第48話 桜の邂逅
時也は、ただ静かに
枝から零れ落ちる花弁の軌跡を見つめていた。
青龍の穏やかな寝息が隣で微かに揺れ
草原を撫でる風が、遠く異界の香を運ぶ。
ここは、あの世界ではない。
青々とした丘の上に一本の桜が根を張り
陽光に透ける花弁が、春を告げるように舞う。
──けれど、時也の胸を満たすのは
そんな柔らかな温もりではなかった。
思い出すのは、置き去りにしてきた世界。
己が生まれた、血と理の連なり。
陰陽師の系譜、貴族の秩序
神々と契りを交わした者たちの世界。
かつて神々が息づいていた地は
今や──声ひとつ、響かぬ。
「……滅んでいればいい」
呟きは、風に溶けて消えた。
花が肩に落ち、白い衣の上で儚く散る。
神なき世界は、いま、どんな有様だろう。
あの夜──
十二の神将はすべて青龍に喰われ
跡形もなく消えた。
神威を源とした術師たちは
根を失った枝のように朽ちたはずだ。
その力の連鎖は断たれ、祈りも術も消え去った。
呼び戻そうとする者もいるだろう。
絶望を知らぬまま神を求め
血を捧げる愚者もいるだろう。
だが、それもすべて──無駄だ。
秩序は崩れ、王なき国は己を喰らう。
陰陽師の権威は塵と化し
貴族は剣を取り、民は飢えに膝を折る。
ある者は神を呪い
ある者は術を捨て
またある者は、生を乞いながら闇へ沈む。
──それでも、生きようとするのか。
神の庇護も、理の指針も失った世界で。
哀れだ。
愚かだ。
だからこそ、滅びよ。
時也の瞳が細く光を絞る。
あの世界がどうなろうと構わない。
神も、民も、術も、理も
全て塵も残さず──消え去ればいい。
雪音のいない世界など、価値はないのだから。
彼女の笑みを喪った瞬間
世界そのものが、意味を失った。
たとえ百万の祈りが響こうとも
その声に時也の心は応えない。
彼の内に残るのは、ただ、
〝滅びへの祈願〟だけだった。
炎に焼かれようと
戦乱に沈もうと
疫病に蝕まれようと──構わぬ。
世界など、壊れ尽くせばいい。
その灰の上に、ようやく静寂が訪れる。
なぜなら
彼が救うべきものは──
もう、あの世界のどこにもいないのだから。
指先で、桜の花弁をひとひら弾いた。
花は淡い風に乗り、宙を舞う。
どこまでも、どこまでも、遠くへ──
時也の視線は、その行方を追う。
残された者の祈りも、悔恨も
彼の中では、もう声を持たなかった。
風が丘を渡るたび
枝の上の桜が、静かに鳴った。
その音はまるで──
滅びた神々の鎮魂歌のように響いていた。
ふと──
桜の香に、異物が混じった。
それは、血の匂いだった。
甘く鉄のようでありながら、どこか懐かしい。
胸の奥を細い刃でなぞられるような
痛みを孕んだ香り。
(……血の、匂い……?)
鼻を掠めたその気配が
眠りの淵に沈みかけていた時也の意識を
鋭く現へと引き戻した。
ゆっくりと、瞼を開く。
淡い光のなかで、桜の花弁が舞っている。
ひとひら、またひとひら──
陽光を透かしながら
静かに彼の頬を撫でていった。
時也は、ぼんやりとしたまま枝を掻き分け
下を覗き込んだ。
その瞬間──
枝を掴んだはずの手が滑った。
「──っ!」
重力が彼を掴み取る。
枝葉が裂け、風が唸る。
視界が逆巻くように回転し
耳の奥で、空気が悲鳴を上げた。
そして、地面。
乾いた衝撃音が、丘の静寂を破った。
息が、喉の奥で潰れる。
しかし、痛みを覚えるよりも早く
彼の視界に映り込んだものがあった。
──ひとりの〝女〟
陽光を凝縮したような金色の髪が
風を孕み、腰まで靡く。
その肌は、白磁を思わせるなめらかさで
夜闇に浮かぶ月のように
冷ややかに艶めいていた。
そして何より──燃ゆる深紅の瞳。
その双眸が、時也を射抜く。
鼓動が跳ねた。
血の流れが雷鳴のように駆け抜ける。
「……美しい……」
思わず、息が零れた。
まるでこの世の理の外に生まれたような存在。
その美は、呼吸するたび現実を侵すほどに
鮮烈だった。
深紅の瞳は冷たく鋭く
それでいて、何かを探すように虚ろだった。
だが次の瞬間
血の匂いがより濃く、彼の鼻を刺した。
「──っ!」
反射的に、時也は地面に身を起こした。
「なんて酷い……今、治療をっ!」
そこにあったのは、痛ましい光景。
女の脚は裂け、脈に合わせて血が溢れ出ていた。
腕は不自然に曲がり、肌は泥と血に塗れている。
時也は躊躇なく、袖を食いちぎった。
「……すぐに止血を……!」
裂いた布で脚を縛り、結び目をきつく締める。
桜の枝を折り取り、掌に息を吹きかける。
すると、掌から淡い光が滲み
細い蔓が生え出した。
それを添え木にして、蔓で彼女の腕を固定する。
流れるような動作。
迷いのない、救うための本能だった。
やがて息を整えると
時也はそっと彼女の顔を覗き込んだ。
「……痛みは、大丈夫ですか?」
彼女の深紅の瞳が、わずかに見開かれていた。
何かを言うでもなく
ただ真っ直ぐに見つめてくる。
その眼差しは、心臓を掴むように鋭く
それでいて、どこか深い悲しみを湛えていた。
胸の奥が──熱を帯びる。
(……これは……何だ……?)
生まれて初めての感覚だった。
彼女の存在だけで、雷が体内を駆け抜けるような
名もなき衝動が膨れ上がる。
やがて、彼女の唇が微かに動いた。
「……お前、魔女なのに……」
「え……?」
「私が恐ろしくはないのか?
憎くは……ないのか?
この血を、欲し求めぬのか?」
時也は眉を寄せ、首を横に振る。
「いいえ。僕は貴女のことを……
それどころか
この世界のことすら、まだ何も知らないのです」
──沈黙。
彼女は時也を見つめたまま、言葉を失っていた。
深紅の瞳の奥に、わずかな揺らぎが生まれる。
そして、視線を自らの腕に落とす。
「……治療など、不要だ」
そう言って
彼女は無造作に添え木ごと蔓を剥ぎ取った。
「──っ!そんなことをしたら!」
無理に剥いだ蔓が擦れ、白い肌に赤い線が走る。
だが、それは一瞬のことだった。
皮膚は再び滑らかに閉じ
血の跡さえ何事もなかったかのように消える。
その再生は
あまりに自然で──あまりに異常だった。
時也の瞳が驚愕に見開かれる。
彼女は足の布をも外す。
そこにあったはずの裂傷も
既に痕跡を留めていなかった。
時也は、息を整えるように目を伏せた。
彼女の心が──聴こえる。
「……それが、貴女の──悲しみなのですね」
その言葉に、彼女の瞳が微かに揺れる。
虚ろな沈黙が流れた。
(……僕と、似ている)
彼女の孤独が、痛いほど伝わった。
かけがえのない半身を喪い──
神々を喰らわせ、世界を壊した己と同じ
取り返しのつかない何かを抱える者の気配。
やがて時也は姿勢を正し、静かに名乗った。
「僕は──櫻塚 時也と申します」
真っ直ぐに、彼女の瞳を見つめる。
彼女はその名を受け止め
沈黙のなかで、何かを確かめるように見返した。
やがて、掠れた声が零れる。
「⋯⋯⋯⋯アリア、だ」
その名が、風に溶けた。
時也の胸に、熱く深く響く。
「……アリア、さん」
彼は、その名をそっと繰り返した。
「アリアさん。
僕は、貴女に──
一目惚れしてしまったようです」
風が止まり、花が落ちた。
彼女の瞳が、微かに揺れる。
その揺らぎが、時也の心にさらに火を灯した。
「貴女のお傍に……
居させていただけませんか?」
その言葉は、理ではなく──魂の叫びだった。
彼自身も制御できぬほどに。
そして、この瞬間。
櫻塚時也の運命は
静かに、決定的に──狂い始めた。




