第4話 狂気の目醒め
レイチェルは
男の子が硝子張りの席に戻る姿を見届けながら
自然とその隣に座る女性へと視線を移した。
その瞬間。
ふ、と──
深紅の瞳が、真っ直ぐにレイチェルを捉えた。
その目には、怒りも喜びも浮かんでいなかった。
ただ静かに
まるで深海の底から見上げてくるような
静謐さを湛えて──レイチェルを見つめていた。
(……無表情で、ちょっと怖いけど──
やっぱり……綺麗な人だなぁ)
それは、素直な感想だった。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く
それでいて芯の強さを感じさせる横顔。
光を受けて、ゆらめく金の髪。
まるでこの世の者ではないような──
神秘と、哀しみに似た荘厳さを帯びた容姿。
だが──
その思いに続くように、レイチェルの頭の中に
黒い染みのような感情が広がり始めた。
──あの美しい双眸を、抉り抜いてやりたい。
──その白い肌に刃を突き立て
滴る血がどんな絵になるか見てやりたい。
──その完璧な顔を、悲痛に歪めたい。
「……っ!」
レイチェルは衝動的に首を振った。
(何……何で、私……こんなこと──っ)
思ってもいないはずのことが
次々に頭の中に浮かび上がる。
その思考のひとつひとつが
理性を裂き、心を削ってゆく。
(違う、違う……っ
こんなこと、私は思ってなんかない……!)
まるで他人の思考が
頭の中に流れ込んでくるような感覚に
肩が細かく震える。
吐き気がこみ上げ
思わず両腕で自分の身体を抱きしめた。
深く、深く、呼吸を繰り返す。
けれど──視界が、揺れ始めた。
店内の灯りがぼんやりと滲み、ピアノの旋律が
まるで水の底から聞こえてくるように
遠ざかっていく。
耳鳴りがして、手足の力が抜ける。
(……ねむ……い……?)
抗えない眠気が、意識を包み込む。
まるで優しい腕で抱きすくめられたような
心地良さと危うさを孕んだ温もりの中で──
レイチェルの意識は、深く、沈んでいった。
⸻
──どれほど、時が経ったのか。
「……ん……ぅ……」
微かな唸り声とともに
レイチェルの瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
目に映ったのは、ぼんやりとした灯り。
カウンターの上に灯る柔らかな光が
仄暗い店内を静かに照らしていた。
テーブルの上には、冷えきったコーヒーカップ。
(⋯⋯私……寝ちゃってた……?)
まだ眠気の残る頭で、ゆっくりと身体を起こす。
椅子の背が、わずかに軋んだ。
店内を見渡す。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
──誰も、いない。
客の姿も、カウンターの奥の店主の姿も
あの無愛想なウェイターの影すらも──
「……違う」
直感だった。
店内には、誰も『いない』わけじゃない。
──〝何か〟が、いる。
その確信に似た予感が
背筋を冷たく這い上がる。
恐る恐る、テーブルから顔を上げると──
目の前に、彼女がいた。
あの深紅の瞳の女性。
たしかに、先ほどまでは
硝子張りの席に座っていたはずの彼女が──
今、自分の正面に、静かに座っていた。
──いや。
(違う……私が……)
気づいてしまった。
ここが、あの硝子張りの席だ。
入店直後に見た
ショーウィンドウのような空間。
他とは明らかに異なるその場所に
レイチェルが──座らされている。
(……なぜ……)
思考が追いつかない。
胸が冷たくなり、脈が異常な速さで跳ねた。
次の瞬間、何かが脳内で弾けたように
レイチェルの理性が──霧散する。
「う……あ、ぁあああああっ!!」
喉の奥から迸る叫び声。
その声と同時に、手が──勝手に動いた。
視界の隅に見えたテーブルセットのバスケット。
その中にあったナイフを
レイチェルは無意識に掴み取っていた。
(やめて……やめてっ!)
心は叫んでいる。
だが、手は止まらない。
「うわあああああああっ!!」
悲鳴と共に、ナイフが振り上げられる。
銀の刃が、女性の喉元へと一直線に走る──
──ザクッ。
肉が裂ける音。
柔らかな皮膚が引き裂かれ
そこから勢いよく──紅が、迸る。
噴き出した鮮血が、宙を描いた。
テーブルクロスに、壁に、光の届かぬ床に
紅が飛沫を上げる。
「何故ですっ……!何故……っ!」
レイチェルは叫ぶ。
「私達を……裏切ったのですかああっ!!」
──何故⋯⋯〝私達〟?
その疑問すら、頭の奥に押し込められた。
ナイフは止まらない。
振り上げ、振り下ろし
血の色が弾けるたび、理性が削られていく。
(やめて……!やめてってばぁああっっ!!)
自らの手を止めようと
もう片方の手で手首を掴む。
それでも、止まらない。
まるで自分の身体が
自分のものではないように。
彼女は、何一つ抵抗しなかった。
胸元を、腹を、肩を、頬を。
幾度となくナイフが突き刺さっても──
ただ、静かにレイチェルを見つめていた。
血に濡れた唇が、微かに動く。
「……すまない」
──その言葉が、脳内に響いた瞬間。
レイチェルの中の何かが、砕けた。
(やめてぇ……お願いだから……
もうやめてえええっ!)
涙が、視界を濁らせる。
濃紅の血と、滲む涙。
嗚咽が喉から漏れ、体の震えが止まらない。
それでも、手は止まらず。
ナイフは、なおも、刺さる。
痛みは自分の方にすら伝わってくる気がした。
胃が強く痙攣し、喉が詰まる。
(こんなの……こんなの嫌だ……!)
もはや目の前は、真っ赤に染まっていた。
世界が血に染まり、音が遠のき、意識が再び──
沈んでいく。
ぐらり、と視界が傾く──そして、力が抜けた。
ナイフを握ったままの手がだらりと落ち
血に濡れた身体の上へ
レイチェルの身体が崩れ落ちる。
最期に見えたのは──
深紅の瞳。
その美しき瞳が、静かに、静かに──
閉じられていくのだった。
紅蓮の嚮後〜桜の鎮魂歌〜
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