第34話 擬態の代償
空が淡く群青に染まり始め
喫茶 桜の裏庭には
何処か冷えた空気が満ち始めていた。
舞い散る桜の花弁は
夕闇の中でぼんやりと浮かび
濃淡のある紅が土に溶け込んでいる。
時也は静かに袖を翻し
指先に挟んだ数枚の護符を
軽やかに宙へと放った。
護符はふわりと風に舞い上がり
淡く紫がかった光を帯びながら
空中で桜の花弁へと変わる。
花弁は静かに舞い踊りながら
ソーレンの身体を絡め取る枝へと降り注いだ。
しゅるり──。
花びらが触れた瞬間、桜の枝は音もなく裂け
まるで溶けるように千切れていく。
絡みついていた蔓がするすると解け
最後には全てが静かに土へと還った。
ソーレンは解放されると
地面に軽く着地し無造作に首を鳴らす。
「はぁ⋯⋯」
その小さな吐息を漏らしたのは
レイチェルだった。
藍色の着物の裾に手を添え
ふらりと身を揺らすと
その身体はゆっくりと変化し始める。
黒褐色の髪は次第に黒髪へと戻り
凛々しかった面立ちは
柔らかく幼さの残る顔立ちへと変わっていく。
藍色の着物は、いつもの喫茶 桜の制服に戻り
エメラルドグリーンの瞳が
何処かほっとしたように細められた。
「⋯⋯戻れた⋯⋯」
か細く呟いた声は
自分が〝自分〟である事を確かめるようだった。
擬態の解除は
まるで溺れかけた後に
漸く水面に顔を出したような感覚に陥る。
「全く⋯⋯外が騒がしいと思って来てみれば。
お二人とも、怪我が無くて良かったです」
時也は穏やかに笑い、僅かに肩を竦める。
けれどその声音には、軽く咎めるような
響きが混じっていた。
「ふん。怪我なんてするかよ」
ソーレンは鼻を鳴らし、背中を乱暴に払う。
埃を散らしながら、彼は片手に斧を担ぎ上げ
レイチェルを見やった。
「レイチェルの擬態でコピーされた異能は──
半分程度の出力って、とこだったからな」
「⋯⋯半分、ですか」
時也が目を細め、思案するように呟く。
その声は柔らかだったが
僅かに冷えた響きが混じっていた。
「ですが、貴方を倒すくらいは──
半分程度でも〝余裕〟でしょうね」
「⋯⋯は?」
ソーレンの眉が、僅かに顰められる。
時也の口元には優しげな笑みが浮かんでいた。
けれど、その言葉の裏にある鋭い皮肉は
鋭い棘となってソーレンの耳に突き刺さる。
「僕に擬態するのは、まだ正解でしたね。
ソーレンさんが二人だったら
今頃お店はどうなっていた事か⋯⋯」
「はっ⋯⋯言ってくれるじゃねぇか」
ソーレンの口元が歪み
わざとらしく咥えた煙草を
火のついていないままに咥え直した。
「事実を言ったまでですよ」
時也は相変わらず、穏やかな笑みを崩さない。
その笑顔のまま、静かに着物の袖を整え
視線をレイチェルへと向ける。
レイチェルは震えていた。
冷たい夜気が肌を刺している訳ではない。
けれど、先程の自分が〝時也〟となった記憶が
今でも鮮やかに脳裏に焼き付いていた。
「⋯⋯夜になり始めましたね」
時也がふっと夜空を見上げ、静かに微笑む。
「中に入りましょうか」
その声は
今までの静かな威圧感とはまるで違った。
優しく、どこまでも温かく。
夜風が吹き
紅く染まった桜の花弁が、ふわりと舞い上がる。
その花弁が
次第に夜の闇へと溶けて消えていくのを
レイチェルは、ぼんやりと見つめていた。
⸻
「今日は⋯⋯お先に失礼しますね」
リビングに戻ると直ぐに
レイチェルの声は掠れ震えていた。
彼女の顔は青ざめ、唇の色まで薄くなっている。
「おい、大丈夫か?」
ソーレンが声をかけるよりも早く
レイチェルはふらつくように足を運び
居住スペースのリビングを出て
階段へと向かった。
彼女の後ろ姿はどこか頼りなく
消え入るようだった。
「⋯⋯なんだ、アイツ?
真っ青だったが──能力の影響か?」
ソーレンは片手で頭を掻きながら
時也の方を見た。
「彼女は、僕に擬態して
⋯⋯僕の〝記憶〟を見てしまったようですね」
時也の声は淡々としていたが
その声音の奥には、僅かに苦みが滲んでいた。
「お前の記憶、か⋯⋯」
ソーレンは眉を寄せ
面倒事だと言わんばかりに
大きな溜め息を吐いた。
「なら、あーなっちまうのも⋯⋯頷けるな」
時也は静かに目を伏せ
ソーレンと共に階段の方へ視線を向けた。
階段の上、レイチェルが消えた扉は閉じられ
静寂が戻っていた。
カチ⋯⋯
アリアのカップが、静かにテーブルに置かれた。
彼女はこれまで閉じていた深紅の瞳を開き
無言のまま階段の先を見つめる。
その視線は、何も語らぬはずの彼女の表情に
僅かに憂いの色を浮かべていた。
⸻
レイチェルは部屋に駆け込むと
崩れ落ちるようにベッドに倒れ込んだ。
震える手でシーツを引き寄せ
そのまま包まるように身を丸める。
「⋯⋯時也さん⋯⋯っ」
その声はしゃくり上げるように掠れ
次の瞬間──
瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
視界が滲み、呼吸がうまく整わない。
擬態の最中
時也の思考と記憶が入り込んできた。
「⋯⋯時也さん──っ、なんで⋯⋯っ!」
レイチェルはシーツを握り締め
喉の奥から漏れ出る嗚咽を堪えようとした。
けれど、胸を締め付ける苦しさは消えず
ただ涙だけが止めどなく溢れていく──⋯




