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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
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31/43

第30話 珍しい失態

それから数日間──


喫茶桜の営業は

まるで春の陽溜まりのように

穏やかな日々が続いていた。


レイチェルは、既に桜での業務に完全に馴染み

ローラースケートで

ホールを軽やかに滑りながら皿を運ぶ姿には

初々しさの中にも自信の色が宿っていた。


食器の鳴る音

カウンター越しの微笑

珈琲の香り──

すべてが、静かな調和の中で呼吸している。


時也はその穏やかな空気の奥で、ただ一人

別の世界に意識を沈めていた。


店内に漂う〝心の声〟を拾い上げ

悩みを解きほぐす。


それが喫茶桜が

〝悩みを解決する店〟と噂される所以だった。


カウンターの奥

湯気の立つドリップポットを傾けながら

時也は目を閉じていた。


水音が、まるで静寂の調べのように響く。


レイチェルはそんな時也の横をすり抜け

下げた食器を静かに厨房へ運び込んだ。


「お前が来てから、随分と楽になったわ」


食洗機の扉を閉めながら

ソーレンがニッと笑う。


筋張った腕を大きく伸ばすと

骨が鳴る音が狭い厨房に響いた。


「ふふ。役に立てて良かったわ!

時也さんも

悩みの解決に集中できてるみたいだし」


「最近は転生者の来店もねぇしな。

……アイツも必死なんだろ」


その言葉に

レイチェルはわずかに表情を曇らせた。


カウンターの向こう

時也の背中を見つめながら、小さく息を吐く。


「うん……。

悩みを解決する数を増やして

さらに噂を広めようとしてる感じだね。

時也さん……精神を削り過ぎないと良いけれど」


ソーレンは肩を竦め、呆れたように笑った。


「アイツは言ったら聞かねぇ。

やると決めたら、やる。

ああ見えて、頑固なんだよ」


(……やれやれ。

心配を掛けてしまっているようですね)


時也は二人の会話を背で聞きながら

さらに集中を深めていった。


スペシャルドリンクの注文がなくとも

客が心で悩みを呟いていれば

応えられる範囲で答えを添える。


それが、彼の今の信念だった。


(五番テーブルのお二人連れ……。

女性の悩みには答えられそうですね)


彼は音もなく立ち上がり

湯気の立つカップをトレイに載せた。


振り返ると

レイチェルがちょうど戻ってきたところだった。


「レイチェルさん。

これを五番テーブルの女性にお願いします」


「はいっ!」


レイチェルは笑顔でトレイを受け取り

スケートの車輪を鳴らして滑り出す。


青みがかった漆黒の髪がひと筋、光を弾いた。


時也はその背を優しく見送り

ふと、吸い寄せられるように

視線を奥のテーブルへと移す。


そこには、ひとりの男性客がいた。


深く椅子に腰を預け、手元の本を開いたまま

ちらりちらりとアリアへ視線を送っている。


その眼差しは、ただの好奇心ではなかった。


(あのお客様……もしや)


時也は静かに瞼を伏せ、意識を研ぎ澄ます。


音のない心の声が

薄靄のように流れ込んできた。


(──ふむ。なるほど……)


彼の中に、一つの確信が灯る。


時也はすぐさま新しい豆を挽き

その香り高い丘へ湯を落としながら

慎重にカップを仕立てた。


そしてトレイに載せると

自ら男性のもとへと歩き出す。


「あ、ご注文ですか?どこのテーブルです?」


レイチェルの問いに、時也は小さく首を振る。


「これは──僕が運びますので、大丈夫ですよ」


穏やかな微笑を浮かべ

そのまま静かに奥へと進む。


しかし、例のテーブルを通り過ぎざま──

トレイがわずかに傾いた。


次の瞬間

熱いコーヒーが男性客の腕にこぼれ落ちた。


「お客様、申し訳ございませんっ!」


普段は決して乱れぬ声が、店内に響いた。


その緊迫した声音に

レイチェルが驚いて振り向く。


「えっ!?

時也さんが、失敗?珍しい……!

お客様は大丈夫かしら」


慌てて駆け寄ろうとするレイチェルの腕を

ソーレンが掴んだ。


「行かなくていい」


「──え!?」


ソーレンは意味深に笑い、低く呟いた。


そして、口端を片方持ち上げたまま

レイチェルの耳元に顔を寄せる。


「ありゃあ……別の意味での〝特別ゲスト〟さ」


レイチェルは言葉の意味を掴めず

ただ困惑のまま時也を見つめた。


時也は深々と頭を下げ

男性に謝罪の言葉を繰り返している。


その声は落ち着いていたが

瞳の奥には明確な意志が宿っていた。


「腕を冷やしましょう。こちらへどうぞ」


静かながらも、有無を言わせぬ響き。


男性は一瞬ためらったが

やがて観念したように立ち上がり

時也の後をついていった。


二人の姿が扉の向こうに消えるまで

思わずレイチェルは息を呑んでいた。


(時也さん……一体、何が……?)


その胸に未知の不安が広がる。


だが、ソーレンは

まるで〝日常〟だとでもいわんばかりに

いつもと変わらず皿を拭き始めた。


「気にすんな。俺らは仕事だ」


その一言は

どこか冷たく、しかし確固としていた。


レイチェルはその言葉に押されるように頷き

深呼吸を一つ置く。


やがて笑顔を取り戻し

再びホールへと滑り出した。


──喫茶桜の空気が、静かに揺れた。


春の午後のような穏やかさの下で

誰も知らぬ〝異変〟が

ひっそりと始まろうとしていた──⋯



時也は男の腕を引き

喫茶桜の居住スペースを通り抜け

裏庭へと歩を進めた。


開かれた扉の向こうでは

午後の光が淡く地面を照らし

静かな風が木々の枝葉を震わせていた。


その風は

まるで見えざるものの息づかいのように冷たく

張りつめた空気の中を通り抜けていく。


「……火傷を冷やすんじゃ?」


男が訝しげに問う。


視線は鋭く

時也の背中を警戒の色で射抜いていた。


店内での柔和な笑み、穏やかな声音──

そのどれもが、今は遠い幻のように感じられた。


わざわざ人目のない裏庭へと連れ出す理由が

どうしても読めない。


嫌な予感が

冷たいものとなって脊髄を這い上がる。


「……えぇ。冷やして差し上げますよ」


その声音は静かに、だが確かに重く響いた。


振り返った時也の瞳は

先程までの柔らかさは微塵もなかった。


細められた鳶色の光は鋭く研ぎ澄まされ

まるで氷の刃を孕んでいる。


唇がゆるやかに吊り上がり、そこに宿る笑みは

人の情を欠いた無機の美しさを帯びていた。


「アリアさんを狙う──

その低俗な頭を、ですが」


その言葉が、静寂の水面に一石を投じる。


男の顔が引き攣り、目の奥に警戒の光が瞬いた。


だが、すぐに観念したように舌打ちをし

懐に手を差し入れる。


「──ちっ……バレてやがったか」


「えぇ。

此処に、貴方のお仲間が潜んでいることも

すべて承知しています」


時也の言葉は、風の音に溶けながらも

絶対の確信をもって庭を満たした。


その声に呼応するように

庭の奥から気配がざわめいた。


茂み、石垣、樹の影──

そこかしこから

黒ずくめの衣に身を包んだ男たちが姿を現す。


乾いた音を立てて靴底が石を踏む。

手には無骨なサプレッサー付きの銃。


午後の光が銃身を撫で、鈍く不吉な光を返す。


男たちは円を描くように配置し

幾多の銃口が一斉に時也へと向けられた。


冷ややかな風が草木を鳴らす。


その音に紛れて

銃器の金属音が、乾いた余韻を残す──


「バレたところで……

あの女の取り巻きに何ができる?

なぁ、マスター?」


先頭の男が笑い

乾いた唇の端から嘲りの息を洩らす。


時也は何も言わず

ただその場に立ち尽くしていた。


巨桜から差し込む薄桃色の光が

彼の横顔を照らし

庭の数多の桜が応えるように僅かに枝を揺らす。


微かな花の香が流れ

しかしその美は──

今や恐ろしい静寂の幕を飾る香気となっていた。


沈黙。


ただ、風と金属の音だけが時を刻む。


撃鉄の起こる音が、ひとつ、またひとつと連なり

空気が張り詰めていく。


それは──死が〝牙〟を鳴らす音だった。


時也はその圧をものともせず、ゆるやかに

しかし威圧的な静寂の中で男たちを見回した。


その眼差しは

あらゆる感情を捨て去った修羅の冷たさを宿し

同時にどこか

悲しみを湛えた静謐の光のようでもあった。


「逆に伺いますが──」


低く、囁くような声が空気を切り裂く。


「貴方たち程度で、彼女に近づけるとでも?

(きたな)らしくて……

きっと、彼女の瞳にすら映らないでしょうね」


男たちの頬がひくりと動く。


その言葉は挑発ではなく──〝断罪〟だった。


正義でも、怒りでもない。


ただ〝世界の理〟のようにして放たれた

静かな死刑宣告。


風が止み

庭全体が息を潜めたかのように静まり返る。


「……撃て」


その号令と同時に

乾いた銃声が幾重にも重なり、閃光は走り

桜の庭の空気を裂いた。


くぐもった炸裂音が幾度も重なり

硝煙と鉄の匂いが濃く立ち上る。


やがて、微かな余韻を残して銃声が止んだ。


しかし──


硝煙が風に流され視界が開ける。


弾丸は、時也の目前で──静止していた。


放たれた無数の銃弾は

空中で唸りを上げながら回転し

まるで見えぬ壁に阻まれたかのように動かない。


時間が凍りついたような沈黙の中

淡い紫光が宙を満たす。


「……なっ……?」


狼狽の声があがる。


宙に浮かぶ薄紙のような護符が

淡い光を帯びながら、幾枚も静かに揺れていた。


まるで、春の夢でも見ているかのように。


その護符が放つ光が幾筋にも枝分かれし

護符と護符を繋ぎ、現れた光る面が盾となり

弾丸の群れを押し留めていることに

やがて気付く。


それは現実の戦場とは思えぬほど幻想的で

しかし、あまりに冷たい光景だった。


「僕程度に当てられないのであれば──」


時也の声は

風に融けるかのように穏やかだった。


「やはり貴方たちでは

彼女の前に立つことすら叶わないでしょうね」


そう言いながら

時也は懐からさらに数枚の護符を取り出した。


その手の動きは舞踏のようであり

だが、まるで

陰陽の均衡が形を得たかのように静謐で──

恐ろしく美しかった。


淡い光を帯びた護符がひらりと舞う。


そして──

その輪郭が、ゆるやかに崩れ始めた。


まるで織り込まれた文様が

音もなく解けるように、護符の線が溶けていく。


光が散り、形が消え

代わりに、ひとひら、またひとひら──

護符は姿を変え、桜の花弁となって風に舞った。


その様は、まるで

天の理が春を孕んで降り注ぐかのようであった。


花弁は淡く光を宿し

空気の流れに乗って庭一面を漂う。


柔らかな風がその間をすり抜け、香りが広がる。


花弁の渦の中心に立つ時也。


彼の藍の衣が微かに揺れ、鳶色の瞳が光を映す。

穏やかに、しかし抗いがたい威を湛えて。


時也は一歩、静かに足を進めた。


鳶色の瞳がわずかに細まり

唇の端がほのかに上がる。


その微笑は

慈悲のようでいて、誰よりも冷たい。


「それでは、皆様──さようなら」

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