響いた声が、静寂を裂いた。
時也とレイチェルの肩が同時に跳ね上がり
顔を上げる。
扉の前には、ソーレンが立っていた。
腕にはアリアの身体を軽々と抱きかかえ
その視線はどこか呆れ半分、笑い半分。
「──アリアさんっ!?
い、いえ、これは決して!浮気などでは!!」
慌てふためく時也の声が裏返る。
「いやいや。
女の部屋で抱き合ってちゃ──なぁ?
言い訳は見苦しいぜ。なぁ、アリア?」
ソーレンは口の端を上げ
腕の中のアリアを軽く揺すって抱き直した。
彼女は無言のまま
深紅の瞳でじっと時也を見つめている。
「……と言いますか!
なぜ、アリアさんを
貴方が抱きかかえているのですか!?」
問われたソーレンは
さも面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「あぁ?
お前が戻ってこねぇから
アリアが階段下で動かねぇんだよ。
一緒に行こうって言っても反応しねぇし。
だから、連れてきてやったんだ。
ありがたく思え、浮気野郎」
「……そう、でしたか……」
時也は安堵と気恥ずかしさが入り混じったように
頬を掻いた。
「ご心配をおかけしましたね。
ですが、アリアさん!
これは決して、浮気ではございませんので……
どうか、ご安心を」
その言葉に、アリアは静かに腕を伸ばし
ソーレンの胸を押して自ら降り立った。
床に降りると、音もなく時也の前へと歩み寄る。
深紅の瞳が、夜の光を受けてわずかに揺れた。
無言のまま、彼女は彼の顔をじっと見つめる。
その視線が、頬に残る涙の跡を辿っていた。
「アリアさん……」
名を呼んだ瞬間、彼女の手がそっと頬に触れた。
冷たくも優しい指先が、肌に温もりを伝える。
(……泣いて、いたのか)
アリアは言葉を発さず、ただ指先で涙を拭う。
「⋯⋯大丈夫ですよ。
ありがとうございます」
時也は、アリアの心の声に静かに答えた。
アリアは、ただ黙って彼の涙を拭い続ける。
手が離れかけた瞬間、時也はその手を取り
白磁のような甲に静かに唇を寄せた。
「アリアさん……大切に、します」
その声には、雪音との誓いが宿っていた。
アリアは無言のまま、微かに目を細める。
「はいはい、ごちそうさまってな」
空気を破るようにソーレンの声が響く。
「おい、レイチェル。
今のお前……時也に抱かれた女の顔してるぞ?」
「ふぇぇっ!?ちょ──違っ!!
誤解を生むから、やめてぇっ!!」
慌てて身を縮めるレイチェルに
ソーレンは笑いながら肩を竦めた。
「まぁ、どっちでもいいさ。
何にせよ、無事ならそれでいい。
……なぁ、アリア?」
彼の問いに、アリアは静かに頷いた。
その小さな動きが彼女の心を雄弁に語っていた。
「ふふ……
では僕は──アリアさんの誤解を解かなければ
なりませんので。
これで失礼しますね?」
時也の声には、いつもの柔らかさの奥に
わずかな意地悪さが混じる。
ソーレンへと向けた視線は
穏やかに微笑みながらも──
〝全部わかっている〟と語っていた。
ソーレンは口を開かず、ただ目を逸らした。
「行きましょうか、アリアさん」
時也が肩に手を添えると、アリアは静かに頷く。
二人はゆるやかに扉の向こうへ歩き出した。
扉が閉じられる瞬間
室内に再び夜の静寂が戻る。
廊下の奥に
二人の影が消えるのを見届けてから──
ソーレンは、ふっと長い溜息を吐いた。
「……ったく」
苛立ちとも呆れともつかぬ声を漏らし
乱れた髪を無造作にかき上げる。
そのままベッドの端にドスンと腰を落とすと
重い体が沈み、寝台が軋んだ。
レイチェルは驚いたように目を瞬かせる。
隣に座るソーレンの体温が
布越しに伝わってきそうだった。
「……悪かったよ」
不意に落とされた声。
それがあまりにも静かで、彼らしくなかった。
「……え?」
レイチェルの声は戸惑いを含んでいた。
ソーレンは膝に肘をつき
視線を床へ落としたまま、ぼそりと続けた。
「俺が……お前の能力を見てみてぇって
時也に擬態させちまったからな」
その声音には
いつもの無骨な強がりはなかった。
僅かに沈んだ声の奥に
苦い後悔の色が滲んでいる。
「アイツの目を見りゃ分かるんだよ。
背負ってるもんが重てぇってことぐらい。
そんなもんを無理に見て……しんどかったよな。
本当に、すまん」
言葉はぶっきらぼうで
それでも真っ直ぐだった──
その不器用な誠実さが、胸の奥に沁みてくる。
「……ソーレンって、謝れるんだ?」
思わず零れたレイチェルの言葉は
半ば冗談、半ば本気だった。
「……は?」
顔を上げたソーレンが、眉を寄せて睨む。
その仕草が、どこか可笑しくて
レイチェルは微笑んだ。
「だって、あなたが謝るなんて
多分⋯⋯珍しい気がして」
「お前なぁ……俺のこと何だと思ってんだよ」
ため息交じりに言いながらも
ソーレンの口元がわずかに緩む。
レイチェルは小さく笑いながらシーツを整え
上体を起こした。
「でも……ありがとう。ソーレン」
その笑顔は
張り詰めた糸が解けたように、柔らかかった。
頬にはまだ涙の痕が残り、瞳は少し腫れている。
それでも、その表情には確かな安堵があった。
「なんだよ……
泣いてたくせに、わりと元気じゃねぇか」
ソーレンは苦笑し
乱暴にその大きな掌で彼女の頭を撫でた。
「ちょ、なにすんの!?もう、やめてってば!」
レイチェルは慌てて手を伸ばし
その手を払いのけようとするが
ソーレンはお構いなしだ。
「……お前が泣いてんの、見てらんねぇんだわ」
ふと零れたその言葉に
レイチェルは息を呑んだ。
そのエメラルドグリーンの瞳が──
一瞬だけ瞬くように揺れる。
「ソーレン……」
名を呼んだ声は、小さく震えていた。
彼女は気恥ずかしそうに視線を落とす。
「……私、時也さんの記憶を感じた時
本当に、苦しかったの。
妹さんの死が、あんなにも痛くて……
それでも時也さんは、ずっとそれを見せず……
今までひとり耐えてきたんだね」
その言葉に、ソーレンは僅かに鼻を鳴らした。
「……ふん。
アイツは強ぇよ。
それこそ──気味が悪いくらいな?」
嘲るような、だが、確かな敬意を滲ませていた。
素直に言えない彼に
レイチェルは僅かに苦笑する。
「でもよ⋯⋯」
ソーレンは言葉を切り、視線を床に落とした。
「アイツが強いか弱いかは──今は関係ねぇ。
言ったろ?
俺は、泣いてる女の扱い方なんざ知らねぇんだ。
……だから、無理に頼んで、悪かったな」
不器用に絞り出した言葉。
その不恰好な優しさが
レイチェルの胸を熱くする。
「ありがとう、ソーレン⋯⋯」
彼女の微笑みは
涙の余韻を抱えながらも穏やかだった。
ソーレンは頬を掻き
ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……ま、もう二度と時也の真似はさせねぇよ」
「うん。絶対にお断りだから」
二人は顔を見合わせ、くすりと笑い合った。
笑いは短く、それでも確かな温度があった。
「……けどな」
ソーレンの声が、再び低く落ちる。
「狩人に遭遇した時
もし身に危険が迫ったら──
覚悟はしておけよ?」
その言葉は、脅しではなく、約束だった。
「あー⋯⋯そのこと、忘れてた。
うん。その時は──迷わないわ。
でも……これで少しは耐性、ついたかもね?
ソーレンの過去の話も、聞いてて良かった」
「ならいい」
短く答え
ソーレンはレイチェルの背を軽く叩く。
その掌は大きくて、逞しくて──温かかった。
「ま、そんな状況にさせねぇように
俺と時也が踏ん張るさ」
そう言って、彼はベッドの端に手をつき
ゆっくりと立ち上がった。
その背に、レイチェルが小さく笑いを零す。
「ねぇ、ソーレン」
「なんだよ」
「……ありがと」
短いその一言に、彼は振り返らなかった。
ただ、背中越しに小さく手を挙げ
部屋を出ていく。
残されたレイチェルの頬を
月明かりが照らしていた。
静かな夜風が、カーテンを揺らす。
窓辺に落ちる光は、柔らかく二人の影を包み
その揺らぎは──
心に残る痛みを、少しだけ癒すように見えた。




