第32話 特別ゲストの正体
冷たく澄み渡った空気が
裏庭の空を静かに覆っていた。
沈黙は凍てついた膜のように張り詰め
風さえも息を潜めている。
伐り倒された桜の木は、地に横たわり
裂かれた幹からは
赤黒く濁った樹液が滲み出していた。
その匂いはどこか鉄を思わせ、微かに鼻を刺す。
春の残香に混じるその異臭が
この庭に訪れた不可逆の終焉を物語っていた。
「では、ソーレンさん。
残りの伐採も、よろしくお願いいたしますね。
僕は、残りの仕事を終わらせてきます」
柔らかく告げるその声に、温もりはなかった。
時也は薄く微笑み、振り返らずに歩み去る。
真っ直ぐに伸びた背筋、凛とした足取り。
その姿には、何ひとつの迷いも映らない。
残響のように煙草の匂いが漂い
レイチェルの胸の奥に、微かな痛みを残した。
「……綺麗な桜なのに。勿体ないね」
彼女は伐り倒された幹にそっと視線を落とし
自分に言い聞かせるように呟いた。
その声には、名もなき哀惜が滲んでいた。
だが、次の瞬間。
「……あ?
こんな〝奴ら〟は薪になるのが丁度いいんだよ」
荒々しい声が空気を裂いた。
振り向けば
ソーレンが斧を肩に担いで立っていた。
その眼差しは鋭く、まるで敵を睨むようだった。
「こんな……〝奴ら〟?」
レイチェルの胸に、冷たいざらつきが広がる。
彼の言葉が、木に対してではなく
何か〝別の存在〟に向けられているように
感じられたからだ。
「さっき言ったろ?
別の意味での──〝特別ゲスト〟だってよ」
ソーレンは低く笑みを漏らし
斧を持ち直して根元に突き立てた。
ガキン──と鈍く響く音。
幹が震え、さらに赤黒い液体が滲み出す。
粘りつくそれは、もはや樹液ではなく
まるで血のように濃く、生々しい。
「……別の意味での特別ゲストって……
いったい、何なの?」
レイチェルの声は震えていた。
胸の奥が冷たくざわめき
背筋を不快な悪寒が走る。
彼女は答えを聞くことを恐れながらも
それを確かめずにはいられなかった。
ソーレンは短く息を吐き
斧を地面に投げ捨てるように突き立てた。
ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
炎が一瞬だけその顔を照らし、影が頬を滑った。
「──狩人さ」
煙の合間から放たれたその言葉が
この場所の静寂を決定的に壊した。
「アリアの不老不死の血と
奇跡を呼ぶ涙の宝石を狙った連中だ」
低く吐き捨てるように言う声には
感情の欠片すらない。
それは、怒りでも憎しみでもなく
ただ〝処分〟という行為を
淡々と告げる音に近かった。
「……ハンター……」
レイチェルはその言葉を繰り返した。
喉の奥がひどく乾き、唇が震える。
彼ら──人であった者たちは
アリアの永遠を貪ろうとした者たち。
その愚かさの果てが
いま土の上に横たわっている。
「そ。だから、アイツが始末したんだ。
アリアの敵は……俺たちの敵だからな」
ソーレンの言葉は
まるで真実を告げる刃のようだった。
燻る煙が彼の顔を曇らせ
視線の奥には冷たい光が沈んでいた。
レイチェルは俯いたまま、地面を見つめる。
桜の切り株からは、なおも赤黒い樹液が滲み
土に溶けながらゆっくりと染み広がっていく。
その色は、血と見紛うほど鮮烈だった。
──穢らわしい。
ふいに、時也の声が脳裏に蘇る。
あの優しく微笑む顔の裏に潜んでいた
氷のように冷たい音色。
穏やかな声が吐き出した──残酷な真実。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
風が吹き、花弁がひらりと舞い上がる。
紅く染まったそれは、まるで命の残滓のように
レイチェルの足元へと落ちた。
鈍い音が響いた。
再び斧が幹を裂き、湿った木肌が悲鳴を上げる。
樹液が溢れ、足元に滴り落ちては土を染める。
それはもう、ただの液体ではなかった。
罪の血であり、祈りの屍であり
この庭に宿らされた者たちの
〝終焉そのもの〟だった。
レイチェルは息を止めたまま、動けずにいた。
燃えるような夕陽の残光が
血と花弁を同じ紅に染め上げていく。
──その光景は、美しく、そして恐ろしかった。
「──この店には
二種類の特別ゲストがやって来る」
咥えた煙草を、唇の端でゆるく揺らしながら
ソーレンが低く呟いた。
その声音は
夕闇を踏みしめるような重さを帯びていた。
立ちのぼる煙が
伐採された桜の間を静かに漂い
赤黒く濁った樹液の匂いと混じり合う。
薄明の中で、その光景は
まるで墓標の列のようだった。
「一つは、俺らみてぇな〝転生者〟だ。
不死鳥を倒すために保護し、集める。
……けどな、〝ハンター〟は別だ。
何があっても──始末しろ」
その声は、低く、しかし絶対的だった。
言葉の末尾にかすかに残る息が
命の線を断ち切るように鋭い。
ソーレンは斧を振り上げた。
空気が裂け、重たい刃が幹を抉る。
打撃音が庭に響き、桜の木がわずかに傾いた。
その瞬間、花弁がふわりと宙を舞い
レイチェルの足元にひとひら、静かに落ちた。
「──っ、始末って……まさか……」
掠れた声が風に消える。
彼女の心は、すでに答えを知っていた。
だが
それを言葉にすることが、ひどく恐ろしかった。
「鏖──だよ」
ソーレンは煙を吐き出しながら
あまりにも自然に言った。
それは感情ではなく
ただの〝手順〟として吐き出された言葉だった。
彼の腕は止まらず、再び斧が振り下ろされる。
幹が呻き、鈍い音とともに樹液が滲む。
その匂いは、生と死の境を曖昧にするような
鉄の香りを孕んでいた。
「じゃねぇと、情報を持って帰られて──
此処にアリアがいることを広められちまう。
……困るだろ?」
彼は静かに言い、煙草の灰を落とした。
赤く光る火が、闇の底で瞬いては消える。
レイチェルの背が震えた。
胸の奥が重く沈み
呼吸のひとつひとつが痛みに変わる。
この裏庭に漂う赤い匂いが
いまや〝血〟の匂いにしか思えなかった。
「まぁ……
お前にまでやれとは、時也は言わねぇさ」
ソーレンは淡々と告げた。
その声には
慰めの温度も、脅しの冷たさもない。
ただ事実として、淡く響く。
「血腥いことは俺たちに任せとけ。
ただ──」
「……ただ?」
「お前がハンターに遭ったり
身に危険を感じたら──
迷わず、俺か時也に擬態しろ」
その声音だけが、ほんの一瞬、鋭さを失った。
ソーレンはレイチェルの顔を真っ直ぐに見た。
普段の皮肉や軽口をすべて削ぎ落とした
純粋な保護者のような目をしていた。
「時也から、お前の能力は聞いてる。
三十分、おまは他人になりきれる。
思考も、性格も、全部なんだろ?
俺も時也も、格闘は得意だ──
つまりは、生き残る確率が上がる」
「……わかったわ」
レイチェルは小さく頷いた。
唇を噛み締め、震える声で応じた。
その瞳の奥には、確かな不安が滲んでいた。
ソーレンはそれを見て、ふっと笑う。
その笑みは、わずかに優しさを帯びていた。
だが次の瞬間。
最後に残った桜の幹が、軋みながら崩れた。
斧の刃が深々と食い込み
木が呻き声のような音を立てて倒れる。
地面が揺れ、紅の花弁が一斉に舞い上がった。
夕光に照らされ、それは血飛沫のように散った。
ソーレンは斧を土に突き立て、煙草を咥え直す。
風が吹き、花弁の一枚が彼の肩に落ちた。
彼はそれを払うこともせず
ただそのまま、空を仰いだ。
「……なぁ?」
「……え?」
レイチェルが顔を上げる。
「その擬態能力ってさ
俺の重力操作も──コピーすんのか?」
唐突な問いだった。
だがその声に、妙な真剣さが混じっている。
「え……?
私、自分以外の転生者に
今まで会ったことなかったから……
ごめん、分からないわ」
「ふーん。なら──試してみようぜ?」
煙草を地に吐き捨て、ソーレンは火を踏み消す。
立ち上がった彼の影が
斜陽の中で大きく伸びた。
琥珀の瞳が鋭く光を帯び
その背には、戦いに臨む者の緊張が宿る。
「……え、えぇっ?」
レイチェルが慌てて後ずさる。
だがソーレンの唇に浮かんだ笑みは
もう穏やかなものではなかった。
それは、戦いに飢えた獣の笑み。
斧よりも重く、血よりも熱い──
闘志の笑みだった。
夕風が吹き抜け
二人の間を、紅の花弁が静かに舞い落ちた。
その瞬間
喫茶桜の裏庭は、再び沈黙に包まれた。
まるで──倒れた桜たちが
次の血を待っているかのように。




