第50話 一夜の幻は雪のように
夜は、息をひそめていた。
喫茶桜の奥の一室、薄明かりの中で──
時也はシーツ越しに泣き続ける
レイチェルの背を撫でていた。
その手つきは
まるで壊れものを扱うように優しく。
白布の下で震える肩を
幾度も、幾度も撫でては
沈黙の祈りを繰り返す。
涙の音が微かに布を濡らし
その湿り気が、夜気とともに肌へ沁みてくる。
「……幸せに、ならなきゃ、ダメだよ……っ」
掠れた声が、シーツの中から漏れた。
嗚咽に濡れた言葉が
夜の静けさをわずかに震わせる。
その声は
まるで春を待たぬ雪解けのように儚く
聞く者の胸に
消えゆく灯火のような痛みを残した。
時也は、その声に、息を止めた。
手を添えたまま、ただ目を閉じ
彼女の震えを掌で受け止める。
(……レイチェルさん)
彼女の異能──擬態。
それは、形を写すだけの力ではない。
対象の容姿のみならず
感情の揺らぎ、記憶の奥に沈む断片
その人という存在の〝本質〟までも映しとる
あまりにも繊細で、あまりにも残酷な力だった。
だからこそ彼女は、知ってしまったのだ。
時也の痛みを。
言葉では触れられぬ、魂の奥に沈んだ〝傷〟を。
(……なんて、残酷な異能だ)
思わず、胸の奥で呟く。
その異能は
心優しい者ほど容易に砕けてしまう。
誰かを思いやるほどに
他者の苦しみを自らの痛みとして
受け取ってしまう。
それはまるで
氷の刃で心を撫でるような業──
時也は、静かに息を吐いた。
読心術で人の心を覗く自分よりも
彼女の方が⋯⋯
ずっと深く傷つくのだと、痛感していた。
そう思った──その瞬間だった。
「そう……幸せになるべきですわ……」
不意に、声が変わった。
耳に馴染み深く
それでいて──
もう二度と聞けないと思っていた声。
その響きが空気を震わせた刹那
時也の心臓が激しく跳ねた。
空気が、止まる。
呼吸が、凍る。
灯りが揺らぎ、影が壁を這う。
「……ま、さか……」
震える指先が、シーツの端を掴んだ。
ゆっくりと、恐るように、布を捲る。
その動作の一つひとつが
永遠の間のように、長かった。
そして──
そこに居たのは、レイチェルではなかった。
〝雪音〟だった。
(……擬態、してしまったのか……っ)
桜色の着物を纏い
穏やかな微笑を浮かべる少女が、そこにいた。
夜の灯りに照らされるその姿は
まるで春告げの幻のように儚く
白い肌の上に落ちる影すら柔らかだった。
鳶色の瞳が静かに揺れ、時也を映す。
その目に宿る光は、懐かしい。
過去と現在が、静かに重なり合う。
「……お兄様」
その一言が
凍りついていた時也の心を融かした。
胸の奥に封じ込めていたものが
堰を切るように溢れ出す。
瞳が滲み、呼吸が乱れ、言葉が震えた。
「……お、前……っ」
彼の声は、涙に濡れ、掠れていた。
「もう、お兄様ったら……
相変わらず泣き虫ですのね?」
雪音は、くすりと笑う。
その笑みは
かつて見た春の日の庭のように柔らかく
遠い記憶の中で咲いていた
桜のように優しかった。
時也は、嗚咽を噛み殺しながらも
微笑を浮かべる。
「……泣かずにいられると思いますか?
また、お前の顔が……
見られるとは、思いませんでした……」
「私の未来視の通り……ですわ。
お兄様が此方の世界で、素敵な方と出逢えて……
安心いたしましたの」
その声音には、確かな安堵と慈しみがあった。
言葉にされずとも、時也にはすぐにわかった。
──アリアのことだ。
喉が震える。
胸の奥に熱が込み上げ、言葉が喉で止まった。
「……お前は、知っていたのか……」
時也が死の果てに禁術を用い
異なる世界へ渡ることを。
そして、その先で
〝運命〟と呼べる者に出逢うことを。
雪音はすべて──知っていた。
「ええ……」
雪音は、微笑みながら頷いた。
その微笑みには
懐かしさと、わずかな痛みが滲んでいた。
時也は、レイチェルの身体であることも忘れ
思わず雪音を抱き締めた。
その感触は、幻のように儚く
しかし確かに温かかった。
掌に触れた温もりが
現実と幻の境を曖昧にしていく。
「……痛かったろう。苦しかったろう……っ!
すみません……すみません、雪音……!
僕が至らなかったばかりに……お前を……っ」
涙が、頬を伝う。
嗚咽が漏れ、声が震える。
雪音は、微笑みながら首を横に振った。
「お兄様……どうか安心してくださいまし。
私は、誰にも穢されることなく、清らかなまま
見事に自死できました。
私の身体が八つ裂かれていたのは
死してからのこと……腹癒せ、でしょうね」
淡々と語られるその言葉が、時也の心を抉った。
記憶の底に沈んでいた血と炎が、静かに蘇る。
世界が一瞬、遠のいた。
胸の奥が締めつけられ、息が詰まる。
雪音の微笑は、まるで雪のように儚く
今にも指の隙間から
零れ落ちてしまいそうだった。
そして──
雪音の心が映し出すのは、あの夜の光景。
薄闇の牢の中、彼女は琴を内側へと閉じ込め
自ら扉の外へ出た。
指先には、細身の懐刀。
白い袖が揺れ、足音が静寂を踏みしめていく。
その背は、少女のものではなく
運命を悟った者のそれだった。
廊下の端で彼女は立ち止まり
迷いなく刃を構える。
わずかな灯が刃に反射し
冬の月光のように白く瞬いた。
──そして
己の首へと、その刃を突き立てた。
「愚か者に触れられるのならば……
私は自死を選ぶっ!!」
叫びは、刹那にして永遠を貫く。
鮮血が、まるで花が咲くように噴き上がり
桜色の着物が瞬く間に深紅に染まっていった。
血の香が漂い、床を這うように広がる。
膝を折り、なおも凛とした姿のまま
雪音は息を吐いた。
唇に浮かんだのは──最後の微笑。
その微笑を見た瞬間、時也の喉から声が溢れた。
「やめてくれ……っ!!」
それは悲鳴にも似た叫びだった。
胸の奥で何かが裂ける──息が、続かない。
痛みは、記憶よりも鮮明だった。
「……お前は……どうして──っ!」
涙に濡れた問いに、雪音は静かに笑った。
「……私の未来視では
こうするのが最良だったのです」
その声音は、凪のように穏やかで
しかし抗いがたい死の覚悟を帯びていた。
「良いわけがないっ……!!」
時也の声が震え、怒りが滲む。
拳を握る手が白くなるほどに力を込める。
「どうして……
どうして、僕なんかのために……っ!!」
「いいえ、お兄様」
雪音は首を振り、その髪が淡く揺れた。
その動作の一つ一つが、痛ましいほどに優しい。
「あの晩、お兄様が屋敷に居たら……
殺されていましたわ。
お兄様が殺されたら
その後──私は、どう扱われたと思います?
お兄様なら、お分かりになりますよね?」
時也の目が見開かれる。
彼女の未来視の中で見たのだ──
己が死に
妹が政治の駒として辱められる未来を。
雪音は続けた。
「だから私は、選びましたの。
お兄様を、生かす未来を。
そして、お兄様の心が──
桜の花のように、再び誰かを愛せる日を」
「僕の幸せだと、言うならば……っ。
どんな形であれ……お前に……
お前に、生きていてほしかったっ!
〝俺〟のためにも……っ!」
叫びは、痛みと愛を同時に抱えていた。
それは兄としての悔恨であり
魂が引き裂かれるような慟哭だった。
雪音は、そんな兄の胸に頬を寄せた。
その温もりは幻のように淡く
それでも確かに存在していた。
「お兄様も同じですのよ?
いつだって〝私のため〟と言いながら……
ご自分を犠牲にしてこられた。
私がどれほど同じ気持ちだったか──
今なら、お分かりになりますか?」
「……俺は……お前の……為なら……っ」
「それが間違いでございます」
雪音の声が、部屋に凛として響いた。
「お兄様は
歴代最高峰の陰陽師などではなく……
私にとっては
ただ一人の──〝お兄様〟なのですよ?
何でも独りで背負わないでくださいましっ!」
その叱責の言葉が、時也の胸を打った。
喉が嗚咽で詰まり、涙が止まらない。
「お前が……いなきゃ……俺は……僕は……っ」
雪音は微笑んだ。
その微笑みには
春を待つ雪のような静けさがあった。
「大丈夫ですわ。
お兄様がこの先
アリア様と共に生きていくなら……
それこそが、私の最後の願いです」
時也の瞳に光が滲む。
「お兄様は、幸せにならなきゃダメですよ?
本当に……人のためばかりな人なんだから。
青龍だって、初めてお兄様から願われた時
きっと嬉しかったはず。
それが──たとえ、禁術であっても」
「……僕は……僕は……っ」
時也の声が嗚咽に途切れる。
その姿に、雪音は涙を滲ませながら微笑んだ。
「もう!お兄様が幸せにならなきゃ
私の死が無駄になりますわよっ!
しっかりしてくださいませ?
あの世界での天稟の才
歴代最高の陰陽師にして
新たな世界の櫻塚家当主──櫻塚時也様!」
その言葉に
時也は嗚咽の合間に微かに笑みを浮かべた。
「──はい⋯⋯っ!
……お前が望むなら……
僕は、幸せに……なります……っ」
雪音が、そっと彼の頭を撫でた。
その掌のぬくもりは
傷ついた心の奥に静かに触れ
春の陽射しのように柔らかく沁み渡っていった。
「お兄様……どうか、愛し、愛される人生を」
その声が、風のように遠のく。
するりと、雪音の手が時也から離れた。
「……雪音……?」
彼が目を上げると、そこにあった彼女の姿は
薄氷のように淡く、光とともに透けていく。
「ふふ。
初めての兄妹喧嘩……楽しゅうございました。
私の勝ち逃げ、ですわね……?」
その言葉と共に
雪音は時也の腕の中から静かに崩れ落ちた。
残されたのは──
穏やかな寝息を立てるレイチェルの姿。
涙の跡を残した頬が
月明かりに照らされている。
雪音は──もう、何処にもいなかった。
時也は、レイチェルの頬にそっと手を添えた。
「……ありがとう、レイチェルさん……」
その声は、震えながらも、確かに温かかった。
夜は、静かに更けていく──⋯
窓から舞い込む桜の花弁が
ひらりと時也の肩に落ち
彼の涙を包み込むように、そっと溶けて消えた。




