表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
特別なおもてなし

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/40

第31話 裏庭の桜の木

桜の花弁は、風に乗って宙を舞いながら

春の残り香を揺らして漂っていた。


だが、その柔らかな光景は

一瞬で凶器へと変わる。


次の瞬間

花弁の群れが弾けた。


鋭い刃となった無数の花弁が空を裂き

散弾のごとく飛び交う。


それは、春の残滓を纏った──〝死の雨〟


薄紅の閃光が空間を走り

花弁は男たちの腕を裂き、胸を穿ち

握っていた銃を容易く弾き飛ばした。


鮮やかな紅が宙に弧を描き

光を受けて一瞬だけ花のように咲く。


花弁が静まり

空気がわずかに震えた。


次の瞬間、桜の木が唸った。


枝がわずかに震え

幹の奥から蔓が無数に溢れ出す。


それは蛇のようにしなやかで

しかし生き物よりも冷たく

地を這いながら一斉に男たちへと襲いかかった。


蔓は男たちの脚を絡め取り

膝を、腰を、胸を──縛り上げていく。


その動きは容赦なく、抵抗する間も与えぬまま

男たちを直立させる形で縫いとめた。


「──!?な、なんだっ……!」


叫びは途中で、掻き消えた。


幾筋もの蔓が、音もなく男の喉元へと走り

鎖のように巻き付き

ただ冷ややかに命を締め上げる。


「う、ぁ……っ、ぐぅ……!」


呻く声は途中で途切れ

喉が軋む音が代わりに響いた。


しなやかで、容赦のない力。


息を求めて口を開けば

そこへ新たな蔓が滑り込んだ。


尖った先端が舌を塞ぎ、喉奥を蹂躙して

奥へ奥へと潜り込む。


痙攣するように藻掻く身体に

枝と蔓はさらに深く絡みついた。


花弁が刻んだ傷口からも、蔓が入り込む。

皮膚の下を這い、筋を伝って内へ潜る。


人間の形を保つことを拒むように

枝と蔓は肉を抉るように増殖し

根を広げ、張っていく。


やがて、肉と骨のあわいから

桜の若枝が生えるように

皮膚から突き破ってきた。


痛みの声さえ奪いながら

男たちの身体の中で──春が芽吹いていく。


叫びも、息も、もう音にはならなかった。

代わりに、男の身体の中で音がしていた。


枝が突き破り、蔓が絡みつき

折れた骨片と肉片が

まるで肥料を掻き混ぜるかのように

泥濘んだ湿った音を奏でる。


それは悲鳴よりも静かな

生と死の境が混ざり合う音だった。


男たちの形は、枝と根の渦の中に完全に埋もれ

やがてその姿すらわからなくなった。


そこにはもう──人の形はなかった。

男の人数分、新しい桜の若木が根を張っている。


その樹皮はまだ湿り、わずかに温かい。


それが、人の体温の残滓だと

気づく者はいないだろう。


濡れた花弁がはらはらと落ち

風に乗って血を洗うように宙を舞う。


枝先には、紅く染まった花が咲いていた。

その紅は、生の色でも、春の色でもない。


穢れと死が混ざり合ってできた、静かな紅。

まるで──死そのものが繁殖していくように。


時也は、その光景をただ見つめていた。


まるで

〝穢れそのもの〟が根を下ろしたかのように。


藍色の着物の裾を揺らしながら

目の奥に微かな嫌悪を滲ませて。


「……ふぅ」


袂から煙草を取り出し、静かに火を点ける。

紫煙が立ち上り、漂う血の匂いを薄めていった。


指先で灰を落としながら

時也は一瞥だけ桜の木々を見上げ

ゆるやかに背を向けた。


その眼差しには、感情の欠片もなかった。


ただ──

穢れを遠ざけるような静けさだけが残っていた。



(……ソーレンは気にするなって言ってたけど

やっぱり、お客様が心配だな──)


リビングの窓越しに

レイチェルは裏庭の方へ視線を向けた。


視界の先、桜の並木の中に

藍の着物を纏った時也の姿が見えた。


急いで裏口から庭へ回り込む。


昼下がりの光が

桜の花弁を淡く透かしていた。


目に映るのは、整然と並ぶ桜の木々と

その中心に立つ時也の後ろ姿。


煙草の紫煙を燻らせるその姿は

いつもの柔らかな彼とは、まるで違って見えた。


風に揺れる藍の布が

どこか妖艶に、そして危うく映る。


(……時也さんも、煙草を吸うんだ)


煙が彼の輪郭を滲ませ

淡い光の中でその姿を溶かしていく。


レイチェルは思わず立ち尽くした。


「……おや?お疲れ様です、レイチェルさん」


不意に振り返った時也の声は

いつもの穏やかで

柔らかな響きを取り戻していた。


レイチェルは慌てて言葉を返す。


「あれ?お客様は?」


時也は咥えた煙草の先を見つめるように

視線を落とし、静かに紫煙を吐き出した。


「病院に行かれるとのことでした。

でも……もう二度と

お店には訪れて頂けないでしょうね」


何気ない言葉。


だがその最後の一文に

レイチェルの背筋が微かに震えた。


穏やかな表情の奥に

言い知れぬ冷ややかさが潜んでいる気がした。


(……裏庭の桜って、こんなにあったかしら?)


風が吹く。


紅に染まった花弁が宙を舞い

陽の光に溶けて消える。


煙草の煙が細く昇り

淡紅の花弁と交わって静かに空へ消えていった。


まるで──祈りのあとに咲く〝供花(きょうか)〟のように。



「……最後の客も帰ったぜ」


低く抑えた声が、沈みゆく空気を裂いた。

時也は、その声に応じてわずかに目を細める。


裏庭に現れたソーレンは、肩に斧を担いでいた。


刃の鈍い光が木々の影に反射し

淡い橙の残光を歪ませる。


その姿は

まるで黄昏の亡霊のように不穏で、静かだった。


「ありがとうございます、ソーレンさん。

──では、よろしくお願いいたしますね」


時也は淡く微笑みながら煙草を唇に挟み

ゆっくりと吸い込んだ。


吐き出された煙が、暮色に溶けて細く揺れる。


その笑みの裏には

どこか凍えるような気配が潜んでいた。


ソーレンは短く「おう」と頷き

肩から斧を滑らせて握り直した。


大気を裂く音とともに、重い刃が弧を描き──

次の瞬間、容赦なく桜の幹へと叩き込まれた。


カシンッ──!


金属が木を割る、鋭い衝撃音が響く。


幹が震え、花弁が淡く宙に舞った。

それは、まるで刃に散らされた春の残響だった。


「えっ……この桜、伐採しちゃうんですか?」


レイチェルの驚きが、微かに震えを帯びる。


見上げた枝先では

光を受けた花が儚く揺れていた。


「ええ。

この木はもう……美しく咲けないんですよ。

冬の暖炉の薪として

最後の役目を果たしてもらうだけです」


時也の声は穏やかだったが

その響きには遠くを見るような冷たさがあった。


彼の眼差しは

すでに花の命の向こう側にあった。


ソーレンは再び斧を構え、力任せに振り下ろす。


刃が幹を抉り、鈍い音とともに樹液が滲み出す。

ねっとりとした、赤。


血のように濃く、粘ついた色をしていた。

レイチェルは、その光景に思わず息を呑む。


(まるで……血みたい)


沈黙が庭を包む。


斧が振るわれるたび、花弁が散り

そのたびに土が紅に染まっていく。


桜は呻くような軋みをあげ、幹を震わせた。


その声は

まるで痛みに喘ぐ〝人〟のようだった。


「……病気の木、だったのかな。

まだ、綺麗に咲いてたのに」


彼女の呟きは、誰にも届かない。

ただ斧の音だけが規則的に響き、沈む陽を叩く。


やがて、最後の一撃が打ち下ろされた。


乾いた裂音が空気を切り裂き

幹はゆっくりと傾いだ。


──ドサァ


大地が震える。

枝が砕け、紅の花弁が一斉に宙を舞う。


淡紅の雨が風に散り

血のような樹液が根元を染めた。


「……ふぅ!」


ソーレンは息を吐き、斧を肩に戻した。


時也は、静かに煙を吐き出す。

紫煙が空に溶け、やがて風に散った。


「……これで、一安心ですね」


その声は穏やかに響いたが

どこまでも乾いていた。


燃え残った煙草を足元に押し付け

灰とともに消す。


一陣の風が吹き抜け

血のような花弁が一枚、時也の肩に落ちた。


彼はそれに気づくと、指先でそっと摘み取った。


「……(けが)らわしい」


囁くようなその声は

夜の訪れを告げる風よりも冷たかった。


レイチェルは思わず息を止め

その背に戦慄を覚える。


沈黙が再び庭を覆い、誰も何も言わなかった。


ただ、倒れた桜の木が

夕闇の中で静かに血を流し続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ