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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
重力を司りし者

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第28話 治癒の力

ソーレンは、重い扉を押し開けた。


夫婦の寝室に足を踏み入れると

空気がひやりと肌を撫でた。


そこに漂うのは、焦げた金属と桜の香──

かつて幾度も命が燃え尽き

また芽吹いた証だった。


ベッドの上には銀色の防火シートが張られ

焼け焦げの痕が幾重にも重なっている。


幾度──

ここで断罪の度に再生が繰り返されたのか。


その度に時也が傍で見守っていたことを

痕跡が静かに物語っていた。


彼は慎重に、重力の糸を解いた。


アリアの身体は

まるで水面に浮かぶ羽毛のように

ふわりと沈んでいく。


揺れる金の髪が重力の遅延に揺らぎ

水中の光を透かしたようにきらめきながら

枕へと降りていった。


その一挙一動まで

重力の流れに緻密な制御が行き届いている。


ちぎれた腕さえも

見えない力に導かれるように滑らかに位置を戻し

まるでそこが

最初から在るべき場所と知るかのように

肉と肉とが微かに蠢きながら吸い付いた。


ベッドの傍らでは

青龍が小さな身体を丸めて眠っていた。


薄い胸が静かに上下し

微かな寝息が規則正しく響く。


まるで

この部屋の痛みと静寂を鎮めているようだった。


「……全く。呑気なこった」


ソーレンは眉をひそめ、寝顔に一瞥を落とした。


その声音には苛立ちよりも

どこか安堵の影があった。


「……あ、

私は時也さんの様子を見てきますね!」


レイチェルの声が

重く沈んだ空気を払うように弾んだ。


ソーレンは軽く手を振る。


「おう、そうしろ」


彼女が小さく頷いて踵を返した

その瞬間だった。


「──うぉあっち!!あっちぃって!!

何しやがんだ、アリアっ!!」


激しい声に、レイチェルは反射的に振り返った。


視線の先で──

アリアが、ソーレンの腕を掴んでいた。


「えっ……!」


その手は鉤爪のように食い込み

灼ける音が肉を焼く。


白煙が上がり、焦げた匂いが濃く漂った。


「おい!てめぇ、マジで離せって!!」


ソーレンが必死に腕を振りほどこうとしても

アリアの指はびくともしない。


その瞳だけが動いた。


深紅の光が

まっすぐにレイチェルを見据えていた。


怒りでも、恨みでも、悲しみでもない。


その眼差しは

ただ──何かを伝えようとしていた。


レイチェルは息を詰めた。

心臓が静寂のなかで一拍遅れて鳴る。


アリアは、掴んだ手を離さぬまま

ゆるやかにもう片方の手を上げた。


そして、まるで彼女を呼ぶように

微かに手招きをする。


──来なさい。


恐る恐る近づいたその刹那、アリアは突然

自らの傷の裂け目へと指を差し入れた。


「なっ……!?」


レイチェルの声が震える。


赤黒い断面が露わになり、血潮が溢れる。


だがアリアは微動だにせず

まるで水を掬うように掌でその血を取った。


滴る紅が手の甲を伝い

床に淡い光の軌跡を描いて落ちていく。


そして──

アリアはその血を

レイチェルの火傷した掌へと垂らした。


瞬間、熱が走った。

だがその熱は、炎ではなかった。


肌を撫でるような温もりが

ゆっくりと痛みを呑み込んでいく。


やがてそれは穏やかなぬくもりに変わり

溶けるようにして消えた。


気づけば、傷は跡形もなかった。

皮膚は滑らかで、火傷の赤みもない。


「……すごい……!」


レイチェルは思わず息を漏らし、掌を凝視した。


ほんの数秒前まで焼け爛れていたはずの皮膚が

再び命を取り戻している。


「アリア様の血は

アリア様がお認めになった者が飲めば不死を……

傷に塗れば治癒の効果がございます」


その声に振り返ると

青龍が眠そうな目を擦りながら姿勢を正した。


幼い声なのに、響きには確かな威厳がある。


「……そう、なのね……!」


レイチェルが呟く。


その傍で、アリアは再び血を滴らせ

今度はソーレンの腕に落とした。


「っ、いってぇ……!まだ熱が残ってやがる」


赤く焼けた痕に血が触れ、痛みが滲む。


だがすぐに

肌の赤みが褪せ、手の跡が静かに消えていった。


灼ける匂いが消え

残るのは淡い血の香と温もりだけ。


「お前なぁ……

呼び止めたかったんなら、口で言えよな……!」


腕を摩りながら呟く声に、わずかな安堵が滲む。


文句を言いつつも

彼の表情は、苦笑へと緩み始めていた。


だがアリアはソーレンを見ず

再びレイチェルを見つめていた。


その瞳は深紅に揺れながら

言葉にならぬ想いを託すように静止している。


(……もしかして)


レイチェルは、胸に手を当てた。


アリアは、自らの血で彼女の傷を癒した。

それは──謝罪だったのではないか。


自分の腕を落とした者にさえ

赦しを与えるような、沈黙の愛。


(この人、自分のほうが

よっぽど酷い怪我をしてるのに……)


胸の奥が痛んだ。


レイチェルはその痛みを隠すように

ひとつ息を吸い、笑顔を作った。


「もう、大丈夫ですよ!

本当に……ありがとうございます!」


その笑顔は少しぎこちなかったが

精一杯の誠意を込めたものだった。


アリアの瞳が、わずかに柔らいだ気がした。


「では、時也さんの様子、見てきますね!」


レイチェルはそう告げ、振り返る。

背後で微かに布の擦れる音がした。


アリアが息を吐いた──


まるで

長い祈りの終わりに訪れる安らぎのように。



廊下を歩きながら

レイチェルはふと掌に触れた。


つい先ほどまで

そこには火傷の痕が刻まれていたはずだった。


皮膚が焼かれ、痛みが鈍く残るはずなのに──

今はもう、何の跡もない。


指先でそっと撫でる。


その瞬間、微かな温もりが

まるで血の下に生きているように広がった。


アリアの血が、まだこの掌の奥で息づいている。

そんな錯覚を覚えるほどに。


「……アリアさん」


名を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが微かに震えた。


初めて彼女を見たときの記憶が

柔らかな光のように甦る。


息を呑むほどの美貌──

それは神聖というより、寧ろ畏れの象徴だった。


深紅の双眸には、底知れぬ冷たさが宿り

その存在そのものが

見る者に祈りと恐怖を同時に抱かせる。


けれど。


あの人は痛みに耐えながら

なお自分の傷を癒してくれた。


それは言葉のいらない、彼女なりの優しさ──

火と氷の狭間に宿る、人ならざる慈愛の形。


「……強い人だなぁ」


呟きは、夜明け前の光のように小さく

けれど確かに胸へと沁みた。


掌に残るぬくもりが

心臓の鼓動と共にゆっくりと脈打ち

アリアという女性の静かな強さを

血の底で感じていた──⋯



やがて、レイチェルは自室の前に辿り着く。

扉の前で立ち止まり、深く息を吸った。


胸の奥に溜まったものを

ひとつ、吐き出すように。


控えめに、指の甲で扉を叩く。


「……時也さん。ご気分は、いかがですか?」


微かな物音が返る気配に、静寂の間を隔ててからゆっくりと扉を開いた。


部屋の中は、柔らかな光に満ちていた。

ベッドの上では、時也が上体を起こしている。


その顔はどこか疲弊しており

目の焦点はまだ曖昧だった。


まるで、眠りと現の境に

魂を置き去りにしたかのような──

そんな鈍く霞んだ表情。


しかし、レイチェルの姿を認めた途端

彼の瞳に意識の光が宿る。


次の瞬間には、まるで仮面を装うように

いつもの穏やかな微笑が浮かんでいた。


「……お恥ずかしいところをお見せしてしまい

本当にすみません」


丁寧な言葉。落ち着いた声音。


けれど

その目の奥に宿る陰は隠しきれなかった。


寂寞(せきばく)とした翳が、彼の笑顔の奥底に沈んでいる。


「……いえいえ!」


わざと明るく返す声。

それは励ましというより、祈りに近かった。


「私が言うのも変ですけど……

愛する人があんな状態になったら

誰だって取り乱します。

時也さんは……お強いですよ」


自分でも驚くほど、素直に言葉が出た。


そして、ふと脳裏にあの瞬間が蘇る。


アリアの喉元に刃を突き立てた時。

骨を削る、冷たい金属音。

手に残った生々しい感触。


きっと、あの日も

時也は同じ痛みに耐えていたのだろう。


愛する人を守るために

愛する人を傷つけるという──矛盾。


その苦しみを

彼は何度も抱えてきたに違いない。


(……この人は

何度こんな思いをしてきたんだろう)


静かな思考が、胸の奥に沈む。


その時、ふと視線が合った。

時也が柔らかに微笑んでいた。


それは

これまで見たどんな微笑よりも穏やかで──

儚く、そして深く優しいものだった。


「……それでも今は

本当の彼女を見ようとしてくれて

ありがとうございます」


穏やかな声が、静かに胸を貫いた。


「……え?」


思わず、声が漏れる。


アリアに傷を負わせた自分に

そんな言葉が向けられるなど思いもしなかった。


けれど、時也はゆるやかに首を振り

淡い微笑を保ったまま続けた。


「貴女が……

アリアさんを恐れずに、今は感じてくれている。

それが、僕には嬉しいんです」


柔らかな声に、深い哀しみと祈りが滲んでいた。

その穏やかさが、かえって痛かった。


レイチェルは言葉を失い

ただ右の掌を握り締める。


そこにはもう、火傷の痕はない。

けれど、温もりだけが確かに残っている。


それは、アリアの血の温もりか。

それとも今胸の中で脈打つ、人としての感情か。


「……こちらこそ……ありがとうございます」


小さく呟いた声が震える。

微笑もうとした唇は、かすかに歪んだ。


その笑顔は──

火傷が消えた皮膚のように柔らかく

そして少しだけ、泣き出しそうに見えた。


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