第38話 微笑みの仮面
──齢七つ。
櫻塚時也は、すでに幼子らしさを失っていた。
無垢な表情は影を潜め
柔らかな頬には冷えた静謐が宿る。
笑みも涙も
声に出して喜ぶことも泣くことも──
すべては封じられていた。
そこに在るのは〝顔〟であって
〝心〟ではない。
あまりにも無機質で、虚ろで
それでも美しい仮面のような顔。
いや──仮面ですらなかった。
それは、生き残るために彼が選び取った〝無〟
感情を捨て去ることでしか
己と雪音の命を守れないと悟った
七歳の少年の顔だった。
⸻
「……よくできた器よな」
父の言葉は称賛ではない。
侮蔑と憎悪を含んだ、歪んだ響きであった。
彼は、嫉妬していた。
──陰陽師として、育て上げたのは自分だ。
そのはずが
時也は教えられた以上のものを示していた。
五行思想の理を理解し
星を読み
龍脈を察知する。
本来ならば長い年月を費やして
ようやく身につくべき知識と勘を
時也は既に己のものとしていた。
父の目には
それが〝生まれながらの才覚〟に映った。
言うなれば──〝天稟〟の才。
それが許せなかった。
まるで
最初から持ち得ていたかのように。
まるで
自らの教えなど不要であったかのように。
だから、父はさらに圧し掛ける。
「貴様ごときが、陰陽を知った気になるな」
「我らが代々受け継いできた知を
そう簡単に理解できるはずがない」
「器が良くとも、中身が伴わねば意味はない」
言葉は常に蔑みを帯びていた。
「はい。当主様の仰る通りにございます」
しかし、時也は反抗を見せなかった。
冷ややかで空虚な瞳の奥に
反発も怒りも宿らない。
ただ、敬意を装い続ける。
⸻
ある日のことだった。
父と対峙した時也は、ふいに口を開いた。
「父様……恐れながら、申し上げます」
穏やかで、落ち着いた声音。
七歳の幼子のものとは思えぬ
静けさがそこにあった。
父が目を細める。
「……申してみよ」
時也は息を整え、淡々と続けた。
「先の話は……受けてはなりませぬ」
父の眉が僅かに動く。
「ほう……何故だ?」
時也は父を見据え、僅かに言葉に間を置いた。
そして静かに告げる。
「それは──櫻塚家を乗っ取る策にございます」
沈黙が落ちた。
背後で控えていた青龍の背筋に
ぞわりと冷気が走った。
思わず立ち上がりそうになる。
(──時也様!なぜ……!)
そんなことを口にすれば──
読心術の存在を露わにすれば──
父の怒りを買うだけだ。
だが、時也は続けた。
「……あの者は、北山の祠の修復を名目に
我が家の符を──
櫻塚の術式を欲しているのです。
龍脈を抑えねばならぬと
殊更に声を荒げておりましたが……
その心の奥には──
『符を手に入れ、櫻塚を弱らせる』と……
そうございます」
父の目が鋭く光る。
「……何故、貴様にそのようなことが分かる」
時也は一切動じない。
「声にせずとも
人は己の胸中を隠しきれぬもの。
言葉より深き処で……響きが聞こえます」
「響き……だと?」
父の声が低くなる。
信じ難い──
しかし、完全には否定しきれない響きだった。
青龍は胸を抉られる思いで見守っていた。
(時也様……何故でございます……!)
そう、時也は──意図的に告げたのだ。
読心術の存在を仄めかし
己を〝利用すべき器〟と思わせるために。
なぜなら──彼は知っていた。
──十歳を迎えたら
双子は〝事故〟と見せかけて殺す。
それが、母の思惑であることを。
ならば、生き延びるためには。
妹を守るためには──
父に〝生かすべき存在〟と
〝殺すには惜しい〟と、思わせるしかなかった。
「──父様」
時也はさらに踏み込む。
「疑念があるのならば──
今宵、南の廊を巡られませ。
そこにいる者は、必ずや
〝裏切りの兆し〟を見せるでしょう」
「……はっきり、言い切るか」
「はい。
私はそれを……しかと感じておりますゆえ」
父の眼差しが鋭くなる。
しかしその奥には
一抹の興味と警戒が混じっていた。
「……なるほど。
貴様……人の心を覗ける、というのか」
時也は淡々と頷く。
「覗くのではなく、聞こえるのです。
言葉にせずとも、胸奥に在る声が──」
父の沈黙は長かった。
だが、その沈黙こそが答えであった。
父は考えている。
この子は〝使える〟かどうか。
櫻塚家を、さらに高みに押し上げるために。
青龍の胸は苦しみで裂かれるようだった。
(時也様……その幼き身で、ここまで……)
雪音を守るために。
妹を生かすために。
彼は自らを〝器〟として差し出した。
感情を捨て、父の道具となることを選んだ。
⸻
その頃──
地下の座敷牢では、雪音が泣き崩れていた。
「あに様……」
幼い声で、兄の名を何度も呼ぶ。
胸を締めつける痛みに耐えられず
大粒の涙が頬を伝う。
彼女には分かっていた。
──兄が、自分のために何をしたのか。
──何を犠牲にしたのか。
──何を捨て去ったのか。
その、すべてを。
だからこそ、涙が止まらなかった。
「あに様……あに様ぁ……!」
何度呼んでも、その声が届くことはない。
なぜなら、兄はもう──
あの頃の時也ではなかったから。
⸻
七歳にして、すでに感情を封じた少年。
すべてを妹と共に生きるために捧げた存在。
それが〝櫻塚時也〟だった。
その後。
時也は父に連れられ、多くの場に姿を現した。
陰謀渦巻く座敷で
宴の裏で
取引の場で──
「──その者は偽りを申してございます」
「この言葉の裏には、別の意図がございます」
彼は次々と真実を暴いた。
そのたびに驚きと恐怖が周囲を駆け巡り
櫻塚家の権威は揺るぎないものとなっていった。
暴いて。
暴いて。
暴いて。
──欺瞞を看破する少年。
やがてそう呼ばれるようになり
櫻塚家の名声はますます高まっていった。
父はそれを誇った。
自らが鍛え上げた〝器〟が
ついに家を繁栄へと導いたと。
しかし、その少年がすでに
〝心〟を捨てていたことを──
父は、決して知ることはなかった。
⸻
暫く時が経ち──
その日、屋敷はひどく静かだった。
外の庭には夏の蝉の声が満ちていたが
櫻塚家の広間には張り詰めた沈黙が落ちていた。
襖を隔てた奥からは香の匂いが漂い
重々しい気配が辺りを覆っている。
その広間の中央に
齢七つの時也が正座していた。
真っ直ぐに父を見上げるその鳶色の瞳は
年齢に似つかわしくないほど深く静まり返り
微塵の怯えも浮かべない。
──感情を殺すことに、慣れすぎた瞳。
それを父は〝器の完成〟と称した。
だがこの日の時也は、ただの器ではなかった。
彼は、命を賭けて雪音を守るために
一つの決断を下していたのだ。
「父様……」
時也の声は、柔らかく
それでいて妙に澄んでいた。
言葉の端々に恐れも動揺もなく
ただ静謐さだけがあった。
「母様は……私と雪音を、殺すお心算です」
──刹那。
「──なにっ?」
父の目が大きく見開かれた。
青筋が額に浮かび
香り立つ畳を踏み鳴らして立ち上がる。
「許さんっ!!」
怒声が轟き、広間の空気が震えた。
その時、父の心の中には疑念はなかった。
〝疑うべきではない存在〟
──既に、それが父の認識だった。
時也の言葉は、すべて真実である。
そう、無条件に信じ込んでいたのだ。
そして、その信念は、躊躇いを消した。
父はすぐに刀を取り
母の居る座敷へと足を運んだ。
凄まじい剣幕に、使用人たちが慌てふためき
廊下をよろめき退いた。
「裏切りの女狐め!
我が子を害そうとしたな──ッ!」
叫びと共に襖が弾け飛び
閃光のように鋭い刃が走った。
悲鳴が落ちる間もなかった。
ただ、鈍い音と共に
母の身体が血の海へ崩れ落ちる。
白い衣を紅に染めながら
彼女は最後の力を振り絞って手を伸ばした。
その手は小刻みに震え
空を掴むように揺れたのち──
やがて少年の足首を掴んだ。
「……産まな、きゃ……良か……った……」
言葉は掠れ、吐血と共に零れた。
手は力なく落ち、ぱたりと血の水面に沈む。
時也は、ただ見つめていた。
それが初めて
母の手が自分に触れた瞬間だった。
抱きしめられたことは一度もない。
撫でられたことも
優しい声をかけられたこともない。
──それなのに。
最期に与えられたのは〝憎悪〟だった。
「お前など生まなければ良かった」という
母の心の底から零れ落ちた言葉。
それを受けてなお、時也は微笑んだ。
その表情には怒りも涙もなく
ただ無機質な美しさだけがあった。
人間らしさを剥ぎ取られた
まるで彫像のような微笑み。
「……初めて、私に触れましたね?」
穏やかに、柔らかく、語りかけるような声音。
「えぇ……
貴女から産まれたとは
私も思いたくはありません」
青龍が、その場で息を呑んだ。
彼だけが知っていた。
その微笑みが
どれほど痛みを伴っているのかを。
時也は母に愛を求めたことはなかった。
母に期待を抱いたこともなかった。
それでも──
最期に憎悪を母から突きつけられることが
どれほど幼き心に影を落とすか。
青龍は
胸の奥を爪で抉られるような苦痛を覚えながら
ただ見守るしかできなかった。
この場では──
式神である己には、何もできない。
抱き締めることも、慰めることも許されない。
母の死を見つめたまま
時也の微笑みは崩れなかった。
それはもはや〝表情〟ではなく
〝仮面〟だった。
皮肉なことに、この日。
──時也は〝人としての顔〟を捨て去った。
──そして〝微笑みという仮面〟を手に入れた。
それは以後、彼の一生を覆い隠す顔となる。
どれほど痛みに苛まれようと。
どれほど孤独に沈もうと。
彼の顔には
常に〝穏やかな微笑み〟が張り付いていた。
それが
櫻塚時也という少年の〝処世術〟だった。
広間には血の匂いが漂い
重苦しい沈黙が落ちた。
父は荒い呼吸を繰り返しながら刀を拭い
満足げに吐き捨てる。
「裏切り者は──討った」
その言葉を聞いても、時也は何も答えなかった。
ただ、仮面のような微笑を浮かべ続けていた。
その姿を
青龍だけが、苦痛を込めて見つめていた。
──この少年は
もはや人としての心を手放してしまった。
──妹を守るために
妹以外への愛を捨ててしまった。
それでも彼は、生き続ける。
たったひとつの──目的のために。
母の血の匂いに包まれながら
時也の微笑は静かに定着した。
それは〝微笑み〟という名の
決して剥がれぬ仮面であった。




