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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
ようこそ

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第3話 喫茶『桜』

レイチェルは、意を決した。

震える指先で、真鍮の取っ手にそっと触れる。


その冷たさは

まるで彼女の迷いを押し返すかのように無機質で

しかし確かに、現実の感触を伝えてきた。


ぐっと力を込めると

重厚な木製の扉が軋む音を立てて

静かに内側へと開かれる。


──その瞬間。


ふわり、と。


まるで

春風が彼女の心へ直接吹き込んだかのように

柔らかなピアノの旋律が耳に届いた。


温かい空気が、肌を包む。


香ばしいコーヒーの香りに

ふわりと混ざるのは、焼き菓子の甘い匂い。


それは

どこか懐かしく、優しい記憶を撫でるような

柔らかな香りだった。


(……なんて、落ち着く匂い)


そう思う間もなく、扉が背後で静かに閉じる。


──その刹那、世界が変わった。

喧騒が、消えた。


街のざわめきも、車の音も、鳥の声さえも──

一切が、聞こえなくなった。


音そのものが奪われたような静寂。

だが、耳が塞がれたわけではない。


ただ、それほどまでに──

この空間は、外界から隔てられていた。


(……ここは、特別な場所)


そんな直感が、雷のように胸を打つ。


「……こちらへどうぞ」


突然の低い声に

レイチェルはびくりと肩を跳ねさせた。


振り向いた先に立っていたのは

店のウェイターらしき男。


跳ねた癖のあるダークブラウンの髪に

切れ長の琥珀色の瞳。


無口そうな顔立ちと鋭さを湛えた目元には

どこか人と距離を置いたような気配があった。


だが、それでも彼は──

不器用ながらも

誠実に対応しようとする空気を纏っていた。


「ありがとうございます……」


ぎこちないながらも、頭を下げるレイチェルに

男は無言で頷き、静かに歩き出す。


促されるままに店内を進み

案内されたテーブルに腰を下ろす。


木製の椅子は手入れが行き届き

座面には薄く陽の温もりが残っていた。


ふと、視線が店の奥に向かう。

そこに立っていたのは──もう一人の男。


黒褐色の長い髪を一つに束ね

深い藍の衣が

幾重にも重なって身体を包んでいる。


布は前で重ねて、腰元の帯で締められ

折り目ひとつ乱れていない。


袖は広く長いが、背に掛けた細い紐が

それを後ろへ引き、動きを整えていた。


彼女が見慣れた服とは違う──


縫い目も飾りもなく

布の重なりだけで形が保たれている。


それは服というより

静けさを身に纏ったようだった。


そして、彼の鳶色の瞳は穏やかで

どこか母性さえも感じさせる。


(……あの人が、この店の店主かな……?)


カウンターの中で丁寧に器を並べるその所作は

静かで、正確で、まるで神事のようだった。


レイチェルは

そっとテーブルの上のメニューに視線を落とす。


美しく整えられた文字の中──

端に、何気なく書かれた一行に、目が止まった。


──Special Drink──


(……あった)


噂に聞いた通り。

思わず息を呑み、手を挙げる。


「これを……お願いします」


恐る恐る、スペシャルドリンクを指差す。


「……スペシャルドリンク、ですね。

種類を選んでください」


「……えと……ブレンドコーヒーを、ホットで」


ウェイターの男は何も言わず

手元のメモにペンを走らせ

軽く頭を下げて立ち去った。


笑顔は──なかった。


だが、それが彼の素なのだろうと

何となくレイチェルにはわかった。


(……噂通りなら

このドリンクを頼んだ後、強く願えば──)


静かに目を閉じ、胸の奥に潜んだ問いを

そっと浮かべる。


(私は……いったい、何者なの……?)


その願いが言葉になると

胸が締め付けられるように痛んだ。


(お願い……助けて……)


微かに震える唇が

言葉にならない声を吐いた時──


ふと、視線が自然とある席へと吸い寄せられた。

硝子で仕切られた、その特別な席。


そこに座っていたのは、一組の親子らしき二人。


──否。


その空気は、もはや人間というよりも

何かもっと異質な

〝完成された造形物〟に近かった。


女性は、腰まである金髪をゆるやかに垂らし

白磁のような肌は窓からの光を反射していた。


伏せた睫毛も金色。

そして、そこから覗く燃えるように深い紅の瞳。


彼女は、一切表情を動かさないまま

静かに、そこに〝存在〟していた。


その傍らには、全身を包帯で巻いた幼い男の子。

短く切り揃えた銀髪に、山吹色の瞳。


その目がこちらに向いた瞬間

レイチェルの背筋に冷たいものが走った。


(……皮膚の病気、かしら……?)


だが、次の瞬間には

その考えを自ら振り払っていた。


視線を逸らしたいのに、なぜか目が離せない。


その席は、まるで舞台の上。


光を浴びながらも、音も動きもなく

ただただ美しさだけが凝縮された空間だった。


──店主が動く。


藍の衣の裾が滑らかに揺れ

黒褐色の髪が、風もないのに柔らかく揺れる。


手に持たれた銀のトレイは

まるで空気に溶け込むような滑らかさで

運ばれていた。


そして、女性の前に置かれた一杯のコーヒー。

彼女の唇が触れ、喉がわずかに動く。


それだけの所作に──

レイチェルは、目を奪われていた。


(……綺麗な人……)


無意識に浮かんだその言葉。


だが。


(──殺してやる)


その一言が、雷のように脳を貫いた。


「……え?」


思わず声が漏れた。


それは、自分の心の中から聞こえた。

けれど、自分の意思ではない。


誰かに憑かれたかのような、ぞわりとした感覚。


恐る恐る視線を上げると──


カウンターの中

あの店主の鳶色の瞳が、こちらを見ていた。


それは、怒りでも問いでもなく──

静かで、深くて

どうしようもなく哀しい目だった。


「……どうぞ」


不意に差し出された声に

レイチェルは我に返った。


ウェイターが、自分の前にカップを置いていた。


テーブルの上のその黒い液面には

冷や汗を浮かべた、自分の顔が映っている。


「あ……ありがとう、ございます」


礼を言い、カップを手に取る。


──その時。


目に入ったのは

ソーサーの上に丁寧に折り畳まれた

白い小さな紙片。


(……え……まさか……)


指先が震えながら、それを広げる。


『あなたの仲間は近くにいる』


丁寧な筆跡で、たったそれだけが書かれていた。


(……仲間?)


理解が追いつかず、呆然と顔を上げた

──その瞬間。


目の前に、彼がいた。

包帯で全身を覆われた、あの男の子。


「──わっ!?」


驚きに声が漏れる。

だが、恐怖はなかった。


その顔──

包帯の隙間から覗く口元がふわりと綻んでいた。


「これ、あげる!」


ころん、と音を立てて

テーブルの上に転がされた赤い飴玉。


それが光に透けて、宝石のようにきらめく。


「食べて、食べて!」


無邪気な声が弾んだ。

視線の先に、母と思しき女性はまだ硝子の中。


動かず、微動だにせず。

けれど──拒んでいる気配はなかった。


「……じゃあ。いただくね?」


レイチェルは

そっと飴玉を拾い上げ、口に含んだ。


甘さが、ゆっくりと、心を溶かしてゆく。


「ありがとう!」


そう言った瞬間

男の子の山吹色の瞳が、ぱあっと輝いた。


笑顔は

包帯越しでも分かるほど、あたたかくて──

まるで太陽のようだった。

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