第46話 主の願い
青龍は、すべての神を──喰らい尽くした。
神々の力が
祀られた年月も名の重みも、祈りの層もろとも
魂という最も深い容れ物へと沈んでいく。
取り込まれた霊威は
黄金の燐光となって皮膚下を走り
鱗の名残を煌めかせ──
やがて、一つの巨大な環に収束しはじめた。
その瞬間──
青龍の体がびくりと震え
空洞に落ちる石のように、崩れ落ちる。
異形の輪郭はみるみる剝がれ
黒き鱗は夜の霧に融けて消え
龍の鬣は銀白の長髪へと変じて
ぱさり、と地へ落ちた。
力を使い果たした証。
呼吸は荒く、肺の奥は焦げ
体の芯は灼けた鉄の杭のように
鈍い痛みを訴える。
筋は軋み、骨は重く
血の鼓動が遅れて耳へ返ってくる。
そして──
青龍のすぐ傍で、時也も地に手をついた。
彼の体もまた、限界だった。
血に濡れた着物が風にほどけ
袖口から伝う紅が土の上で鈍い光を帯びる。
喉は血で焼け
唇は噛みしめられ
顎は震えていた。
だが、その瞳だけは──
なお暗く、鋭い光を失わない。
怒りという刃を、静けさという鞘に収めたまま
抜けば命を断つことを知る者の光。
ふっと細められた睫毛が
灰を吸った風に微かに揺れた。
「⋯⋯青龍」
低く、静かな声が、炎の名残の音を穿つ。
「⋯⋯無理をさせて──すまない⋯⋯」
その言葉を聞き、青龍は僅かに目を伏せた。
胸の奥に、微かな熱が疼く。
己の主は、どこまでも優しい──
それは
誰に対しても均しく注がれる慈しみではなく
己が守ると定めたもののためなら
いくらでも修羅に堕ちる種類の優しさ。
烈しく、偏っていて、なお崇い。
「⋯⋯僕に、ついてきて⋯⋯くれるか?」
時也の声は
刃の先で風を測るようにわずかに震えていた。
青龍は、地に手をつき
裂けそうに軋む身体を起こす。
膝を正し、額を垂れ
誓いを捧げる者の姿勢で息を整える。
「無論に⋯⋯ございます」
そのまま
空気の埃と血の匂いに濡れた地へ掌をすりつけ
声を澄ます。
「櫻塚家現当主、我が主──櫻塚時也様」
呼び上げられた名に
時也の瞳が微かに揺れた。
その揺れはすぐに消え
湖面の紋が静まり返るように
目許はまた細く結ばれる。
青龍は解っていた──
時也が何をしようとしているのかを。
止める言葉は持たない。
ただ従うのみ。
何処までも──この男のために。
「⋯⋯参りましょう。時也様」
青龍は
痛みを顔に出すことなく、そっと立ち上がった。
衣の裾が灰を払って微かな円を描く。
「貴方様が⋯⋯誰にも、利用されない世界へと」
次の瞬間、青龍の体躯の内奥で
喰らい尽くした神威が急速に消費され始めた。
燐光は逆流し
肉体の深部から何かが
強制的に引き抜かれていく。
血がわずかに逆巻き、骨の空洞が風を孕む。
ゴゴゴゴゴ──!!
大地が震え、焼けた空気が軋み
夜の枠組みそのものが重心を失う。
地面にひびが走り、硬い土が板のように割れ
その裂け目から──
禍々しい光の渦がせり上がった。
光は色を持たないまま色を放ち
闇よりも濃い明滅を繰り返す。
縁は常に崩れ、中心は常に定まり
風は内側へ吸い込まれては捻れ
外へ吐き出されては歪む。
青龍は瞳を細め、呼気を鎮める。
「⋯⋯時也様」
時也は、その渦を見つめていた。
何も言わない。
言葉は
ここで意味を持たないと知っているように。
ただ──静かに。
光はさらに強まり
世界と世界の縫い目を剥き出しにし
次元の裂け目は口を開けた生き物のように
音もなく拡がっていく。
境目の外側には何もないのに
境目の内側には〝向こう〟があった。
「──行こう。青龍」
静かな呼びかけは
祈りの最後の一節のように簡潔だった。
その刹那──
二人の体から力がすうっと抜け落ちる。
酷使した術の代償が、一斉に徴収される。
脚は自重を支えられず
視界の端は暗い布で拭われたように薄れ
耳の奥で高い鈴の音が鳴り止まない。
しかし──
青龍はその瞬間、最後の力を振り絞った。
倒れかける主の腰を
血に濡れた衣ごと抱き寄せる。
掌の中で鼓動が脆く跳ね
熱と冷えが混ざった体温が腕に沈む。
「⋯⋯っ!」
漏れた声は短く、強かった。
離さぬように。ほどけぬように。
彼の名を縫う針のように。
二人の身体は重なり
その重さごと、光の渦へと引き込まれていく。
周囲の空気が唸って形を失い
遠近の感覚は折り畳まれ
風は刃となって輪郭を削ぎ落とす。
空間は捻れ、次元は歪み
世界の方が二人に合わせて曲がる。
渦の中心で
光が二人の姿の縁を攫っていく──
髪が糸のようにほぐれ
袖の影が薄れ
指先の血が光の粒に砕ける。
名だけが遅れて残ろうとするが
名もまた光に融ける。
そして彼らは、この世界から──
消えた。
風がぴたりと止む。
震えは収束し
割れ目は痕跡すらも残さず閉じ
夜は何事もなかった顔で輪郭を取り戻す。
崩れた土壁が遅れてぱらぱらと落ち
焦げた畳の匂いがひときわ濃くなる。
音は少しずつ戻り、虫の声が遠くで細く響く。
ただ桜の花弁だけが
静かに、舞い落ちていた──
炎に舐められて、なお焦げず
白と薄紅の淡い灯をたたえながら
空の見えない高みから降りてくる。
ひとひらは裂けた地を跨ぎ
ひとひらは血の跡に寄り添い
もうひとひらは誰もいない空間の中央に
ゆっくりと降りた。
夜はそれを見守り
月はそれを映し
世界はその小さな静けさを中心に
再び息を整え始める。
だが──
何も知らない静けさほど、残酷なものはない。
花弁はそれでも、美しいままだった。
誰のためにもならぬ美しさのまま
ただそこに在り
夜更けの温度だけが緩やかに下がっていく。




