第45話 神々の殺戮劇
炎は庭の竹を舐め
梁を赤く灼き
柱の芯までを焦がしていた。
火はただ燃えるのではない。
喰らい、軋み、吠え
夜の景色を別の生き物へと変えていく。
そのただ中で
時也は震える喉を押さえつけるようにして
しかし、一語たりとて落とすまいとする意志で
声を立てた。
「高天原に神留ります⋯⋯」
声音は、呪いではなかった。
滾る憎悪の縁に立ちながらなお
彼の発するものは呪詛ではなく──
祈りであった。
怒りに溺れぬための最後の綱ではなく
怒りそのものを天へ渡すための
懇願の形式。
「皇御祖 神伊佐那岐命
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に……」
焦熱が滲ませる空気の揺らぎの中
時也の周囲で無数の護符が宙を舞った。
紙は炎の残光に照らされ
ひらひらと
まるで春の最後の一陣の風に攫われた
桜の花弁のように、上へ、上へと持ち上がる。
左腕には
血で温もりを失いきらぬ雪音の首。
右の指は、古より伝わる印を正確に
迷いなく結ぶ。
皮膚の上を汗と灰が流れる。
血で滑りそうになる指を爪で止める。
結ばれた印は静かに
しかし確実に世界の連結部を撫で
見えぬ縒りを作り出していく。
その刹那──大地が呻いた。
地響きが空気を揺さぶり
屋敷の残骸を震わせる。
夜空が軋み、星なき闇が赤々と震動した。
「──時也様っ!何をなさいます!!」
青龍の声が切迫した響きを帯びる。
しかし、時也は返さない。
返せないのではなく──返さない。
祈りを続ける。
声を、言葉を、古語の節回しを
血で潤した喉から押し出していく。
復讐のための〝絶対の祈願〟を。
そして──応えは訪れた。
「──ガァァアアアアアッッッ!!!!」
彼方此方、四方八方
いや、天地の襞という襞から絞り出されるように
獣の咆哮が重層的に響いた。
だがそれは、獣のものではない。
人と獣の境をまたぐ大いなるもの
時也に霊威の座から引き摺り下ろされた
神々の喉が吐く音。
護符は空で爆ぜ、細かい光塵となり
術式の連鎖が夜に格子を描く。
十二の方位。
十二の門。
十二の気配。
そこから姿を現したのは
神威を纏った獣であった。
それは陰陽の世において古より伝わる
十二神将。
虎、蛇、鷹、猪、獅子──
本来は、各々を祀る家々が
代々にわたり鎮め、契約を結び式として扱う
〝座〟
勝手に呼び出すことなど
理の上でも礼の上でも──赦されざる暴挙。
「……私以外の……十二神将──っ!?」
青龍の目が見開かれる。
驚愕が山伏色の瞳に刻まれた。
時也がそれを制御する権能を持たぬことを
青龍は知っている。
だが、彼は──喚んだ。
力ずくで扉を叩き割り
神将たちを現世に露わにした。
神威は空の色を深く染め
炎の尾を持つ瓦礫は崩れ落ち
火はさらに勢いを増す。
音はすべて大河となって流れ
世界の外郭までも震わせる。
「⋯⋯青龍」
雪音の首を抱く腕が僅かに強張り
時也はゆっくりと青龍へ顔を向ける。
深い井戸の底まで沈んだ瞳。
そこに映るのは
かつての温和さでも、静かな諦念でもなく
ただ研ぎ澄まされた黒い光──修羅の光。
「お前の主である
櫻塚家当主である──〝俺〟が命ずる」
言葉が落ちるたび
青龍の体内を走る、古い契約の鎖が鳴った。
背筋に薄い戦慄。
抗えぬ血の律。
それでも彼は、次の言葉を待つ。
「全ての十二神将を──喰らい尽くせ」
瞬間──
青龍の中で何かが弾ける音がした。
いや、実音ではない。
血と術と名が、互いの位置を入れ替え
束となって奔流となる感覚。
時也の陰陽術が青龍の核へと流し込まれ
理性の鎖を一気に引き抜く。
銀白の髪は光の糸と化して四方に散り
次の瞬間──奔る鬣となって夜を切り裂いた。
骨格は軋んで延び
指は鉤爪へ
皮膚は鱗へ
呼気は烈風へ──
漆黒の鱗は
月と炎を双つの光源として鈍く閃き
胴は大蛇のように長く
しかし剛直な柱のように逞しい。
「グアァァァァアアアッッ!!!!」
龍が目覚めた──神を喰らうための龍として。
十二の神将のうち
まだ完全に覚醒していないものもいる。
縁を跨いで現れたばかりの神将には
現世の密度に順応するための一拍が要る。
その一拍を、龍は見逃さない──
狙い澄ました一閃。
最初に狙われたのは
獅子の姿を持つ神将である。
青龍の牙がその喉笛に──深々と喰らいついた。
「ギャアァァアアアッ!!!」
破れた空気。
獅子の巨腕が爪を振り下ろす。
だが、時也の術式が
青龍の体躯にさらに重ねがけされている。
爪を打ち合う響きは雷のように鋭く
しかし、打ち合われた瞬間には
もう形勢が決していた。
青龍は爪を受け止め、反転、天へ跳躍する。
躯は弧を描いて夜空に線を刻み
その勢いのままに喉の奥を裂いた。
「ガァァアアアアッ!!!」
──神が、神を喰らう。
夜の空には咆哮と、肉を裂く音が響き渡る。
鮮血が奔流のごとく滴り落ち
龍の爪に掻き出された臓腑が
紅い津波となって地を濡らす。
それは誰にも制御できぬ
神々の殺戮劇の幕開けであった──⋯
「──ぐ、ぅ⋯⋯っ!」
その咆哮の背後で
祈祷の代償は静かに
しかし苛烈に支払いを求めた。
式神の強制顕現──
それも、主でもない術者の命で。
筋が違う。
筋が違えば、肉が裂ける。
理が逆さまになった部分から
必ず、血が出る。
時也の口の端から血が噴いた。
喉が熱の刃に撫でられたように灼け
咳一つで鮮血が唇を汚す。
印を結ぶ手から、腕から
皮下の血管に沿って細かな裂け目が走り
赤い霧のような粒子が肌の表面に浮いた。
理に逆らった術が肉体に刻む──徴
それでも彼は止めない。
止められない、ではない。
止めるという選択肢が──初めから存在しない。
青龍が十一もの獣を喰らい尽くすまで
彼は決して詠唱を解かない。
青龍の咆哮が空を震わせる。
銀白の鬣が狂ったように閃き、空を切り裂く。
その眼にはもはや理性など存在せず
ただ獣の飢えのみが宿っていた。
龍が、神を喰らう。
「グルルルルル……ッッ!!」
その瞳が次の獲物を探す。
翼を広げ急降下する鷹の神将を狙い
青龍の尾が閃光を描いて振り抜かれる。
空気が震え、鷹の翼が断ち切られた。
「ギィィイイイィイッ!!!」
悲鳴。
墜落。
そこへ──青龍の顎が落ちた。
頭蓋は鋭い杭のような牙列に割られ
脳の白い閃きが夜に散った。
血と神威が同時に飛沫となって舞う。
青龍はそれを浴び、舌で舐め
肉を千切って呑み込む。
肉は、ただの肉ではない。
座の名、祀りの年月、社の石段、祈りの小声──
そうしたものの層が
薄膜のように幾重にも重なっている。
その層ごと、飲み下す。
「⋯⋯ぐ、かは──っ!!」
時也はもう一度、深く咳き込んだ。
膝が揺れ、地面がぐらりと遠くなる。
視界は赤と黒の斑に染まり
焦点がどこにも合わない。
それでも、祈祷は崩さない。
額の汗は血に混じり
頬を伝う線は灰で斑になった。
肺の奥は焼けるように痛む。
息をするたび
肋骨に見えぬ金具が嵌められているような
圧迫が走る。
それでも──彼は命じた。
「喰らえっ!!そのまま喰らい尽くせっ!!!」
雪音の居ない世界に価値などない。
その思いだけが、時也を立たせていた。
蛇の神将が地を這い
山の稜線を割る勢いで青龍へ襲いかかる。
青龍は一瞬その動きを眺め
口角を僅かに吊り上げた。
冷笑めいた気配。
獅子と鷹の力を腹に沈めた青龍は
もはや単体の神将と力量を比べる段にはない。
蛇が躍りかかった瞬間──龍の爪が縦に走る。
腹が裂け、内臓が月光を浴びる。
蛇が体をくねらせて逃れようとしたところを
顎が走り、頭を丸ごと噛み砕いた。
「ギ──シャアァアアアァアアッ!!!」
咀嚼音が夜の湿りに混じる。
骨が粉砕され
神威の火花が歯の隙間から散る。
一口、二口、三口──
肉は喉へ、喉から腹へ。
食むたびに
青龍の躯に薄い黄金色の輪が幾重にも立ち上り
胸の奥で何かが〝増えていく〟音がした。
鼓動ではない。
存在の密度が増す音。
龍という概念が
神という概念を食って──肥える音。
他の神将たちは、震えながらそれを見ていた。
理解した。
──この龍はもはや止まらない。
──神すらも喰らい尽くす存在となったのだ。
逃げる。
背を見せる。
走り、森へ。
潜り、地へ。
だが、殺戮の眼はそれらを等しく照らし出す。
「グアァアアアアアアアッッ!!!!」
咆哮が落雷のように叩きつけられ
青龍は伸びやかに
しかし容赦なく追い縋る。
犬の神将の喉を裂き
馬の神将の脚腱を断ち
兎の神将の心臓を抜き取って呑み
牛の神将の角を根元から折って首をもいだ。
羊の神将は森へ逃げ込もうとしたが
森の影は庇護を与えず
翼を得た龍の爪が上から押し潰した。
猿の神将は岩場で身を翻したが
その柔らかい肩は牙に容易く穿たれ
悲鳴はひときわ甲高く短かった。
喰らう。
喰らう。
喰らう──⋯
世界の匂いは完全に変わっていた。
血、脂、熱、鉄、そして祈りの焼けるにおい。
足元の土は紅に濡れ
炎の揺らぎはその紅をさらに深い色へと沈める。
十もの神々が次々と貪られ、血の雨が降る。
紅に染まった牙を剥き
狂気の咆哮を轟かせる青龍──
時也の膝は、ついに崩れた。
土と灰に膝頭が沈み
雪音の首を抱く腕だけがなおも堅く
震えながらも確かに形を保っている。
耳は遠雷の轟きで塞がれ
世界の言葉は意味を失う。
それでも──まだ終わらせない。
息の中に血の味が濃くなる。
舌に金属の粉をまぶしたような不快。
その不快ささえ
もはや判断を鈍らせる装飾に過ぎない。
彼は顔を上げ
夜の深みに目を据え、命を紡ぐ。
「……喰らい、尽くせ!」
命は刃ではない。
命は方向を定める線だ。
線が引かれた先に
最後の獣──猪の神将が立っていた。
荒ぶる力そのものの体躯。
肩の筋は山脈、鼻先は鋼、蹄は大地の石槍。
猪の神将は大地を踏み鳴らし
鼻息に火の粉を巻き込んで白い噴煙を散らす。
真正面からの衝突で砕けぬ者は無いと
その身体が語る。
青龍は、正面から迎えた。
逃げる理由がないからではない。
逃げるという概念が
今の彼の中に存在しないからだ。
遠くで竹が一斉に、風も無いのにざわめいた。
それはただの錯覚かもしれない。
いや──
祀られていたものが祀りを外れた瞬間
世界の別の場所にある小さな鈴が
震えただけかもしれない。
いずれにせよ──終わる。
その瞬間
血の月が雲間から姿を現し
〝神々の最期〟を
冷ややかに見下ろしていた──⋯




