第24話 桜の権化
─女みてぇな奴─
それが
アイツを初めて見た時の、俺の第一印象だった。
⸻
桜の幹からゆっくりと産まれ出たソイツを
俺は重力操作でふわりと持ち上げ
慎重に引き抜く。
そして、そのまま地面へと降ろした。
足が大地を踏みしめる。
それと同時に
ソイツは初めてこの世界を知るように
ぼんやりと辺りを見渡した後、俺の顔を見た。
「⋯⋯貴方は?
僕は⋯⋯いったい⋯⋯?」
まだ意識が朦朧としているのか
ソイツの鳶色の瞳は微かに揺らいでいた。
黒褐色の長い髪が、静かに風に靡く。
端正な顔立ち。
何処か儚げな雰囲気を纏うその姿。
俺は、じっとソイツを見下ろした。
(なんだ?こいつ⋯⋯女みてぇな顔しやがって)
俺は無意識に歯を食いしばる。
青龍に比べられ続けた相手が──これか?
なんだか、腹が立ってきた。
「はっ!⋯⋯よぉ、麗しいお嬢さん?」
俺は皮肉たっぷりに言った。
「生憎⋯⋯俺には、名が無くてなぁ」
青龍が、小さく息を呑む気配がした。
ソイツは、ぼんやりと俺を見ていた。
何処か、まだ夢の中にいるみたいな表情で。
すると、青龍がずっとこの日の為にと
繕っていた服を手に静かに足元に傅いた。
「⋯⋯時也様、お召し物を」
ソイツ⋯⋯青龍が〝時也〟と呼ぶ男は
青龍が差し出した服を見つめる。
そしてゆっくりと手を伸ばし、袖を通し始めた。
その動きは
身体の感覚を確かめるように慎重だった。
青龍の山吹色の瞳が──静かに俺を射抜く。
「貴様、少しは口を慎め」
と言いたげな視線だったが、俺は気にしねぇ。
服を整えながら
ソイツの瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた瞬間──⋯
─微笑みやがった─
まるで、全てを見透かすような微笑みに
僅かに肌が粟立つ。
「⋯⋯名がないのは、不便でしょう。
僕が、名付けても構いませんか?」
俺は、思わず言葉を失った。
〝名が無い〟なんて話──
普通なら嘘だと思うだろ?
皮肉だと思うだろう?
なのに⋯⋯こいつは。
まるで何の疑いも無く、さらっと言いやがった。
「⋯⋯⋯っ」
俺は思わず、無意識に一歩後退る。
─なんなんだ、こいつ─
〝名を持たない〟事が
ずっと当たり前だった俺にとって
コイツの言葉は──あまりにも異質だった。
そんな俺の様子を見た青龍が
静かに頭を下げた。
「時也様。この者の無礼をお許しください」
俺は、はっとして──その男を見た。
時也は穏やかな顔のまま
青龍の言葉に耳を傾けている。
「この者は⋯⋯
魔女の異能を持っておりましたので
この青龍が拾いました」
そう言いながら、青龍は俺をじっと見据えた。
まるで──〝覚悟を決めろ〟と言うように。
「どうか、お名付けください」
俺の名を⋯⋯こいつが?
そんな事、考えた事もなかった。
⋯⋯なのに。
時也は服の襟を整えながら
まだ朧気な顔のまま、考えるように黙っていた。
しかし、漸く頭が冴えてきたのだろうか?
時也の顔に、ハッとした表情が浮かんだ。
「⋯⋯アリアさんっ!」
その声は、切実な響きを持っていた。
「彼女は──どこに!?」
その言葉が発せられた瞬間
俺は、見てしまった。
青龍の顔に
初めて見る〝憂い〟が浮かんだのを⋯⋯。
「アリア様⋯⋯
奥方様は、ずっと其処で──
貴方様をお待ちしておりました」
青龍が視線を向けた方へ
時也もまた、ゆっくりと顔を上げる。
その鳶色の瞳が、微かに揺れた。
俺には
その目の中の感情が何なのかは分からねぇ。
ただ、確かに揺れ動いていた。
それは──
笑うようであり、泣きそうでもあり⋯⋯
何かを押し殺すような
それでいて堪えきれないような
そんな目だった。
時也は
まだ生まれたての小鹿のような足取りで進むと
桜の幹の根元、アリアの結晶に縋りついた。
「アリアさん⋯⋯っ!
あぁ、なんて事⋯⋯
こんな⋯⋯こんな、お姿に⋯⋯っ!」
─僕の所為だ⋯⋯っ!─
その声は
張り裂ける程の悲痛な響きを孕んでいた。
細い指が、結晶の表面をなぞる。
其処に閉じ込められた彼女を
震える手で、どうにか掴もうとするかのように。
届かないと分かっていながら、それでも⋯⋯
時也は
大粒の涙を隠す事もなく、嗚咽混じりに叫んだ。
それは──
〝悲しみが産まれた産声〟のように聞こえたよ。
俺は、それをただじっと見ていた。
⋯⋯俺は、愛なんてものは知らねぇ。
だからこそ、その姿が
どうしようもなく情けなく見えたんだ。
俺は、どれだけ泣いたって喚いたって⋯⋯
差し伸べられる手も、温かな声も
〝野良犬〟の俺には、一度も無かったからな。
「⋯⋯あーあー。見てらんねぇな?」
俺は、冷めた声で呟いた。
拳を握り締めながら
それでも何処か、苛立ちを隠せないまま。
「女みてぇに、びーびー泣きやがってよぉ。
泣いて、変わる事でもあるのかよ?」
俺の言葉が響いた瞬間──
時也の震えていた背中が、ピタリと止まった。
ゆっくりと、俺の方へ振り返る。
(⋯⋯さすがにキレたか?)
一瞬、身構えた。
だが──違った。
俺の目に映った鳶色の瞳に
怒りの色は、無かった。
時也は、ぐしゃぐしゃの涙と鼻水塗れの顔で
俺を暫くの間、言葉も発さずにじっと見つめる。
(何だ、コイツ。
俺を見ながら⋯⋯別の何かを、見てるような?)
やっと視線を外したかと思えば
そのまま静かに、また大粒の涙を流した。
「⋯⋯えぇ。
貴方の⋯⋯仰る通りですね」
涙に濡れたままの声で、時也は言った。
「お見苦しい所をお見せして⋯⋯すみません」
そう言って、時也は地面に膝をついた。
そして──
指を丁寧に並べ、深々と頭を下げた。
俺は、一瞬
何が起こっているのか分からなかった。
⋯⋯何故だ?
普通、此処で謝るか?
俺は、こいつを侮辱したんだぞ?
それなのに
こいつは⋯⋯何で俺に、頭を下げる?
俺は混乱したまま、時也の姿を見下ろした。
やがて、ゆっくりと顔を上げた時也は
寂しそうに、微笑んでいた。
「貴方はもう⋯⋯〝野良犬〟ではありません」
俺は、息を呑んだ。
(今⋯⋯野良犬っつったか?
何で⋯⋯知って⋯⋯っ)
そして、次の言葉が俺の耳に届く──
「先ず、貴方に名を授けましょう 」




