第41話 冷酷なる陰陽師
──朝廷、大極殿の大広間。
高殿の天井には龍と鳳凰の蒔絵が燦然と輝き
空間は冷たい光を宿していた。
帝の御前──
左右に並ぶのは代々の大臣、公卿。
香炉から漂う沈香の匂いが
張り詰めた空気をさらに濃くし
誰一人として軽口を叩く者はいなかった。
その中央に立つ一人の若者──
陰陽頭、櫻塚 時也。
齢二十にして、朝廷最高位の陰陽師。
黒に近い藍染めの狩衣を纏い
背筋をすっと伸ばすその姿は
若さを超えて凛然とした威厳を漂わせていた。
穏やかに細められた鳶色の瞳は
微笑みを浮かべているようでありながら
そこに温度はなかった。
時也が広間に入った瞬間
ざわついていた声はぴたりと止んだ。
ただ彼が立つだけで、貴族たちの背筋は硬直し、畏れを含んだ沈黙が広がる。
──この男の前では虚言は通じぬ。
誰もが、それを知っていた。
彼の耳は言葉を聞くためのものではない。
心の声を暴くための刃。
巧妙に飾った嘘も
裏に潜む企みも──
すべては彼の前では裸同然。
「……陰陽頭殿」
重々しい声が、沈黙を破った。
年老いた大臣、中納言雅継である。
額に皺を寄せ、慎重に言葉を紡いだ。
「先日の件
やはり幕府方が裏にて糸を引いておるのか?」
時也は目を閉じた。
しばしの静寂──
呼吸すらも整え、瞑目した姿は
まるで彼自身が
空の流れと一体化したかのようだった。
広間の空気は重く沈む。
息を潜める貴族たちの鼓動が
互いに聞こえるのではないかと
思えるほどだった。
やがて、時也はゆるやかに目を開く。
「……陛下」
その低く静かな声に
玉座に座す帝が顔を上げた。
帝は未だ若いが
その目に浮かぶのは深い疲労と警戒の色。
「幕府が関与している可能性……
高うございます」
凛とした声音。
だが冷たい。
そこに揺るぎはなく
まるで天地の理を告げるかのようだった。
「動いたのは三の家。
しかし、その背後には……さらに上。
五の家の者が控えております」
その言葉が放たれた瞬間
広間を走ったのは緊張と恐怖だった。
三の家、五の家──幕府の中枢を担う有力一門。
彼らの名がここで告げられることの意味を
全員が理解していた。
「証拠は?」
帝の声が低く響いた。
しかしその問いに、時也は微笑を浮かべた。
「……必要、でございましょうか?」
その表情は穏やかだが、答えは冷酷だった。
証拠などいらない。
彼が「そうだ」と言えば、それが事実になる。
それこそが
読心術を持つ陰陽頭という存在の圧倒的な力。
誰も反論など、できない。
帝の唇が僅かに動いた。
しばしの間、広間は再び沈黙に包まれる。
やがて帝は、静かに頷いた。
「ならば……幕府へ調査を入れよ」
「御意」
深々と頭を下げる時也。
その所作は優雅で
無駄のない美しさを伴っていた。
しかし、その美の裏に潜むのは
冷徹な裁定者の顔だった。
会議の後、貴族たちの間にざわめきが広がる。
「……あの男がいる限り、我らの策は無に帰す」
「嘘も、偽りも……すべてが暴かれる」
「もはや政治ではない。
裁定だ……櫻塚時也による、裁定……」
彼らの心の声は恐怖で満ちていた。
そして、その全てを時也は聞いていた。
だが、彼の表情は仮面のように変わらなかった。
⸻
政務を終え、退出の折。
時也は広間を出ると、ふと空を仰いだ。
薄紅の夕陽が
瓦屋根の連なる都を照らしている。
その光景はあまりにも美しく
あまりにも変わらぬもの。
「……雪音」
誰にも聞こえぬ声で
ただひとり妹の名を呟いた。
牢の鎖は、いまだ解けぬ。
そして、自分自身もまた
逃れられぬ鎖の中にいた──
⸻
夜の帳が
櫻塚家の屋敷を深々と包み込んでいた。
静寂は重く、庭先に立つ老木すら
風を忘れたかのように動かない。
蝋燭の火が揺らめき
障子の紙に淡い橙の影を刻み付ける。
その光は弱々しく
まるでこれから起こる事を恐れるかのように
小さく脈打っていた。
広間には二人の影。
ひとりは、銀白の髪を背に垂らした青年の姿──
式神、青龍。
もうひとりは、座敷牢の奥に鎮座する少女──
櫻塚雪音。
「……青龍」
その声は
水面に落ちる一滴の露のように澄んでいた。
しかし同時に、揺るぎなき意志を秘めていた。
青龍は、顔をわずかに上げる。
長らく父の命により、時也から離され
雪音の傍に仕えることを命じられていた。
彼の役目はただひとつ──
この娘を見守り、外界と隔てる枷となること。
「……何か御用でしょうか、雪音様」
低く応じる声。
その山吹色の瞳が
焔に照らされて陰影を帯びる。
雪音の鳶色の瞳が、ゆるやかに青龍を射抜く。
そこには幼さも怯えもなく
ただすべてを見通す者の眼差しがあった。
「青龍。
お前はこれから──
お兄様のお傍を、片時も離れてはなりません」
一言一言、確かめるように放たれたその言葉に
青龍は眉を僅かに動かした。
「……それは、従えませぬ」
彼の声は低く重い。
当主の命令に背くことを意味するからだ。
それは、雪音自身も理解しているはずだった。
だが、雪音はふっと微笑んだ。
その微笑は儚げでありながら
揺るぎない強さを秘めていた。
「いいえ、青龍。貴方は従いますわ」
声色は柔らかい。
しかし、その響きには拒絶を許さぬ刃があった。
「だってこれは……
お兄様の生命に関わる事なのですから」
その言葉に、青龍の目が細められた。
冷たい光が山吹色の瞳に宿り
しばしの沈黙が二人の間を覆う。
「お父様の命令よりも大切なこと……でしょう?
〝櫻塚家〟の為に」
雪音の声音は
未来を見据えた者だけが持つ確信に満ちていた。
青龍は、深く息を吐く。
そして、ゆっくりと目を伏せると
静かに頭を垂れた。
「……御意」
その一言に、雪音の唇が淡く弧を描く。
青龍はわずかに躊躇い、やがて言葉を選んだ。
「雪音様も……どうか、ご無事で」
「琴が居れば平気ですわ。
私の〝言葉〟ですよ?」
柔らかく告げられた言葉。
だが、その裏には揺るぎなき力──
未来を視る巫女の権能があった。
雪音の言葉は確定された運命そのもの。
それを知る青龍は
それ以上の言葉を飲み込んだ。
雪音は
膝の上に添えていた手をそっと動かす。
小さな封書を取り出すと
青龍へと差し出した。
「それと……この文を、朝廷にいるお兄様に」
「……かしこまりました」
青龍は両手でそれを受け取り、深々と一礼する。
次の瞬間──
彼の姿は風と水飛沫へと変じ
広間から掻き消えた。
残された空間に、再び静寂が戻る。
雪音は長く息を吐き
震える指先を膝の上で握りしめた。
──何を恐れることがある。
──これは、自ら決断したこと。
──これは、自ら望んだこと。
お兄様を生かすために。
お兄様が父の掌から逃れるために。
それこそが──私の選んだ道。
雪音は目を閉じ
心に言い聞かせるように呼吸を整える。
「……琴」
その声に
座敷牢の隅で控えていた老女が姿を正す。
乳母──琴。
幼き頃より雪音の世話をし
その秘密を知る、数少ない者。
雪音は、その眼差しを静かに受け止める。
「懐刀を用意してくださいまし」
一瞬、琴の顔が強張った。
「……雪音様?」
「……お願いです、琴」
雪音の声音は穏やかでありながら
決して揺らがなかった。
「お兄様のために……」
琴の瞳が揺れる。
その手が、震えながらも懐へ伸びる。
やがて取り出された懐刀の冷たい輝きが
蝋燭の炎を映した。
その瞬間──広間の空気が重く沈む。
運命の歯車が、確かに動き出したのだ。
この先に待つ未来がどのようなものか。
それを知るのは──
未来を視る巫女、櫻塚雪音ただ一人。
そして
この夜が双子の運命を大きく変えていく。
齢二十にして、時也と雪音は──
己が選んだ〝鎖〟と共に
抗えぬ宿命へと踏み込んでいったのである。




