第42話 警告と安息
陰陽寮の一室は、夜の帳に深く沈んでいた。
墨を流したような闇が柱や障子を包み
わずかな燈火だけが
机上の書簡を淡く照らしている。
紙の上を滑る筆は既に置かれ
静寂が戻った空間に
薄障子の隙間からひやりとした風が
吹き込んでいた。
政務に追われた日の終わりに訪れる
この静けさは、時也にとって
己を取り戻すための唯一の刻である。
だが、その安らぎを破るように
ふと──空気が揺れた。
耳では捉えきれぬほどの微かな響き。
それでも、彼には十分であった。
「⋯⋯青龍、か?」
視線を上げた時也の前に
次の瞬間──
長い銀白の髪を揺らし
琥珀色の角を戴く青年が跪いていた。
灯火に照らされたその姿は
久しく変わらぬ凛々しさを湛え
威容を崩すことがない。
「時也様。お久しゅうございます」
低く響く声は
静けさを乱すことなく馴染んでいく。
時也は微笑を浮かべながら
ゆるやかに膝を向けた。
「どうしました?当主の命⋯⋯ではないですね」
問いに応じるように
青龍の表情はわずかに引き締まった。
深く頭を垂れると、懐から一通の文を取り出す。
「はい。雪音様よりの命で⋯⋯これを」
差し出された和紙は
指先に触れるだけで香の残り香を伝えてくる。
上質に漉かれたその紙に
端正な筆致が認められる。
「⋯⋯文、ですか」
目に映る文字の形に
時也の胸中に柔らかな波が広がる。
雪音の手がこの紙に触れ
筆を運んだのだと想うだけで
懐かしさが滲んだ。
封を解き、滑らかな筆の流れを追えば
そこには妹の声が息付いていた。
⸻
『お兄様へ。
この文が届く頃には
もう夜も更けているでしょう。
どうか、お身体をご自愛くださいませ。
本題にございます。
明日の帰宅は、決してなりませぬ。
山より禍が降りる刻
道は崩れ、川は怒り
帰路は断たれることとなりましょう。
お兄様が其処に留まるのならば
櫻塚家の名は護られます。
お心に掛かる事もありましょうが
どうか雪音の言葉を疑わず
ただ其処に留まり続けてくださいませ。
それこそが、お兄様を護る道でございます。
それでは──雪音より』
⸻
読み終えた時也は、ふっと唇を綻ばせた。
「⋯⋯雪音が言うのなら
そうなるのでしょうね」
声音は淡々としていたが
その底にある信頼は揺るぎなかった。
雪音が告げる未来は、もはや避けられぬ定め。
ならば、従うほかはない。
「明日は、陰陽寮に留まりましょう」
文を丁寧に折り畳み、袖に仕舞う。
祈りを捧げるかのようなその所作に
青龍は深く頭を下げた。
「ご苦労でした、青龍」
だが彼はなお、その場を動かず口を開いた。
「では、このまま私も──
屋敷に戻られるまで、お傍に居ります」
その言葉に、時也はわずかに目を細めた。
「⋯⋯それも、雪音からの言葉ですか?」
青龍は静かに頷く。
「左様でございます」
短い返答に、時也は微笑を深めた。
「……ふふ」
穏やかに、しかしどこか切なげに。
彼の鳶色の瞳が、夜空へと向けられる。
障子の向こうには、漆黒に瞬く星々が散らばり
澄んだ光を放っていた。
─まるで、遠い半身を慕うように─
遠くにあるはずの声と心を探すかのごとく
彼の視線は揺れた。
「では、久しぶりに話しましょうか。
雪音の様子を教えてください」
杯を手に取り、酒を注ぐ時也。
その所作は静謐でありながら
どこか温かさを含んでいる。
青龍は膝を正し
差し出された杯を受け取り深く頭を下げた。
「お望みのままに」
低い声が、夜の静寂に溶けていく。
こうして、二人の夜は更けていった。
⸻
「もう一杯、いかがです?青龍」
杯を傾けながら
時也は静かに言葉を投げかける。
酒の香がほのかに漂い
障子越しの月光が盃の中で揺らめいた。
その問いに、青龍は目を細める。
「⋯⋯あのお小さかった時也様が
酒を嗜まれる頃になりましたか」
声音には、深い感慨が滲んでいた。
時也はすでに二十の齢を迎えている。
だが青龍の眼差しに映るのは
まだ幼き日の面影であった。
「ふふ。
お前には⋯⋯幼い頃より随分助けられましたね」
穏やかに紡がれる言葉。
その笑みは柔らかい光を帯びていた。
だが、青龍の心に走るのは痛みであった。
その笑みが
純粋な感情から生まれたものではないことを
知っていたからだ。
まるで──
重い鎖に擦れた肌を守るために
厚く綿を詰め込むようなもの。
人々の声に晒され続けた彼が
自らを傷つけぬように織り上げた仮面の笑み。
そうと知る青龍の瞳には
山吹色の光が切なげに揺れた。
障子の外では虫の声が絶え間なく響き
遠い川音が夜の深まりを告げていた。
灯火に揺れる二人の影は
寄り添うようにして揺れ続ける。
星の光と杯の水面とが交わり合い
夜を包む静けさの中で
二つの魂は密やかに結ばれていた。
──夜は、なおも深く。
それでも、盃を交わすそのひとときだけは
確かに温もりを帯びていた。
青龍は、ふと盃を手にしたまま
過ぎし日を思い返していた。
彼の胸裏に蘇るのは、幼き双子の姿。
父母の愛情を受けることもなく
座敷牢の石畳の上で
互いを支え合いながら生きてきた幼い兄妹。
その孤独の中で
唯一許された〝子供らしさ〟を垣間見せたのは
自らの前にある時だけであった。
⸻
──かつて、座敷牢の中。
冷たい石の床に腰を下ろす青龍の膝の上で
双子は笑っていた。
雪音が小さな手を伸ばし
恥じらいもなくねだる。
「ねぇ、青龍!たかいたかいして?」
声は澄み切って愛らしく
幼さゆえの欲に曇りがなかった。
青龍は思わず眉を寄せ
しかし柔らかに答える。
「雪音様……お怪我をされては大変です。
座ったままの私の背では
それほど高くはなりませんよ?」
「でも、あに様よりは高いでしょう?」
その言葉に、隣の少年の表情がぴくりと動いた。
「……お前は
僕を馬鹿にしているのですか、雪音?」
時也は唇を尖らせ、雪音を睨む。
だが雪音は、にんまりと笑い
青龍の袖を引き寄せた。
「だって、あに様は……
座ってる青龍より小さいもの!」
その率直すぎる言葉に青龍は小さく息を洩らし
しかし微笑を浮かべた。
「ふふ……そうですね。
雪音様の仰る通り。
ですが直ぐに、時也様も大きくなられましょう」
そう言って雪音を軽やかに持ち上げた瞬間
雪音の口から歓喜の声が弾けた。
「わぁぁ……っ!」
その目は宙に浮いた感覚に大きく見開かれ
純真な光に輝いていた。
その様を横で見つめながら
時也は腕を組んだまま
じっと青龍を睨んでいた。
「……青龍」
「はい、時也様?」
「……僕も、お願いします」
声は低く
誇りを保ちながらもどこか子供らしい。
雪音はけらけらと笑い、頬を紅潮させる。
「あに様、やっぱり悔しかったんですね?」
「……違います」
不器用に言い返すその姿は
幼き日の矜持に満ちていた。
「ふふ……では、参りますよ」
青龍は時也を持ち上げる。
だがその瞬間
小さな手がぎゅっと襟元を掴み、震えを伴った。
「……っ!」
青龍は即座に気づき、声をかける。
「……時也様?」
時也は目を伏せ、小さく震えながら呟いた。
「……な、なんでも⋯⋯ありません……」
その声は掠れ、幼き恐怖を滲ませていた。
雪音が見つめ、首を傾げる。
「あに様、怖いのですか?」
「むぅ……怖くなど、ありません」
そう言いつつも、時也の小さな手は
なお青龍の着物を強く握りしめて離さなかった。
青龍は静かに彼を降ろし、深く頭を垂れた。
「……申し訳ございません、時也様」
降ろされた時也は唇を噛み、視線を上げる。
「……笑わないのですか?」
「何を、でしょう?」
「……僕が……怖がった事を」
青龍は首を振った。
「いえ……時也様は、よく耐えられました」
時也は瞬き、わずかに瞳を揺らした。
「……耐えた……?」
「ええ」
青龍の声は、柔らかに揺れる燭火のようだった。
「……怖くても、時也様は逃げなかった」
その言葉に、時也は息を呑み
そして、ふっと小さな笑い声を零した。
「……青龍。貴方は……変わり者ですね」
それだけ告げると
背を向けて座敷牢の奥へと歩んでいった。
その背は小さくとも
揺るぎない芯を秘めていた。
⸻
──今もなお
青龍の胸にはその光景が残っている。
彼は盃を手に取り、目の前の青年を見やった。
「……時也様」
「なんです?」
「本当に、よく……成長なさいましたね」
盃を傾けた時也は、ふと笑みを浮かべる。
「……そうですか?」
「ええ」
短い肯定に
青龍の声はどこか滲むように響く。
「……ならば、また
昔のように僕を持ち上げてみますか?」
時也の、その冗談めいた言葉に
青龍は思わず息を洩らした。
「さすがに、それは⋯⋯ご勘弁を」
「はは!残念ですね」
盃の縁に映る時也の笑みは穏やかで
しかしどこまでも遠かった。
青龍はその笑みを見つめながら
もはや言葉を継がなかった。
己が主が纏う鎖のような孤独を知りながらも
それを口にすることは許されぬと悟っていた。
ただ杯を傾け、静かに告げる。
「では、時也様」
「なんです?」
「……私がいる間だけは
心から酒を楽しんでください」
時也はふっと息を洩らし
瞳を伏せてから微かに頷いた。
「……ええ。
では、お前の言葉に……甘えましょう」
盃が軽く触れ合い、細やかな音を立てた。
それは夜の静けさを破るのではなく
むしろ深める音であった。
二人は杯を交わし、時の流れを委ねる。
燭火は影を揺らし、外の風は障子を撫でる。
──夜は、ゆるやかに更けていった。




