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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
桜の時

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第37話 生きる為の孤独

──陰陽師の名門・櫻塚家。


その名は、栄光と血とで彩られてきた。


表向きには尊き血脈

だがその実

代々にわたり子らを〝道具〟として鍛え

削り、屠ってきた家。


その家に生まれた嫡子──

櫻塚時也が、初めて陰陽師としての

修行を受け始めたのは齢わずか三つ。


常の子なら未だ乳臭さを残す幼児の身に

選択の余地など与えられぬ。


彼には、ただ家に従い

家に潰されるか

あるいは家に適う器となるかしか道はなかった。



その朝

櫻塚家の庭には薄靄(うすもや)が垂れ込めていた。


撒かれた白砂は夜露を含み

足裏を刺すような冷たさを放つ。


木々の枝先から滴る露が

ぽたり、ぽたりと落ちるたび

静けさは、よりいっそう研ぎ澄まされる。


庭の中央、修行場と呼ばれる一角。

そこにひとりの幼子が座らされていた。


──時也である。


小さな両膝に小さな掌を置き、背筋を伸ばす。


吐く息は白く凍り

唇は乾き、震えは止まらない。


だが「座せ」と命じられれば、従う他はない。


「目を閉じろ。心を鎮めよ」


背後から響く、櫻塚家現当主──父の声は

寒気を増す風のように冷たい。


その声音に憐れみも慈しみもなく

ただ修行という名の枷だけがある。


時也は幼いながら、真剣に瞑想を始めた。


小さな心臓は必死に脈打ち

幼き精神は

すでに限界を迎えそうになっていたが──


彼は瞼を閉じ、静けさに身を沈めようとした。


だが、その背後に立つ父は

息子をひとりの子として見ることはない。


彼の目に映るのは〝器〟であった。


未熟な器を鍛え、削り

徹底的に叩き上げねばならぬと信じる

その残酷な信念だけが支配していた。


父の手には白木の警策(きょうさく)があった。


その先端は研ぎ澄まされた刃のように冷たく

力を振るえば幼子の肉など容易く裂ける。


音も気配も殺し、振り下ろされた。


──だが。


「っ……!」


時也は僅かに身を傾け、それを避けた。


父の目が鋭く見開かれる。


幼子の身体は脆く、動きも鈍い。

到底避けられるものではないはずだった。


しかし彼は、まるで

〝振り下ろされる瞬間を知っていた〟かのように

身を捻った。


「貴様……!」


父の顔に、怒気が浮かぶ。


「何故、避けたっ!」


時也は震える唇を結び、答えない。

答えられない。


彼は自分が──〝何をしてしまったのか〟など

まだ理解していなかった。


陰陽師の修行において

師の消された気配を察知することは至難。


それを避けるなど──父を欺いたも同然。


「調子に乗るな!」


怒声が庭を震わせた。


次の瞬間、警策は無造作に、無慈悲に

時也の背を打ち据えた。


「っ──!」


小さな背に乾いた音が走る。


「どうした、なぜ先のように避けぬ!」


バシンッ!


「陰陽師として生きるならば

これしき、耐えてみせよ!」


バシンッ! バシンッ!


「貴様ごときが……この私を欺いたつもりか!」


バシンッ! バシンッ! バシンッ!


──何度も、何度も、何度も。


警策は無慈悲に振り下ろされ

幼子の背は赤く裂け、腫れあがり

皮膚が破れて血が滲む。


木と肉がぶつかる音が無情に繰り返され

その度に時也の小さな身体は

前に倒れ込みそうになりながらも──

必死に耐えた。


彼は泣かなかった。


──泣けば、さらに怒りを買うだけだ。

──耐えねば、生きられぬ。


その思いだけが、彼を支えていた。


(⋯⋯朝から、ほんに煩いこと⋯⋯)


ふいに襖の向こうから気配がし

時也が顔を上げる。


そこに母が立っていた。


「……かか、様……」


震える手が母へと伸びる。

赤く染まった掌は必死に助けを乞うた。


扇子を持つ母の手が、一瞬だけ止まった。

だが──それだけだった。


母は、ただ眉を寄せただけで何の言葉もなく

静かに背を向ける。


「……っ」


小さな手が力なく落ちる。


助けは来ない。

いや、最初から期待などしてはいなかった。


次の瞬間──警策よりも鋭い刃が降り落ちた。


(……母などではない。

お前達など、生まなければよかったのです)


母の心の奥に隠されていた浅い思考。

その言葉が──心に無慈悲に突き刺さる。


母の本心。

血を分けた子に向けられた、絶望の烙印。


「……っっ」


時也の小さな胸が、ひび割れるように痛んだ。


背中を打ち据える痛みすら

もはや感覚が麻痺し始めていた。


だが、心に刻まれた言葉の刃は

肉体よりも深く彼を抉った。


──自分は、いらない子なのだ。


胸がひりつき、視界が揺れる。

それでも彼は泣かない。


小さな身体はただ沈黙したまま

打ち据えられ続けた。


──ギリっ!


その様子を、青龍は部屋の隅で正座し

黙って見守るしかなかった。


膝の上で拳を強く握り締め、爪が皮膚を破る。


(……時也様……!)


叫びたい。止めたい。


だが、式神として仕える己には許されぬ。

ただ〝見守る〟ことだけが役目。


無力さに胸が軋む。


幼子の背に赤い痕が無数に刻まれていくたび

青龍の心臓も同じように裂かれるようだった。


「何を笑うか、貴様っ!」


突然、父の怒声が響いた。


見ると──

打たれ続けながらも

時也は微かに微笑んでいた。


その鳶色の瞳は、真っ直ぐ青龍を捉えている。


──お前だけは味方だと、分かっている。


そう告げるかのように。


「……!」


青龍の心臓が揺れる。

次の瞬間。


バシンッ!!


容赦なく振り下ろされた警策が

時也の脇腹を打つ。


「──っ!」


声すら出ない。

痛みはすでに限界を超え、身体は麻痺していた。


荒い息を吐く父は、最後の一撃を振り下ろし

倒れ伏した小さな身体に警策ごと投げつけた。


「覚えておけ。貴様は櫻塚の嫡子。

式神に余計な情など持つな!」


それだけを告げ、冷ややかに去っていった。



静寂が訪れる。


倒れ伏した時也の背には

赤黒い痕が無数に刻まれていた。


息は細く、身体はぐったりとしている。


その瞬間

青龍は弾かれるように駆け寄った。


「時也様──!」


抱き上げると、あまりに軽い。

その儚さに、胸が締め付けられる。


──このままでは、壊れてしまう。


青龍は時也を抱え

すぐさま地下の座敷牢へと向かった。



格子の向こう、小さな手が待ち構えていた。


「──っ、あに様!」


雪音だった。

必死に格子に掴まり、兄を待ち続けていた。


その顔には

幼子には似合わぬ焦燥が浮かんでいる。


「雪音様が、水を持てと仰って──これは!」


後ろから琴が駆け寄り

手に小さな鉢を抱えていた。


それは、雪音が用意させたもの。

青龍は確信する。


(……やはり雪音様には

すべて視えているのか)


兄がどうなっているか。

兄が何をされたのか。


牢に閉じ込められながら──

彼女は理解していたのだ。


「琴、時也様の治療を!」


青龍の命に、琴は即座に応じる。


横たえられた時也の身体を布で拭い

傷口を水で冷やす。


肌は赤く腫れ上がり、所々から血が滲む。

その傍らで、雪音は兄にしがみついた。


「てて様も、かか様も……きらい!」


小さな声で叫びながら

時也の血で染った衣を握りしめる。


「……あに様……あに様ぁ!」


涙が頬を伝い、兄の頬に落ちた。


雪音は、ただ必死に

唯一の拠り所を求めて泣き続ける。


それは幼き少女の──魂の叫びだった。


青龍は黙ってその光景を見守る。

己の無力を噛み締めながら。


──式神として、ただ仕えるしかできぬ。


だが心は確かに

この小さな双子を憂えていた。


幼き命が互いに寄り添い合い

支え合うことでしか生きられぬ。


それを守ることすら叶わぬ己に

悔恨と苦しみが押し寄せる。


それでも、ただ祈るしかなかった。


どうか、この幼い背に──

これ以上、無用の苦痛が刻まれぬように。


そして、この兄妹が寄り添える時間が

一刻でも長く続くように。


その願いは、胸を裂かれるほどに切実だった。

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