第43話 血染めの雪
櫻塚家の屋敷に──断末魔の声が響いた。
夜闇を裂くような叫び。
それは幾代にもわたりこの屋敷を支配し続け
権勢と恐怖で家人を縛ってきた男の──
最期の悲鳴だった。
濃紺の帳に包まれた夜は
その声をも呑み込みきれず
風に乗せて庭の竹林や池面にまで震わせる。
「⋯⋯雪音様っ!今のは──!?」
牢の前で控えていた琴が、はっと顔を上げる。
白く細い首筋に、緊張の汗が一筋流れ落ちた。
彼女は驚愕の表情で立ち上がり
その身を格子に寄せ
幽閉されている雪音を護るように覆い被さった。
だが──
牢の奥にいる雪音は、微動だにしなかった。
寧ろその唇に浮かんだのは、愉悦を含んだ笑み。
「お父様の⋯⋯あの男の、最期の声です」
静かに告げられる言葉。
夜気よりも冷たく
しかし、どこか甘美な響きを帯びていた。
満足そうな微笑み。
琴は、背筋を凍らされる。
凍てつく風に撫でられるかのように
胸の奥から震えがこみ上げた。
「⋯⋯雪音、様⋯⋯?」
震える声が漏れる。
だが雪音の双眸には、一片の迷いもなかった。
その瞳は闇に冴え渡り
まるで最初から
この瞬間を〝待ち続けていた〟かのように。
「⋯⋯琴」
牢の中で凛と響く声。
「あの男が死んだからには
櫻塚家、現当主は⋯⋯お兄様ですわ」
言葉には冷たくも、確かな権威が滲んでいた。
彼女の声は
幾千の祈祷を重ねた巫女の祝詞にも似て
耳にした者の心を縛る。
「さぁ、此処を開けなさい。
私は当主の──半身です!」
琴の手は無意識に錠へと伸びていた。
——拒めなかった。
雪音の命令には、抗えぬ絶対の力が宿っていた。
それがあまりに恐ろしくて
琴は震える指で、恐る恐る鍵を外す。
「琴⋯⋯どうか、私の傍へ」
琴の胸が、緊張に大きく高鳴った。
(雪音様を⋯⋯護らねば!
賊が、この屋敷を襲っている!)
忠義と恐怖がないまぜになり
琴は迷いなく牢の中へ足を踏み入れた。
瞬間──
──ガチャンッ!
「──え?」
耳を劈く錠の音。
琴が振り返った時
雪音は既に牢の外に立っていた。
「ゆ、雪音様!?何をなさいますっ!」
「琴⋯⋯今まで、世話になりました」
牢の外から、雪音は静かに言った。
その表情には、微かな慈しみと決意が浮かぶ。
「貴女が居なければ⋯⋯
私たち兄妹は、とうの昔に壊れていたでしょう」
琴の目に涙が滲む。
「ありがとう。そして──さようなら」
「雪音様っっっ!!
どうか、お戻りください!雪音様ぁっ!!」
琴の絶叫を背に、雪音は歩き出す。
懐刀を手に、まっすぐに──⋯
⸻
「当主は討った!櫻塚時也を探せっ!!」
屋敷の至る所で賊の叫びが轟く。
廊下を走る足音、乱れ飛ぶ障子の音。
血と煤の匂いが空気を刺し
蝋燭の炎が無惨に揺れ
廊下の影を怪物のように踊らせる。
しかし──
屋敷の奥、賊の喧騒が木霊する廊下を
雪音は静かに歩んでいた。
初めて踏みしめる畳の感触が
足裏を伝って身体に沁み渡る。
湿り気を帯びた夜の空気は
障子の隙間から吹き込む冷風と混ざり
どこか血と煙の匂いを孕んでいた。
壁に掛けられた灯明は乱れに揺れ
影を伸ばして雪音の横顔を幾重にも映す。
その顔は微笑を浮かべていたが
この屋敷に染みついた長年の怨嗟を
まるで見下ろすかのように
凛として揺るがぬものだった。
彼女にとって
この屋敷の内部を歩くのは初めてのことだった。
生まれてから二十年──
彼女が見てきたのは
格子越しの限られた景色だけ。
廊下の軋みも、壁に飾られた書画も
庭から忍び込む虫の音も──
すべては格子の向こうにしかなかった。
だから今、自由の身として歩む一歩一歩は
失われた時間を確かめる旅そのものだった。
ふと
目に留まったのは廊下の端に立つ一本の柱。
そこには小さな刻み目が幾筋も走っていた。
子供の成長を記した浅い線は
蝋燭の灯に照らされて
銀糸のように浮かび上がる。
雪音は、白い指先をそっと当てた。
(⋯⋯この柱ね)
「青龍が、お兄様の背を記録した柱は」
木肌のざらつきが指に伝わり
心に思い起こされるのは
座敷牢に訪れる度、その中で共に微笑む兄の姿。
「ふふ⋯⋯
お兄様も、昔はこんなにお小さかったのね」
囁きに似た声が廊下に零れた瞬間──
「──誰か居たぞっ!!」
怒声が空気を裂く。
賊達の足音が畳を蹴り
複数の松明がゆらめきながら迫る。
油の焦げた匂いと
血の鉄錆びた臭気が混じって鼻を突いた。
「櫻塚時也⋯⋯!?
いや⋯⋯似ているが──女だっ!!」
雪音の瞳が鋭く細められる。
凍てつく光を宿した双眸は
闇夜に煌めく刃のように賊達を射抜いた。
「無礼者──!」
その声音は、雷鳴のごとく廊下を震わせる。
「此処は、現陰陽頭である櫻塚家⋯⋯
それ以上、荒らすでないっ!」
賊達は一瞬たじろいだ。
彼女の放つ気迫は、若き娘のものではなく
幾代もの陰陽師の血脈を背負った
権威そのものだった。
しかし、賊はすぐに互いを見合わせ
鋭い声を上げながら手の刃を握り込む。
「お前達も⋯⋯この顔に見覚えがあろう?」
雪音は一歩、前へ踏み出す。
血を吸った畳が軋み、衣擦れの音が夜を裂いた。
「櫻塚時也は、双子⋯⋯
私が、時也に未来を予見し──導く者だ!!」
「み、未来を予見、だと⋯⋯っ!?」
「──道理でっ!!」
ざわめきが広がる。
驚愕に目を見開く者
恐れに武器を握りしめる者。
松明の炎は揺れ、彼らの影は乱れ踊った。
「読心術などではなかった!!
未来視の女を捕らえよ!!」
「下がれ、無礼者どもっ!!」
雪音の一喝が、廊下を切り裂いた。
その声に賊達は一瞬足を止める。
だが彼女は既に
懐刀をその白く細い首筋へと押し当てていた。
「⋯⋯この異能が、欲しかろう?」
白刃が肌に触れた瞬間、冷ややかな気配が走る。
灯明の火が、刃に反射し──
赤と白の光を揺らめかせた。
賊達は息を呑む。
汗が一滴
畳に落ちる音すら響き渡るほどの──静寂。
雪音の瞳が、決然と輝いた。
「だが⋯⋯私はっ!!」
次の瞬間、刃が勢いよく──引かれた。
弧を描く鮮血。
鉄の匂いが一気に広がり、廊下の空気を圧した。
畳に散った血は
夜闇に鮮やかに滲み、広がっていく。
「愚か者に触れられるくらいならば──
私は、自死を選ぶっ!!」
桜色の着物は、瞬く間に深紅に染まった。
花が一斉に散り落ちるが如く
その紅は鮮烈で──美しかった。
雪音の唇に、微かな笑みが浮かぶ。
そして──嗤った。
その笑いは高らかでありながら
どこか静謐だった。
全てを見透かした者の、最後の解放の嗤い。
長い黒褐色の髪を揺らめかせながら
身体はゆっくりと膝から崩れ落ちる。
(お兄様⋯⋯どうか、どうか⋯⋯お幸せに)
(利用されるだけが
お兄様の人生ではありませんわ)
(愛し、愛される⋯⋯
それが⋯⋯お兄様の──真の道)
血は、屋敷の廊下を静かに染めていく。
風が吹き抜け、灯明が揺れる。
影が一度だけ大きく揺れ、やがて沈黙に溶けた。
夜は、静かに更けていった──⋯
⸻
「お前の背に乗るのも
随分と久しいですね⋯⋯青龍」
翌朝──
黎明の薄紫が天頂に滲み
夜と朝が指を絡め合う刻限。
漆黒の鱗は
星の屑を鏤めたように微細な光を抱き
銀白の鬣は高天原の風を撫で分けながら
奔流のごとく靡く。
青龍は雲の綻びを裂くように翼を広げ
その一拍一拍に、古き神域の鼓動が重なる。
冷たい空気が頬を斬り
鼻腔には高嶺の霧と湿った苔の匂いが刺す。
その龍の背に、時也は静かに佇んでいた。
狩衣の裾が風に吸い上げられ
帯が弓なりにしなる。
彼は眼下に広がる山脈の皺を
細やかな陰影まで拾い上げるように見つめた。
遠い谷から、まだ醒めきらぬ鳥の声。
崖の割れ目には昨夜の冷気が澱み
川面は鉛色の刃のように鈍く光る。
山崩れが起こるならば──馬では帰れない。
だからこそ
雪音は青龍を時也の傍に残したのだろう。
そう、何の疑いもなく思っていた。
胸の奥に宿るのは
妹の未来視を疑わぬ、長年の確信──
血を分け合った者だけが知る
透明な信頼の温度。
何も、知らずに──⋯
「⋯⋯時也様」
龍躯の喉奥から零れる響きは
洞窟の滴のように微かで
だが、震えを帯びていた。
「山崩れの跡が⋯⋯どこにも見当たりませぬ」
空の冷気が一段と硬くなる。
時也の眉が、眉間の一点へ静かに寄った。
「⋯⋯え?
雪音の未来視が、まさか外れる訳が──」
言いかけた瞬間、風の匂いが変わった。
湿った木樹と岩肌の匂いに
鋭い焦臭が割り込んでくる。
彼の鳶色の瞳が──
刹那、獣のように見開かれた。
遠くに見えるのは
屋敷から立ち上る──黒煙。
幾条にも千切れ
天へと爪を立てるように昇る黒。
空はそれを嫌悪するように風向きを変え
視界の端では火の粉が陽炎のようにちらつく。
耳の奧で
微かに柱の崩れるような鈍い連打が
鳴った気がした。
「⋯⋯っ!櫻塚の屋敷が──!!」
鼓動が、張り裂けるほどに警鐘を鳴らす。
境内の太鼓を怒涛に打つような、粗い拍動。
指先が冷え──
次の瞬間には灼けた鉄のように熱を孕む。
「青龍!急ぎなさいっ!!」
命令は矢のように空を切った。
青龍は一拍の逡巡もなく
身を折り畳むや、猛然と滑空に転じる。
風は鞭、雲は裂帛──
耳元を引き剝がす疾風に、時也の髪が踊る。
山稜と山稜との狭間を刃の間合いで縫い
屋敷の輪郭が瞬く間に巨大化する。
瓦の一片
庭の石灯籠
池を囲う竹の海
すべてが炎の呼気に照らされて
赤黒く脈動している。
屋敷など、どうなったって良かった。
ただ──雪音だけは。
まだ、彼方此方で火が燻る屋敷の上空。
焦げた檜皮の臭いが刺し
熱気は龍の鱗すら乾かすほど苛烈だった。
地下の座敷牢へと続く階段が
焼け爛れた瓦礫の間から覗くのを認めた瞬間──
時也は躊躇う事も無く青龍の背から飛び降りた。
「──時也様っ!なんて、無茶を!!」
青龍の叱咤が風に千切れる。
彼も直ぐに人の姿を取り
黒煙を裂いて後を追う。
空中で時也は袖口から素早く護符を引き抜き
炎の渦を見極めて地へと打ち放った。
「──破っ!!」
護符が弾けて鬼火のような薄光を溢し
衝撃を吸い込む。
時也の身体は刹那ふわりと浮き
着地の怯えをも忘れた足裏が
灰に埋もれた土間をしっかりと掴む。
膝を抜いて衝撃を逃がし
そのまま受け身を転じて
崩れ落ちそうな瓦礫の間隙を走り抜ける。
熱で膨張した梁が悲鳴を上げ
壁紙は黒蛇のように丸まり
空気は喉笛を焼く。
目指すは──地下の座敷牢。
そこにしか、雪音の気配は結び直せない。
鳶色の瞳の焦点は煙の層を一枚ずつ剥ぐように
地下口の暗い穴を捉え続ける。
「──っ!時也様っ!!」
階段を跳ね下りたその先
視界の底で格子が微かに光を拾う。
座敷牢の格子の中には
影のように細い人影──琴。
火の粉に斑を刻まれた頬
喉元で上下する息。
瞳は泣き濡れたように潤んで
必死の焦りを訴えている。
「琴──!?どうして、貴女が中に!?」
琴は、流れ込む煙の中で口を開く。
しかし、吸い込んだ瞬間
煤が気道に刺さり、咳が喉の奥で爆ぜる。
胸が折れるように蹲り
そのまま石畳に手をついた。
肺を焼かれたような嗄れた音が
熱に歪んだ空間で悲鳴のように弾む。
「青龍!琴を頼みました!!」
「御意っ!」
青龍は即座に格子へ
腕を回しながら身を捩り、錠ごと蹴り砕くと
琴を抱き上げて顔を布で覆い
冷えた風を通す術を一挙に張る。
肩口に触れた青龍の指先へ
琴の脈が、か細く伝わる。
その安堵の瞬きを背に
時也は再び、跳ぶように駆け出した。
煙の燻る座敷牢を突き抜ける。
炎が壁の土を舐め
木の芯を炙り上げ
油の古臭が鼻腔を汚す。
焦げた畳の上を踏みしめるたび
足袋の底が粘つく。
梁の上では火が生き物の舌のように伸び
襖は焦げ目の花を咲かせながら崩れ落ちてゆく。
途中で──父の遺体が転がっていた。
歪んだ顔や口元には、乾いた黒。
豪奢であったはずの直衣は煤にまみれ
濁り始めた見開かれた眼が
炎の明滅に合わせて醜く光る。
だが、時也は刹那も気に留めなかった。
彼の鳶色の瞳が探すのは、ただひとつ──⋯
「雪音──っ!どこです!!」
熱が声帯を焼く。
声は自分の喉を逆流し
胸骨の内壁を掻きむしるように響く。
火の粉が舞う中で、彼は叫ぶ。
「雪音ぇーーーっ!!」
瓦礫が崩れ、燻る柱が再び火を上げる。
その向こう
そして、彼は──見つけてしまった。
膝が震える。
足首から上へ
遅い雷鳴のように震えが這い上がる。
汗は蒸気となって肌を離れ
黒褐色の髪は逆立つように持ち上がり
指先は握る事も開く事も叶わぬ緊縛に囚われた。
頭が──それを拒んだ。
視界は焦げ茶の膜を張り
音は遠い水底へ沈む。
進めない──
いや──〝進みたくない〟
歩幅が寸断され
〝行かねば〟と〝進みたくない〟が
胸の内で二重唱となって
まるで互いの喉を絞め合うようだった。
深紅に染まった──桜色の着物。
炎の赫に照らされる──血の海。
畳は吸いきれず
縁を越えて、その下に黒い湖を広げていた。
──無数の刺し傷。
衣の乾きかけた血は漆のように光り
細かな黒い縁を帯びている。
──斬り落とされた首。
髪は床に絹のように広がったまま焔の風に揺れ
白磁の頸は断面に紅を抱いて静まっている。
それでも、彼女は──微笑んでいた。
唇の端がかすかに上がり
長い睫毛の陰が頬に安らぎの弧を落とす。
まるで、全てを受け止めるかのように──
それが運命だったと知っていたかのように──⋯
ねぇ、お兄様──
声なき声が
流れの途絶えた小川の底から
泡のように立ちのぼる。
時也の脳裏には
幼き日に座敷牢の中で交わした言葉
屈託なく笑う向日葵のような笑顔
自分を想って涙を零す顔──
すべてが一度に蘇る。
だが、音はない。
世界から音が──剥ぎ取られている。
時也の喉から
声とも言えないものが掠れるように
焼き尽くすように溢れ出た。
最初は
それが自分の声だとは気付かなかった。
胸郭が勝手に開き
腹腔の奥、臍のさらに底から
古く巨大なものが這い出してくる。
─それは、龍の咆哮─
─半身をもがれた、龍の咆哮─
音は炎を裂き
空気を逆巻かせ
屋敷の天井が崩れ落ちる。
梁が悲鳴を引き延ばしながら潰え
柱が片足で立とうとして崩折れる。
火の粉が宙を舞い
紅い雪が逆風に乗って斜めに降る。
時間が一度止まり、次に跳ね
そして千々に割れる。
時也の世界が、音と色を失くしていく──
赤は褪せ
黒は深く
白は眩暈のように脈打つ。
指の節々から熱が抜け
膝裏が空洞になり
足裏は虚空の床を踏むよう。
視界の中央にあるのは
血の湖に浮かぶ桜の袖──それだけ。
彼の中で
何かが、崩壊した。




