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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
重力を司りし者

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第27話 名を呼ぶ声

部屋には、沈黙が息づいていた。


窓の向こう、夜の闇は深く沈み

風が硝子を擦るたびに、細い音が微かに鳴った。


灰皿の上で崩れる灰の音と

ソーレンが煙を吐き出す微かな吐息だけが

時の流れを知らせている。


火の消えた煙草が、灰皿の中で冷えていく。


それが何本目なのか

もはや数えることもやめていた。


指先に残る焦げた匂いだけが

過ぎ去った時間を曖昧に記す。


「……な?」


掠れた声が、静寂をかすかに割った。


「お前には、胸糞悪い話だったろ?」


低く落とされたその声に

沈んでいた空気がわずかに揺れる。


ソーレンは、隣に座るレイチェルを振り返った。


その瞬間、言葉を失う。


──彼女が泣いていた。


声も立てることなく、ただ頬を伝う涙が

月明かりを受けて細く輝きながら落ちていく。


それは雫ではなく

静けさの形をした祈りのようだった。


「……おいおい。勘弁しろよ」


呟く声には、苛立ちよりも戸惑いが混じる。

ソーレンは頭を掻き、少しだけ顔を背けた。


「泣いてる女の扱いなんて

俺は知らねぇんだよ……」


レイチェルは涙を拭おうともしない。

震える唇が、ようやく音を紡いだ。


「……私、こんな力を持って悩んでるのって……

この世に私だけなんじゃないかって

ずっと思ってた。

でも……そうじゃないって

分かって……良かった」


涙声の奥に、安堵と痛みが同居していた。

その声が、夜の静けさに溶けていく。


「辛かったよね……ソーレンさんも……」


ソーレンの指がわずかに動く。


返す言葉は見つからず

目を伏せたまま煙草の欠片を弄ぶしかない。


「……ソーレンさん

時也さん達に出会えて……良かったね。

それに、時也さんとアリアさんを救ってくれて

ありがとう⋯⋯。

おかげで私も今、こうして居場所ができてる」


「……バカかよ」


その一言は、息のように小さく漏れた。

笑いとも嘆きともつかぬ音が、唇からこぼれる。


「俺は、ただ……

あいつらと居るしか選択肢がなかっただけだ。

礼を言われる筋合いはねぇよ」


「それでも、ありがとう」


その穏やかな声に、ソーレンの胸が僅かに疼く。


長く凍てついていた何かが

微かに解けるようだった。


「……泣くんじゃねぇって。面倒くせぇな」


大きな手が伸び

乱暴にレイチェルの髪を撫でた。


指先は不器用で──けれど確かに温かい。


「俺は、ガキの頃から

殴られたり蹴られたりして育ったからな。

優しい言葉なんて⋯⋯かけてやれねぇぞ」


「……うん」


その返事は、涙の中でも静かに響く。


彼の手の下で小さく頷く彼女の姿に

ソーレンは短く息を吐いた。


彼の手は、荒く硬い。


だがその掌に宿る温もりは

彼女の心を守る殻のようだった。


痛みを知る者だけが持つ──孤独な優しさ。


「それでも……

俺は、今が人生で一番マシだと思ってるよ」


「……うん、うん……」


涙が頬を伝い落ちるたび

レイチェルの表情は少しずつ解けていった。


その微笑は

悲しみの底から咲いた花のように淡い。


時計の針が静かに進む。

部屋を包むのは煙草の匂いと、互いの呼吸だけ。


ソーレンは組んだ脚に頬杖をつき

窓の外に視線を逃がした。


「……もういい加減に、泣くのやめろよ」


「ソーレンさん……優しいね」


「……は?

お前、優しいの意味

もっぺん調べ直した方がいいぞ」


「ううん。貴方は、優しい」


静寂が、ふたりの間に降りた。

ソーレンは舌打ちをし、唇の端で苦笑を零す。


「……ちっ。

そうかよ。変な奴だな⋯⋯お前」


レイチェルは泣き笑いのまま

静かに彼を見ていた。


──ソーレンの生き様は、決して正しくはない。


だが、愛情を知らぬがゆえに選び取った

ただ一つの正解だったのだと

レイチェルは思った。


名を呼ばれず、誰にも必要とされぬまま

それでも、生きることだけを選んできた男。


彼にとって〝名前〟とは

野良犬から人間へと変わるための証であり

同時に赦しでもあったのだろう。


だからこそ──〝ソーレン〟という名の響きは

痛みを孕みながらも

どこまでも優しく胸に届いた。


「……ソーレンさん」


「ん?なんだよ」


「これからは、私も貴方の名前……

たくさん呼ぶね」


その言葉に、ソーレンは小さく息を詰まらせた。

視線を逸らし、耳の端まで赤く染めながら呟く。


「……その〝さん〟付け……やめろよ。

時也みてぇで、腹立つからよ」


「ふふ……わかったわ。──ソーレン!」


呼ばれた名が、空気を震わせる。

その響きは、彼の胸の奥に届いてゆく。


名前という音が、こんなにも優しいものだと

彼はこの瞬間、初めて知った。


「……おう」


ソーレンは背を向け、再び煙草に火をつけた。

小さな炎が瞬き、煙がゆらゆらと立ちのぼる。


「……ありがとな」


その言葉は煙に紛れるほど小さく、掠れていた。

けれど、レイチェルにははっきりと届いていた。


──彼がようやく〝名前〟を持った意味が

今、少しだけ報われた気がしていた。


リビングには、沈黙が満ちていた。


やがて、その静けさを破るように──

階段の方から

靴音がひとつ、またひとつと響き始めた。


コツ、コツ、コツ……


その足音はゆっくりと

しかし確かに近づいてくる。


まるでこの家の中の空気そのものが

その来訪者を畏れて後ずさるようだった。


リビングの扉が、僅かな軋みと共に静かに開く。


アリアだった。


「──っ!アリアさん!」


レイチェルが驚きに目を見開き

手にしていたカップを慌ててテーブルに置いた。


彼女の動揺が

陶器の触れ合う小さな音となって部屋に響く。


「もう、身体は平気なんですか!?」


問いかけても、アリアは何も答えなかった。

ただ、そこに立ち尽くしている。


彼女の姿を見て、ソーレンが鼻を鳴らした。


「いや……どう見たって、ありゃまだダメだろ」


ソファに深く腰を沈めたまま

投げやりな声が落ちた。


その目には苛立ちよりも

わずかな憐憫が宿っている。


アリアの身体は、まだ完全に癒えていなかった。


白磁のような肌のそこかしこに

赤い筋のような裂け目が残り

その隙間からは

赤黒い肉がじくじくと息づいていた。


再生と崩壊を繰り返すその肉体は

まるで〝生きる〟という痛みそのものを

体現しているようにも見えた。


──不死とはいえ、痛みはある。


青龍の言葉が、レイチェルの脳裏に蘇る。

その瞬間、彼女は無意識に拳を握りしめていた。


(それなのに……無理してまで……)


アリアが

自ら身体を引きずってここまで来た理由。


それはきっと、ただの気まぐれではない。


アリアの深紅の瞳が

ゆっくりとリビングを見渡す。


その瞳は静かで、深く

どこまでも透き通っていた。


「もしかして、時也さんを探してるんですか?」


レイチェルが問いかけると

アリアの視線がぴたりと止まる。


無言のままレイチェルを見つめ

その深紅の瞳が静かに頷いた。


言葉よりも確かな意思が、その一瞬に伝わった。


「時也さんは、私の部屋で休まれてます!

あっ、あの……他意はなくて、その……ですね」


しどろもどろに弁解するレイチェルに

ソーレンが口の端で笑う。


「ぐっちゃぐちゃのお前を見て

ゲロったぐらいのヘタレだからな。

同じ部屋に入れられなかったんだよ」


「ちょっ……言い方っ!」


「あ?事実だろ」


レイチェルは頬を膨らませて睨み返す。

だが、心の奥では少しだけ安堵していた。


誤解されるよりは、この方がまだいい。


「……そうか」


不意に、澄んだ声が響いた。

アリアの声だった。


その瞬間、部屋の空気が変わり

レイチェルは思わず息を呑んだ。


その声は短く、それでいて驚くほど透明だった。


氷の奥を流れる水のように

静かで、儚く、美しい。


「……あ、あの!」


レイチェルは慌てて一歩踏み出す。


「大変だと思うので、肩を貸しますね!

一緒に行きましょう!」


そう言って、アリアの腕にそっと手を伸ばした──その瞬間。


「おい、馬鹿!アリアに触んなっ!!」


ソーレンの怒声が響く。

殆ど同時に、焼け爛れるような鈍い音がした。


ジュッ──


「──きゃっ!」


レイチェルの掌に、激しい痛みが走る。

皮膚が焼け爛れ、感覚が一瞬にして奪われる。


「い、痛っ……!」


痛みに驚き、思わず手を引くと

アリアの腕に軽くぶつかった。


そのわずかな衝撃のあと──

どちゃっ、と湿った音が落ちた。


視線を向けた先で、床に何かが転がる。

アリアの左腕の肘から下だった。


「……あ……あ……」


レイチェルの喉から言葉にならない声が零れた。

世界が一瞬、凍りついたように感じた。


震える指先が、空を掴むように震える。


「ごっ……ごめんな……さ……」


謝罪にならぬ声が滲む。


だがアリアは

自分の腕が落ちたことさえ気にも留めず

ただ、静かに立ち続けていた。


表情は、何も映していない。


まるで感情というものが

この世から失われたかのように──⋯


「……はぁ」


ソーレンが深く息を吐く。


その声音には

呆れと、それを覆い隠す優しさが滲んでいた。


「ほら、退いてな。俺が連れてく。

お前の部屋にいんだろ?」


レイチェルの肩に手を置く。


その手は、さっきまでとは違い

驚くほど柔らかかった。


「アリアの再生は、言わば〝不死鳥〟の再生だ。

燃えはしねぇが、熱はある

下手に触ると──こっちが溶けるぜ?」


そう言いながら、ソーレンは片手をかざした。


ふわりと空気が揺れ

アリアの身体が重力を失う。


彼女は抵抗もせず、宙に浮かんだまま静止した。


「おい、何ボーッとしてんだ?お前も来いよ」


ソーレンが背を向けたまま言う。


「救急箱が二階にあっから、手当てしてやる」


「……う、うん……」


レイチェルは痛む手を押さえながら

その背を追う。


階段を上がるたびに

掌の痛みがじわりと広がるようだった。


それでも、目を逸らせなかった。


宙に浮かぶアリアの背中──


その白く滑らかな肌は

再生の炎に焼かれ続けながらも

なお美しく、儚かった。


微かに立ち上る紅い湯気が

まるで炎の幻のように揺れる。


その光景は、痛々しくも神聖だった。


(どうして……こんな姿になってまで……)


レイチェルの胸が、きつく締めつけられる。

彼女は、ただ祈るように唇を噛みしめた。


先頭で、ソーレンの足音が重く響く。

誰も言葉を発さない。


──静寂の中

三人の影だけが階段を上がっていった。


炎の残り香と、焦げた皮膚の匂いを伴いながら。

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