第35話 櫻塚
かつて──
陰陽師の名門として代々栄えてきた櫻塚家に
ひと組の双子が産声を上げた。
時は、未だ理と掟が
人々の営みに深く根付いていた時代。
この世において、双子は災いの前触れとされ
忌むべきものと恐れられていた。
ましてや──その双子は〝一卵性の男女〟
天地の理を踏み外したかのような稀有にして
異端の存在だった。
古より櫻塚家に伝わる掟のひとつ──
「双子は禍事──
いずれかを屠らねば、家に災いが訪れる」
産声をあげたその刹那
広間は張りつめた沈黙に包まれた。
乳児らしい泣き声が長く続くことはなく
二人は互いに寄り添うと、ぴたりと泣き止んだ。
驚愕したのは母だった。
まだ視力を得ているはずもない幼子の瞳が
確かに──
自らを〝見つめている〟ことに気付いたからだ。
二対の鳶色の瞳は瞬くこともせず
母の面影を射抜くように真っ直ぐで
そして察するように静かだった。
ありえぬほどの静謐。
新生児とは到底思えぬその様に
母の背筋を冷たいものが這い上がる。
胸中を満たしたのは
我が子を殺めねばならぬ悲しみではない。
もっと別の
深い底から突き上げてくる本能的な恐れだった。
母の手には
掟を果たすために用意された刃が握られていた。
だが震える腕は振り下ろせず
指先は力なく刃を震わせるのみ。
その傍らで、双子の父が低く呟いた。
その声音には、情も迷いも含まれていなかった。
「……殺しても、不殺とも……
あの眼は、災いを孕むと告げているようだな」
冷えた吐息とともに放たれた言葉は
我が子を前にした父のものとは思えぬ。
そこにあったのは
ただ厄介な異物を抱えてしまったという
諦念と嫌悪だけ。
かくして、双子は名を授けられた。
男児は〝時也〟──櫻塚家嫡子として迎えられ
女児は〝雪音〟──表向きは「死産」とされ
世にその存在は隠された。
雪音は座敷牢に幽閉され
ひそやかに育てられることとなる。
母は、その日を境に双子を抱くことを拒んだ。
自らの胎内から産まれし存在そのものが
この世の理を外れたものだと
認めてしまうことを恐れたのだ。
「……青龍」
父の低く冷ややかな声が、広間に響く。
次の瞬間
空気が水面のように揺らぎ、渦を巻いた。
長身に、背には銀白の長髪をたなびかせ
琥珀の長き角を戴いた青年がそこに姿を現す。
山吹色の瞳を伏せ
膝を折るその姿は荘厳で
長年、櫻塚家に仕える式神にして守護者──
青龍であった。
「……御呼びでございますか」
青年の声は低く
凪いだ水面のように揺らぎひとつない。
「〝あれ〟の世話は、お前に命ずる」
父の言葉は無情に響く。
それは血を分けた子への指示ではなく
ただの厄介事の処理を命じるもの。
〝我が子〟ではなく
〝あれ〟と呼ばれる存在へと成り下がった。
青龍の表情は動かない。
この家に仕える者として
数多の非情を見てきたがゆえに。
ただ深く頭を垂れ、短く応じる。
「……御意」
⸻
その腕に抱かれたのは、時也と雪音。
互いの小さな体を重ね合い
温もりを分け合うように寄り添う二人。
座敷牢へと向かう長い廊下を歩みながら
青龍は目を伏せる。
式神としての務めに従うだけのはずが
ふと、胸奥に小さな声が生まれた。
「……其処であれば、二人共に在れる。
せめて、この腕の中にいる間だけは──」
幼子たちが知る温もりは
互いの体温と、この一時の抱擁のみ。
青龍はそれを知りながらも
何も変えることはできぬ。
ただ、せめてもの願いを
己の心の奥底に沈めるしかなかった。
こうして
櫻塚家の双子の運命は幕を開けた。
この世の理から外れた彼らの宿命は
まだ始まったばかりにすぎなかった──⋯
⸻
夜の帳が
櫻塚家の広大な屋敷を包み込んでいた。
漆黒の闇が障子の隙間を滲むように流れ込み
灯された行燈の明かりすら
深き陰影の中に掻き消される。
その静寂を破ることなく
一人の影が廊下を進んでいく。
銀白の長髪を背に流し
山吹色の瞳を伏せた青年──青龍である。
その腕には
まだ齢二つなったばかりの幼子にすぎぬ
櫻塚時也の小さな身体が抱かれていた。
重く閉ざされた扉を開き
地下へと続く階段を降りる。
踏みしめる度に、古き木板が低く軋み
湿り気を含んだ冷気が漂い出す。
冷たき空気は
まるで地の底から吹き上がる怨嗟の吐息のよう。
その先こそが、櫻塚家の秘された場所──
〝座敷牢〟であった。
灯明の僅かな光に照らされた牢内には
一人の女が佇んでいた。
乳母──琴。
櫻塚家の者ではない唯一の証人にして
この双子の存在を知る数少き者である。
その腕に抱かれて眠るのは
座敷牢に幽閉された女児──雪音。
琴は青龍の姿を認めると
僅かに頭を垂れ、温もりを含んだ瞳を落とした。
「……琴、ご苦労であった」
青龍の声は深く、牢の石壁に静かに響いた。
「今、寝付いたばかりにございます」
琴は雪音を抱きかかえたまま
そっとその顔を覗き込む。
細い睫毛が影を作り
小さな指は力なく握られている。
幼き命は、外の光も母の腕も知らぬまま
この狭き牢の中で眠りについていた。
青龍は静かに膝を折り
慎重に腕に抱いた時也を畳に寝かせる。
その瞬間、小さな奇跡が起きた。
時也の細き指が
眠る雪音へとそっと伸ばされる。
触れるか触れぬかの刹那の距離で止まり
そのまま安堵したように瞼を閉じた。
琴は胸奥から込み上げるものを堪えきれず
囁きに似た声で言葉を零す。
「……まるで、魂の半身を
漸く見つけたようなお顔でございますね」
その言葉に、青龍は応えなかった。
ただ、その山吹色の瞳で双子の寝顔を映し
静かに見守り続ける。
──二人は泣かぬ。
それは
幼子の常に反する不可思議な在り方であった。
「聡い子にございます……。
泣けば、存在が知れてしまうと
まるで解っておられるかのように……
雪音様は、泣きませぬ」
琴の声は痛みを孕んでいた。
幼子でありながら、泣くことすら許されぬ運命。
青龍はその言葉を静かに受け、低く呟いた。
「……そうか。
時也様もまた然り。
御母堂様方が近付かれる折
スッと声を潜められる……
まるで、御心内を〝読んで〟いるかのごとく」
まだ齢二つの幼子たち。
しかし、彼らは既に悟っているのかもしれない。
己が両親に愛されぬ定めを。
存在そのものが忌まれ
この暗き牢の中でしか生きられぬことを。
それでも──
時也と雪音は互いに寄り添い
温もりを確かめ合う。
両親の腕に抱かれぬ代わりに
互いの体温を分け合うことでしか
生を繋げぬ幼子たち。
琴も青龍も、ただ黙してその光景を見守った。
言葉など──要らぬ。
魂の半身の存在こそが
既に言葉を超えた真実を物語っていた。
両親から愛を注がれたことのない二人に
せめて刹那の温もりがあらんことを──
そう願わずにはいられなかった。




