第49話 残酷な異能
──静寂が、痛みを孕んでいた。
喫茶桜の居住スペース。
時也に宛てがわれた小さな寝室の片隅で
レイチェルは布団の中に身を縮めていた。
両膝を抱え、呼吸のたびに肩が震える。
頬に触れた涙は
まだ乾かぬまま幾度も流れを辿る。
「……なんで、こんな……っ」
嗚咽が、布に吸い込まれて消える。
震える唇の隙間から、掠れた息が漏れた。
──彼女は〝時也〟になった。
ソーレンの提案によって。
その擬態の力は
肉体の形をなぞるだけではない。
記憶、思考、感情──
すべてを飲み込み
完全に〝その者〟としてその瞬間を生きる。
だが、それは神の領域を覗く行為に等しい。
残酷な──異能。
禁忌に触れる痛みが、脳髄を焼いた。
流れ込んできたのは、時也の記憶。
その奥に広がっていたのは──血と炎の記憶。
焦げた屋敷。
軋む梁。
風に混じる鉄と灰の匂い。
そして、叫び。
〝雪音ぇえええええええっ!!〟
声が胸腔を裂く。
怒りでも、絶望でもない。
それは、喪失そのものの──咆哮だった。
腕の中に抱かれていたのは、血に染まった首。
穏やかに笑う、少女の顔。
桜色の着物が風に翻り、夜に溶けてゆく。
その名は、雪音。
彼の〝心の半身〟──
「……雪音……っ」
嗚咽が彼の喉を震わせる。
彼は、喪った。
守りたかったもの、すべてを。
血を拭うこともできず
彼はただその首を抱き締め続けていた。
まるで、それだけがまだ
彼女の〝生〟を証明しているかのように。
その光景が、レイチェルの脳裏を焼く。
涙が止まらない。
息が詰まり、胸が軋む。
「なんで……こんなの、酷すぎるよ……っ」
彼女の声は、誰にも届かない。
ただ枕に押し殺され
震えながら空気を震わせた。
─雪音のいない世界など滅んでしまえばいい─
彼の心が、そう呟いた。
冷たく、乾いた、絶望の声。
それでも、時也は生きた。
新たな世界へ渡り、アリアと出会った。
彼女に──〝一目惚れをした〟と言った。
それが、雪音の幻影を追うためだとしても。
それが、ただの妄執であったとしても。
彼の愛が──歪んでいたとしても。
レイチェルの唇が震えた。
「……幸せに、なって……ほしいよ……」
それは偽りのない祈り。
誰よりも優しく、誰よりも痛い願いだった。
再び脳裏を掠める、笑う少女の記憶。
兄の隣で微笑む雪音。
その笑顔は
まるで春の花のように儚く、美しかった。
「もう……考えるの……やめなきゃ……」
涙を拭おうとした手が震える。
拭っても拭っても、頬を伝う雫が絶えない。
枕が濡れ、嗚咽が漏れる。
「……っく……ぅ、うっ……」
喉の奥で押し殺した声が、夜を裂いた。
─幸せになってほしい─
たとえ
その愛が誰かの幻を映していたとしても。
その温もりが偽物でも。
それでも、彼が──〝笑う〟なら。
レイチェルは、泣きながら願った。
この優しい男が
もう二度と血と絶望に沈まぬようにと。
「……雪音さん……」
逢ったことのない名を、彼女は幾度も呼ぶ。
その声は掠れ、嗚咽に途切れながらも続いた。
誰に届くこともない祈りのように──⋯
そして、夜が深まるにつれ
涙は静かに枯れていった。
枕の上に残る濡痕だけが
彼女の優しさの証のように残る。
窓の外では、春の花弁が一枚──
夜風に舞い、灯の消えた部屋の隙間へと落ちた。
淡く光を孕みながら。
まるで、誰かの魂のように──
──コン、コン。
小さな音が、夜の静寂を破った。
硝子越しの月光が、薄い床を淡く照らしている。
「……レイチェルさん?」
静かな、けれど胸の奥を震わせる声。
時也の声だった。
今いちばん聞きたくない──
けれど、今いちばん聞きたかった声。
レイチェルは、布団の中で息を殺した。
涙に濡れた頬は熱を帯び、目は腫れ
まるで泣くことにすら疲れ果てた
子どものようだった。
「……レイチェルさん?」
再び、扉の向こうで声がした。
その響きが、今度は少しだけ近い。
「……お邪魔しても、よろしいですか?」
軋む音と共に、扉がゆっくりと開く。
夜気が流れ込み、微かな桜の香が混じった。
「……失礼しますね」
低い声。
静かに、慎重に。
まるで泣いている小鳥を驚かせぬように。
彼は、部屋の中央に膝をついた。
薄暗い灯りの中で
ベッドの上のシーツの山が微かに動く。
「……レイチェルさん」
柔らかく名を呼ぶ。
その声だけで、胸が軋むようだった。
シーツの下のレイチェルの体が
びくりと震える。
「……聞こえていますか?」
沈黙。
ただ、涙の乾く音だけがあった。
時也は、シーツの端にそっと手を伸ばした。
だが、指先が触れる寸前で止まり──
静かに、引き戻した。
「……無理に話さなくていいんです。
そのままで、構いませんから」
穏やかな声。
けれど、その奥には苦しさが滲んでいた。
「……少しだけ、僕に話をさせてください」
レイチェルは拳を握り、目を閉じた。
──顔を見せられない。
彼の笑顔を見てしまえば
きっと今度こそ、もう耐えられない。
彼の痛みを知ってしまったのに。
あの〝喪失〟を見てしまったのに。
「……僕の記憶を、見たのですね?」
その言葉に、レイチェルの肩が震えた。
静かな声。
けれど、逃げ場を与えない優しさ。
「……雪音のことも、全部」
「……うん……ごめんなさい……」
「どうか、謝らないでください⋯⋯」
その声音は、まるで赦しの祈りのようだった。
「……貴女が僕に擬態したとき
貴女の心の声が……僕に伝わってきました。
僕の過去を知って、苦しい思いをしたでしょう。
それは……僕の方こそ、すみません」
「……そんなの……っ」
レイチェルの声が滲んだ。
震えながら、嗚咽に飲み込まれていく。
「あんなに……大切だったのに……!
雪音さん……っ」
涙が再び溢れる。
声が掠れ、言葉の形を保てなくなる。
「……でも、時也さんは……」
言葉が途切れる。
息の音に混じって、嗚咽が零れた。
「……アリアさんを──」
「……ええ」
短い返答。
柔らかく、けれど深い影を孕んでいた。
「……たぶん僕は、
心のどこかで
雪音の代わりを求めていたのでしょう。
けれど──」
そっと、シーツの端に触れる。
指先が震えていた。
「……最初はそうでも、今は違います。
僕は、心から──アリアさんを愛しています」
その声は、静かで真っ直ぐだった。
悲しみではなく、覚悟の音色。
レイチェルは、シーツに顔を埋めたまま泣いた。
胸の奥で何かが軋み、割れていく。
「……どうか……」
掠れた声が、祈りに変わる。
「どうか……幸せになってください……!
どんなに歪んでいても……
どんなに傷ついても……!」
嗚咽の合間に絞り出すように、続けた。
「……雪音さんはいないけど……!
アリアさんと……時也さんが……
幸せに……なってほしい……っ」
その叫びは、祝福ではなく、祈りでもなく──
贖罪のようだった。
時也は、黙ってその涙を聞いていた。
やがて、そっとシーツの上から手を置くと
掌が、彼女の髪を優しく撫でた。
「……ありがとう、レイチェルさん」
敬語が消えた。
仮面が剥がれたような素の声──
それが余計に、胸を締め付けた。
レイチェルは頷いた。
声は出せない。
ただ、その手の温もりが
夜の底で微かに光を灯していた。
──それは、救いにはならない。
けれど確かに、誰かを赦す光だった。
桜の枝が、窓の外で静かに揺れる。
春の夜風が、二人の間をそっと撫でていった。
その一瞬、世界は確かに──やさしかった。




