第47話 新たな世界
〝ねぇ⋯⋯お願い〟
か細い声が
虚空の深い闇から流れ込んできた。
水面下から伝わる波紋のように震えを帯び
遠くて近い。
耳で聴くというより、魂そのものに触れる囁き。
〝お願い⋯⋯私を──中に入れて?〟
霧の向こうで誰かが
両の掌を合わせて懇願しているかのように
震える声が重なる。
〝此処は暗くて──とても⋯⋯寒いの〟
闇の奥の言葉は切実で
触れれば折れてしまいそうなほど脆く儚い。
時也は、緩やかに瞬きをした。
瞼の裏はまだ暗く
意識は霞に沈むようにぼやけていた。
だが
その微かな声を、彼は確かに耳にした。
「⋯⋯雪音、なのか⋯⋯?」
声は掠れていた。
焼けただれた喉から絞り出されるそれは
血に濡れた刃のように脆く痛々しい。
「⋯⋯ほら、おいで」
彼には目を開けずとも分かっていた。
この寒さ。
この寂しさ。
この暗さ。
それは幼い頃から雪音が耐え続けてきた
世界の感触に他ならなかった。
彼女は、いつも暗闇に閉じ込められていた。
外の光を知りながら
それに触れられないまま。
だからこそ──
「兄の腕へ⋯⋯寒いのなら、温めてあげるから」
時也は両の手を広げた。
そこへ、淡い光が形を成し
少女の輪郭を模した何かが
静かに吸い寄せられていく。
光は震えながら、確かに彼の胸元へと収まり
腕の中でひとつに融けた。
瞬間──
眩い閃光が走り
視界は爆ぜるように白く塗り潰される。
彼の意識は深い水底へと引きずり込まれ
音も色も全てを置き去りにして沈んでいった。
⸻
──目を開けると、そこは見知らぬ世界だった。
小高い丘の上。
風が吹き抜けるたびに
青々とした草が波を描き、柔らかな音を奏でる。
陽光は清澄で、空はどこまでも澄み渡り
薄い雲が糸のように流れていた。
時也は、その草原の上に横たわっていた。
身体は未だ痛みに軋み
筋肉は鉛のように重く
骨の隙間には術式の余韻が残っている。
それでも彼は、両腕を突き立て
ゆっくりと上体を起こした。
丘の向こうには
見渡す限りの街並みが広がっていた。
遠くの瓦屋根
石造りの高い尖塔
彩り豊かな壁面と曲線を描く屋根。
寺社ではない。
城でもない。
彼がこれまで目にしてきた都の
どの建築様式にも当てはまらぬ、異国の光景。
建物と建物の隙間を縫うようにして
人々が忙しなく往来し
陽光に照らされた舗道に影を落としていた。
赤や黄の布が窓辺に翻り
遠くで鐘の音が鳴り
馬車の軋む音や子どもの笑い声が重なっていた。
見知らぬ世界の温かみのある色彩。
だが──
此処がどこなのか、時也には見当もつかない。
「⋯⋯青龍?」
彼は傍らの気配を探し、手を伸ばした。
すると──
「⋯⋯う、ぅ⋯⋯っ
時也様、ご無事ですか?」
返ってきたのは、確かに青龍の口調だった。
だが、その響きは
耳慣れたものより幾分か高く、弱々しかった。
視線を下ろすと、そこにいたのは──
小さな〝子供〟の姿をした青龍だった。
銀白の髪は肩にも届かぬほどに短く
袖も裾も余るほど大きな着物が
小さな身体を覆っている。
だが、山吹色の瞳だけは──
紛れもなく青龍のものだった。
「あぁ⋯⋯青龍⋯⋯」
時也の喉が震えた。
声は掠れて痛々しい。
「こんなに⋯⋯小さくなってしまって⋯⋯」
青龍はほんの一瞬目を伏せ、静かに答えた。
「⋯⋯貴方様の為ならば⋯⋯構いませぬ」
時也は、その小さな体を両腕に抱き上げる。
華奢な肩、細い手足。
かつて
龍として天を覆った存在の名残はそこになく
ただ軽すぎるほどの重みだけが腕に残った。
その軽さに、時也の胸は締め付けられた。
「見てください⋯⋯青龍!
成功です。世界を──渡れましたよ!」
掠れた声で、しかし弾むように彼は言った。
喉は潰れ、声は痛々しく掠れていた。
それでも、彼は笑おうとした。
目許には
無理にでも浮かべようとした笑みがあり
その笑みは虚勢にしか見えなかったが
彼にとって唯一の救いだった。
立ち上がった時也は
青龍を振り回すように抱え
無邪気に笑みを浮かべた。
まるで
長い絶望を越えた先に見つけた束の間の喜びを
噛みしめるかのように。
青龍はされるがままに振り回されながらも
彼の顔をじっと見つめていた。
その掠れた笑みに、潜む陰を見逃さなかった。
「そうだ、青龍!
雪音が⋯⋯僕の中に居るんです!
感じるんです──ほらっ!」
興奮した様子で時也は叫び
青龍を抱えたまま片方の手を振り翳す。
瞬間──
地面から小さな芽が顔を覗かせた。
青龍の目が大きく見開かれる。
その芽は彼の手の動きに応えるようにして
瞬く間に成長し、幹を伸ばし、枝を広げ
やがて──桜の若樹へと姿を変えた。
花弁は淡く透き通り
春の記憶を閉じ込めたような色彩で
満開に咲き誇った。
「凄いでしょう!?雪音なんです!
彼女が、僕の中にいるんです!」
時也は興奮を隠さず笑った。
目は熱に浮かされたように煌めき
かつての穏やかな光ではなく
何かに取り憑かれたような
強い執着の光を宿していた。
その異様な光に
青龍の背を冷たい戦慄が走り抜けた。
だが、時也は知らなかった。
青龍ですら知らなかった。
彼の魂に入り込んだ存在は
この世界に生きていた──
植物の力を操る、ある魔女の魂だったのだ。
彼が〝雪音〟だと信じるものは
雪音では──ない。
青龍は、満面の笑みで桜を見上げる
時也の横顔を見つめた。
かつての彼にはなかった──異能。
小さくなった自分の体では
もう以前のように庇うこともできない。
だが、それでも
彼が何者になろうとも青龍は従うと決めていた。
例え、その行く先が──どれほど狂おしくても。
⸻
風が吹く。
新しい世界の風が。
異国の香りと陽光の匂いに混じって
ふと懐かしい香りが鼻を掠めた。
──桜。
薄紅の花弁が柔らかく舞い落ち
二人の足元に降り注ぐ。
それは祝福のようでもあり──
警告のようでもあった。
「桜の上でお昼寝でもしましょうか!」
はしゃぐように声を上げた時也の顔には
少年のような無邪気な笑みが浮かんでいた。
「此処ではもう僕も雪音も、お前も!
誰かに縛られる事など無いのですからっ!」
その言葉と共に、彼は桜の幹へ手を掛け
軽やかに登り始めた。
枝を器用に掴み、時に足を掛け
時に腕の力だけで身体を持ち上げる。
その姿はまるで
幼子が無邪気に木登りを楽しむようだった。
「⋯⋯やれやれ」
青龍は小さく息を吐いた。
時也がこんなにはしゃぐ姿を
彼はかつて一度も見たことがなかった。
幼い頃でさえ
彼は常に静かで、思慮深さを湛えていた。
それが今
子供のように笑い、枝をよじ登っている。
その姿はあまりに嬉しそうで
青龍は言葉を飲み込んだ。
「⋯⋯仕方ありませんな」
そう呟き、小さな身体で彼も後を追った。
手足は短く、思うようには登れない。
だが、身軽さを活かし
時也のすぐ後ろに辿り着いた。
やがて二人は桜の枝の上へ。
そこは花弁の絨毯が広がる特等席だった。
時也は幹の分かれ目に腰を下ろし
頭を枝に預けた。
「ああ⋯⋯いいですね」
目を細め、風を頬に受けながら呟く。
「此処では誰にも邪魔されませんね⋯⋯雪音」
桜の枝に落ちた彼の影は、ゆらりと揺れ
まるで何かを腕に抱いているかのようだった。
だが、その姿を誰が見ても
そこには何も──なかった。
青龍は隣の枝に腰を下ろし、桜の花を見上げた。
香りは懐かしく、新しく
矛盾する二つの感覚が胸を満たす。
やがて体の力が抜け
陽光が意識をゆっくりと沈めていく。
風が吹いた。
桜の花弁が舞い落ちた。
新たな世界の桜の上で
二人の姿は穏やかな風に包まれていた──




