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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
重力を司りし者

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第29話 香りと眠り

「──うぉい!ヘタレ店長殿ぉ!!」


突き抜けるような怒声が

閉ざされた空気を裂いた。


扉が勢い余って壁に叩きつけられ

鈍い音が部屋の奥に沈む。


その反動で、窓辺のカーテンがわずかに震え

白い月光が床に滲んだ。


ベッドに凭れたまま、時也は薄く目を開けた。

微睡の残滓を背に、静かに顔を上げる。


「……どうしたんですか?」


声音は柔らかく

しかし底に微かな冷えを孕んでいた。


「どうしたもこうしたもあるかよ!」


ソーレンは鋭い剣幕で睨み上げ

掌で額の汗を拭う。


その仕草には、焦燥と苛立ちが混ざっていた。


「あんのクソ転生者!

いつの間にか逃げやがった!

お前らが余計な仕事増やすからだろうが!!」


彼の声が木霊するたび

部屋の温度がわずかに下がるようだった。


本来なら──

捕えた転生者を落ち着かせ

事情を説明するのは時也の役目。


青龍はアリアの回復を見守り

ソーレンは血溜まりを処理する。


それが

暗黙のうちに定められた三人の役割だった。


だが、その均衡は、唐突に崩れた。

転生者は、いつの間にか──消えていた。


「クソが……どんな異能だったんだろな?

もしかしたら

貴重なもんだったかもしれねぇのに」


吐き出すような悪態。

だが時也は、ただ静かにその言葉を受け止める。


微動だにせず、わずかに目を伏せて答えた。


「青龍の話によると……」


一呼吸置いて、声が低く落ちた。


「〝水が無限に出せる〟能力──

だったそうですよ」


「⋯⋯はぁ?水ぅ?」


ソーレンが眉を顰める。


「硝子で囲まれたあの席の構造を利用して

アリアさんを溺れさせようとしたようです。

けれど、あの席には排水溝があります。

水がどれほど溢れようと

満ちることはありませんから」


「……それで

歯で、あそこまで食いちぎったってのか」


ソーレンの声が濁る。

言葉の重みが、部屋の空気を沈ませた。


「じわじわ痛めつけようって

痕跡が凄かったんだよな……」


その一言に

時也とレイチェルの顔が同時に蒼ざめる。


想像するだけで、喉が焼けるように重くなった。


(……どれほどの恨みがあれば

歯で、あそこまで人を喰い千切るなんて⋯⋯)


レイチェルは息を詰め

胸の奥に込み上げる吐き気を押し殺した。


沈黙の中、時也の声が細く響く。


「……あの方は、不死鳥から──

他の魔女への見せしめとして、嘴で身体を……

急所を外して、ゆっくり食い殺されたそうです」


声は震え、苦痛と嫌悪の色を帯びていた。


「殺された本人にも、見ていた者たちにも

絶望がさらに深まるように……」


しんと、空気が止まる。

時間が一瞬、凍結したかのようだった。


「おっえぇ〜〜!」


沈黙を破ったのは

ソーレンの誇張された嘔吐の声だった。


冗談めかしていたが

その眼差しの奥には微かな陰が宿っていた。


血と死を幾度も見てきた彼にとっても

不死鳥の嗜虐さには、嫌悪があるのだろう。


喉の奥に突き上げる苦味を押し込み

時也はただ、呼吸を整えた。


瞼の裏で、アリアの惨状が何度も再生される。


燃え立つのは

怨嗟の原罪である不死鳥への怒り。


「……ってかよ、待て待て」


ソーレンが、突然思い出したように眉を顰める。


「水が無限に出せんなら

水道料金タダじゃねぇか!!

うわ……逃がすなんて、なおさら勿体ねぇ!」


その突拍子もない言葉に、空気が緩む。


「……ぷっ」


時也が溜め息を漏らし

レイチェルが笑いを堪えきれず吹き出した。


(水道料金なんて

気にするようには見えないけどな……)


胸の奥で、ほのかな温もりが灯る。


ソーレンは照れ隠しのように鼻を鳴らし

窓辺へ歩み寄った。


外の街はすでに夜の底へ沈み

灯火だけが遠く瞬いている。


どれほど追ったところで

逃げた者に追いつく術はもはやない。


「──ちっ」


舌打ちと共に

彼はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。


淡い橙が瞳に映り、紫煙がゆっくりと立ち昇る。


それは天井に届く前に

窓の外の闇に溶け、かすかに漂った。


すると、ノックの音が静かに響いた。


その音は、夜気に溶ける鐘のように短く

そして確かだった。


レイチェルが振り返ると

そこには青龍が立っていた。


幼子の姿ながら

その立ち姿には老成した威厳がある。


「時也様、アリア様が……

未だ表面的なところもございますが

回復を終えられました。

どうかお戻りを」


穏やかで澄んだ声。

その言葉の端には、僅かな安堵が混じっていた。


「わかりました。

ありがとうございます、青龍。」


時也は柔らかく微笑み、静かに身を起こす。


その仕草には

疲労の影を感じさせぬ静謐が宿っていた。


シーツには、彼の体温がまだ残っている。


月明かりが布の皺をなぞり

わずかに温もりの輪郭を浮かび上がらせた。


「では皆さん

明日もまた、営業に転生者探しにと──

やることは山積みです。

しっかりと、休みましょうね!」


そう言って

時也は両の手を軽く叩き、解散の合図を送る。


その声はどこまでも柔らかく

しかし確かな芯を持っていた。


「……今まで寝てたヤツが、何言ってんだか」


ソーレンが苦々しく吐き捨てる。


だが、その声音には

わずかに滲む優しさがあるようにも聴こえた。


不器用な心配を隠すための悪態──

それを時也も理解している。


「おやすみなさい」


時也は穏やかにそう告げ

部屋を後にしようとした。


が、その足がレイチェルの前で止まる。

振り返った瞳が、灯のように温かった。


「レイチェルさん……」


「はい?」


「貴女がいてくださって、本当に助かりました。

心から感謝いたします。

それから──

ベッドをお借りしまして、申し訳ございません」


彼は深く頭を下げる。


その所作は、丁寧でありながらどこか神聖で

礼の言葉というより、祈りに近かった。


「──いえっ!

アリアさんと、ゆっくり休んでください!」


レイチェルは慌てて手を振り、笑顔を向けた。


その頬に宿る赤みは、安堵と羞恥と

少しの敬愛が溶け合った色だった。


時也はもう一度深く頭を下げると

穏やかな笑顔を残して、静かに扉を閉めた。



扉が閉じられた瞬間──部屋に静寂が戻る。

灯りが揺れ、時計の針が一拍遅れて音を刻む。


緊張が解け

全身に疲労がじわりと押し寄せてくる。


「あぁ……もうダメ……」


レイチェルは瞼を擦り

力が抜けたようにベッドへ倒れ込む。


沈み込むシーツが微かに軋み

彼女の身体を優しく包み込んだ。


その瞬間──

ふわり、と柔らかな香りが鼻先を掠めた。


それは、桜の花のように淡く、甘い香気だった。


疲れた心に寄り添うような

穏やかな温度をもって漂っている。


「……時也さんの香り、かな」


囁きながら、レイチェルは顔をシーツに埋めた。


頬を包む布の温もりが

まだ彼の存在を映している気がした。


胸の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。


恥ずかしさと安らぎが入り混じる中で

彼女は小さく息を吐いた。


(こんな香りのする人が……

アリアさんを愛して、守り抜いてきたんだね)


その事実が、静かに心の奥に沁みていく。


温かい光が胸の内側で膨らみ

やがて全身を包み込んだ。


「……時也さんが

アリアさんの傍に戻れて……良かったぁ……」


呟く声は、もう夢の淵で溶けかけていた。

瞼の裏に、淡い光が滲む。


それは桜の花弁のように柔らかく揺れ

彼女の意識を深い眠りへと誘っていく。


静かに、静かに──

桜の香が、部屋を満たした。


夜風がカーテンを揺らし

星明かりがその頬を撫でる。


やがて、すべてが穏やかに沈み

彼女の呼吸だけが、静かに夜を刻んでいた。


春の夢のように優しく──

桜の香に包まれながら、静寂の闇に融けていく。

✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭



紅蓮の嚮後(きょうご) 〜桜の鎮魂歌〜


ここまでお読みくださり

心から、感謝申し上げます。


もし、よろしければ

世界の外観などイメージしやすいようにと

次の頁にこの物語の舞台設定を

記述させていただきましたので

お時間ある時にでも、お付き合いいただけたら

幸いです。



今後とも

紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜

どうか、よろしくお願いいたします

(*´︶`*)ノ


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