第44話 咆哮
「殺してやる──っっっ!!!」
炎の中に轟いた、その叫び。
屋敷の梁は赤く灼け
柱は悲鳴を引き伸ばす。
天井板が割れ
火の粉が雪崩のように降る。
熱は皮膚を針で刺すように苛み
煙は喉の奥に黒い手を挿し込んで締め上げる。
それでも
この一声は火勢をも呑み込むほど苛烈だった。
壁に掛けられた書は剝がれ落ち、庭の竹は燃え
空気そのものが震動する。
それは——
時也が生まれて初めて感じた
純然たる〝激情〟だった。
憎しみ──
怒り──
絶望──
魂の底から沸き上がる、焼けつくような衝動。
それは理の綱を断ち切り
長年かけて磨いた礼節の甲冑を
ひと息で粉砕する。
胸骨の内側で心が暴れ
血は烈しく逆巻き
視界の赤がさらに深くなる。
たとえ言葉が無くとも
世界は、この感情の名を知っているのだろう──
「時也様っ!どうか、お鎮まりくださいっ!!」
青龍の声が響く。
その声は水脈のように冷たく強いが
この夜の熱には追いつけなかった。
火の唸りが
焦げる絹の匂いが
割れる瓦の音が
あらゆる外界を一つの轟音にして──
時也の耳を塞ぐ。
「煩いっっっ!!」
唇は裂けるように剝がれ
喉は燻炭となって鳴る。
時也の手が、激しく護符を握った。
その指は、血が滲むほどに強く──
紙の繊維が皮膚に噛み
描かれた朱の印が汗で滲み
掌の中で温度を帯びた護符は
まるで小さな心臓のように脈打っている。
護符を数枚掲げると
そのまま力任せに空へと放った。
「探せ⋯⋯っ!急急如律令ぉ!!」
次の瞬間──
護符が、桜の花弁へと変わる。
ぱん、と見えない膜が破れるような軽い衝撃。
白と薄紅の揺らぎが炎の色に溶け
無数の花弁が弾けるように舞い
焦熱の風に煽られながらも焦げず──
炎の中を散り散りに飛んでいった。
それは
敵を探し出し、時也に伝えるための術式。
しかし──
その術を発動させた直後
時也は膝から枯れた老木のように崩れ落ちた。
熱で乾ききった畳がばさりと鳴り
膝頭には煤と灰が食い込む。
腰の骨にまで熱が侵入し
脊髄の一本一本が炭化してゆくようだ。
炎の中、朽ちかけた床に座り込む。
その目の前には──
雪音の首。
彼女の顔は、血に濡れながらも
穏やかな微笑みを湛えていた。
睫毛は炎の明滅に合わせて淡い影を頬へ落とし
唇の端には
僅かに春の名残のような柔らかさが宿っている。
頬を伝った血は、途中で乾き
細い黒い線となって時間を刻む。
断面から漂う鉄の匂いが
失われた体温の冷たさと絡み合い──
胸の奥を内側から削る。
時也は
震える手で、それを掻き抱いた。
まるで、幼い頃のように──
雪音の小さな体を抱きしめた
あの頃のように──
しかし、もうその体はない。
あるのは、首だけ。
腕に収まる重さは、軽すぎた。
あまりにも軽く
世界が間違ってしまったことを
重さそのものが告げるようだった。
髪は煙の匂いを纏っても柔らかく
時也の額に触れた皮膚は
静謐な宝石のように沈黙している。
「⋯⋯っ!!」
その喉の奥から
絞り出されるような声が漏れる。
声と呼べぬ、まるで砕けた硝子の擦過。
呼吸は熱い刃となって気管の内壁を削ぎ
息を吐くたび胸の内側で何かが破ける。
音にならない
喉を焼き尽くすような叫び。
その場に倒れ込むように
雪音を抱きしめる。
頬は血に濡れ
額は灰にまみれ
涙は熱に乾いてはまた湧く。
腕の内側を伝う血はぬるく
やがて冷えて重くなり、皮膚へと張りつく。
そして──
心の底から叫んだ。
「雪音ぇええええええええええええええええええええええええっっ!!!!!!」
半身の名を。
その名を。
その名だけを。
叫びは燃え盛る屋根を貫き、夜空へ放たれ
星のない闇にひびを刻む。
音が尽きるたびに胸は空洞となり
次の瞬間には更なる叫びを求めて攫われる。
名を呼ぶたび
過ぎた日々が千切れては燃え──
燃えては千切れる。
炎が、紅く燃え上がる。
崩れゆく屋敷の中──
時也の咆哮だけが
夜の闇を裂くように響き渡っていた。
炎が屋敷を飲み込み、瓦礫が崩れ落ちる。
梁の折れる鈍い音。
土壁が剝がれ落ちるざらついた音。
庭石が熱で割れる乾いた破裂音。
すべてが一度に押し寄せ
世界の音は赤一色の奔流となる。
舞い上がる灰の中で——
時也は、雪音の首を抱きしめ
叫び続けていた。
「雪音っ⋯⋯っっ!
雪音ぇえええええええええええっっ!!!!」
涙が枯れる事はなかった。
涸れては滲み
滲んでは焦げ
焦げてはまた湧く。
胸から湧き出すものは涙だけではない。
後悔、赦し、祈り、憎悪──
それら全てが熱に渦巻き
喉から迸る咆哮へと溶かされる。
彼の心の半分が〝此処〟で──死んだ。
幼い頃から、ずっと支え合ってきた存在。
格子越しに指を絡め
未来の断片を分け合った夜。
寒い床の冷たさを共有しながら
それでも笑い合った朝。
誰よりも近く
誰よりも大切だった妹。
その存在を、たった一夜で──
奪われた。
「時也様っ!どうか、避難を!!」
青龍の声が響く。
熱を裂くような鋭さでありながら
どこか震えを孕む。
煙の層と炎の壁の間を縫う術風が
わずかに冷ややかさをもたらす。
だが、時也は動かない。
崩れ落ちそうな屋敷の中で
ただ雪音の首を抱き
震えながら叫び続ける。
「ああぁあぁあああぁああぁああぁあぁあぁああぁぁああぁあぁあっっっ!!!」
それは
嗚咽というよりも、壊れた魂の断末魔だった。
声帯は裂け、息は血を含み
胸の内の空洞には風が渦を巻く。
世界の輪郭はにじみ
ただ腕の中の重さだけが
現実の末端をつないでいる。
「雪音⋯⋯雪音っ⋯⋯!!」
──もう、返事は無いのに。
呼びかけは宙で崩れ
炎の呼気に呑まれ
灰となって頬に降りかかる。
返事のない世界の静けさほど
残酷なものはない。
青龍の表情が苦しげに歪む。
(⋯⋯このままでは⋯⋯)
「時也様っ!!失礼いたします!!」
次の瞬間──
青龍は時也の身体を無理矢理に担ぎ上げた。
熱を遮る術の膜が一瞬だけはためき
冷たい気が皮膚に沿って走る。
「──離せっ⋯⋯!!まだ⋯⋯っ!」
腕が振り上がり、指が空を掴む。
その空の手触りは何も返さない。
なおも抱え続ける首の重さが
骨の奥へ痛みを刻む。
「時也様っ!今は──生きねばなりません!」
「うるさい!!離せぇっっっ!!」
時也は暴れた。
肩が軋み、肋が悲鳴を上げる。
それでも、青龍は彼を離さない。
その腕は
幾多の戦をくぐり抜けた鋼のように固く
震えながらも目的だけを見据える。
「お前は⋯⋯!
何も⋯⋯何も、わかっていない──っ!!
雪音が⋯⋯雪音がぁぁっっ!!!!」
あぁ⋯⋯さぞかし⋯⋯
─痛かっただろう─
─苦しかっただろう─
何度でも繰り返し
壊れたように叫び続ける時也。
言葉は刃となって己の胸へ突き刺さり
そのたび鮮血のような記憶が溢れる。
格子越しの微笑
幼き手の温もり
未来を告げる静かな声──
すべてが今
残酷な鮮明さで胸腔に現れる。
青龍に運び出され
屋敷の外に降ろされ震えるその背中を
待っていた琴が、そっと撫でた。
「──時也様⋯⋯っ」
彼女もまた
声にならない嗚咽を漏らす。
煤で汚れた指先が震え
頬に走る涙は灰で灰色に濁る。
喉は熱で擦れ、言葉は生まれる前に焼け落ちる。
青龍も
ただ黙って彼の背を撫でた。
何も言えなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
──無力だ。
青龍は、無力だった。
時也の叫びを止める事も
雪音を救う事も。
何一つ、できなかった。
後悔しても戻りはしないと、わかっている。
それでも──
青龍の拳が、強く握りしめられた。
掌の中で骨が軋み
爪は皮膚を破り
温い血が掌へ滲む。
悔恨は肉体の形をとり
拳という硬さでしか留めておけない。
「⋯⋯申し訳、ございません⋯⋯時也様──っ」
時也の背中に、震える声が落ちた。
だが
その声すらも──
時也の壊れた叫びに掻き消されていく。
夜は、ひたすらに長かった。
潰れた喉で
嗚咽を零す時也の腕の中には──
雪音の首。
その微笑みは、今もなお穏やかだった。
穏やかさは
時也を救うのではなく──彼を裁く。
守れなかったという罪責を
静かな曲線で映し返す鏡となる。
時也は崩れ落ちたまま
ただ声にならない嗚咽を漏らし続ける。
─何もかもが、奪われた─
─何もかもが、壊れた─
その彼の背に
一枚の桜の花弁が降り注いだ。
炎に舐められてなお焦げず
白と薄紅は闇の中で淡い灯となる。
ひとひら、ふたひら──
肩へ、髪へ、雪音の微笑む口元へ。
美は、しばしば最も冷酷な瞬間に現れる。
その美しさとは裏腹に
この夜ほど悲しく、狂おしいものはなかった。
「⋯⋯⋯⋯⋯みつ、けた」
その瞬間──
時也の顔が、僅かに上がる。
涙の道は灰でまだらに乾き
瞳孔は深い井戸の底へ落ちている。
青龍は、その顔を忘れることはないだろう。
瞳に宿るのは、底なしの闇。
其処には
かつての櫻塚時也はいなかった。
あるのはただ
復讐という名の──
(⋯⋯修羅⋯⋯っ!!)
青龍の背を、凍った刃が撫ぜ上げる。
刹那──⋯
時也の身体が
桜の花弁となって霧散を始めた。
「──っ!?時也様!!」
青龍の手が、彼を掴もうとする。
だが⋯⋯
その手は、桜の花弁を掴む事ができなかった。
青龍の指を
無数の花弁がすり抜け空へと登って行く。
花弁は風の腔を滑り
夜の深みへほどけては結び
光の見えない道を迷いなく駆け上がる。
残されたのは──虚空。
(⋯⋯時也様⋯⋯っ!追わなければ──)
⸻
そして──
青龍が時也の気配を追い、辿り着いたときには
すべてが、終わろうとしていた。
「────っ!!」
青龍が見たのは
血に染まった一つの光景。
肩で荒く息をする時也。
呼吸は鋸のように荒く、喉は血の味を吐く。
その腕には、微笑む雪音の首。
そしてその視線の先には
無数の桜の花弁に首を吊り上げられた──
屋敷の主。
凶行の指揮者。
男の顔は、恐怖に歪んでいる。
唇は泡を吹き、目は白く剝け
喉は湿った鳥のように痙攣する。
首に巻き付く、無数の桜の花弁。
花弁は静かに絡み合い
鎖のようにより合わさり
柔らかさの仮面で冷たく絡め取る。
白と薄紅の連なりが──
生命の通い道を黙々と閉じる。
桜の花の鎖が
男の生命を静かに絞め上げていた。
「ひ、ひいいっっ!!
たす、助けて──っ!!
誤解だ、誤解なのだぁっっ!!」
無様な命乞いの声が響く。
だが、時也の耳には届いていなかった。
耳朶は遠雷のような血の轟きで満たされ
世界の言葉は意味を失った。
彼の目に映るのは、ただ──復讐のみ。
桜の花弁が、舞う。
それは、刃と化し——
男の身体を、斬り刻み始めた。
幾度も。
幾度も。
幾度も──。
切先は肉の繊維を割き
骨の表面を撫で
血潮が噴くたびに
花弁はさらなる刃へと研がれていく。
柔を極めたものが、最も鋭い。
静を極めた動きが、最も速い。
血が飛び散る。
桜色の花弁が、鮮血に染まる。
男は、悲鳴を上げる間もなく
何度も何度も切り裂かれ──
そして、やがて
沈黙が落ちた⋯⋯⋯。
血の雨が降る
時也の身体に
雪音の首に
全てが、紅に染め上げられていく。
夜気に混じる鉄の匂いは濃く
舌の上に金属の粉をまぶしたような不快が残る。
だが──
それでも、時也は満たされなかった。
彼の中で
怒りも、悲しみも、何一つとして収まらない。
喉が潰れ、血を吐きながらも──
彼は、再び咆哮する。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!!」
その叫びは
夜の闇を引き裂くように響き渡った。
それは──
愛するものを喪った、哀しき修羅の咆哮だった。
空は、まだ明けない。
星は姿を隠し
風は血の匂いを運び
遠くの竹林は
すべてを見なかったように黙っている。
時也の胸腔には、なお空洞があった。
復讐の刃でも埋まらない
名を呼ぶためだけに開いた穴。
そこへ
風が
灰が
夜が
そして沈黙が──
果てしなく流れ込んでいく。
そして世界は、ゆっくりと
彼の悲鳴の余韻だけを抱いて
先へ進もうとしていた──⋯




