第22話 痛みの記憶と生命の音
結晶に指が触れた瞬間だった。
何かが──俺の中で弾けた。
意識が、一瞬白く染まる。
まるで水の中に沈むような感覚。
自分の身体が何処にあるのかすら
わからなくなる程に⋯⋯
何かに引き込まれる。
気が付いた時には、俺の足が勝手に動いていた。
それどころか、知らぬ間に──
跪いていた。
「⋯⋯貴女様に、非は無いと⋯⋯
私は、存じています⋯⋯」
──は?
誰の声だ?
俺は、声の主を探そうとして
自分の口が動いている事に気付いた。
「⋯⋯お慕いして⋯⋯おります⋯⋯」
俺の声だ。
けど、これは──〝俺の言葉〟じゃない。
こんな上品な言葉なんざ
一度も使った事はねぇ。
それなのに、喉から勝手に流れ出てくる。
まるで
誰かが俺の口を借りて喋っているみたいに⋯⋯。
何が起きている?
頭が混乱する。
だけど、身体は動かねぇ。
跪いたまま
俺は金色の髪を揺らす彼女を見上げていた。
その時だった。
「貴様⋯⋯賊、か?」
不意に、背後から声がした。
俺は反射的に振り返る。
そこに立っていたのは
俺よりも遥かに小さい、包帯塗れのガキだった。
包帯から覗く肌は
ぐじぐじに腐っているようにも見えた。
銀髪。
山吹色の瞳。
そして──鋭い眼光で、俺を睨みつけている。
「⋯⋯ガキ?」
思わず呟いた瞬間、そいつの目が鋭く光った。
「小童⋯⋯
此処は貴様の来るような場所では無い。
去ねっ!」
低く響く、威圧のこもった声。
その一言が、空気を一変させた。
俺は思わず笑う。
「はっ!
俺より小さなガキに小童呼ばわりされたのは⋯⋯
生まれて初めてだなぁ!?」
そいつの身長は
俺の胸にも届かないくらいだった。
見た目だけで言えば──単なる子供。
それなのに⋯⋯
何故か、背筋に冷や汗が流れる。
俺の本能が言っていた。
─手加減するな、全力でやれ─
俺のこれまでの直感が
こいつの危険性を即座に察知した。
だけど、その時にはもう──
俺の身体は転がされていた。
何が起きたのかすら、わからなかった。
気付いた時には、地面に叩きつけられ
全身がビリビリと痛みに痺れていた。
「────っ!?」
空を見上げる。
視界の端に、桜の花弁が舞っているのが見えた。
⋯⋯負けた?
俺が?
しかも──ほんの、一瞬で?
まるで信じられなかった。
だが、それが〝現実〟だった。
痛む身体を引き摺りながら
ゆっくりと視線を戻す。
山吹色の瞳が、じっと俺を見下ろしていた。
その目はまるで俺を〝試している〟ようだった。
手加減されている。
それが、はっきりとわかった。
つまり⋯⋯
こいつは、本気じゃない。
俺は全力を出す暇も無いのに、地に伏せている。
「⋯⋯は、はは⋯⋯っ」
苦笑が漏れる。
─なんだよ、これ─
俺は今まで
銃を持った大人にすら、負けた事がなかった。
どんな相手にも
重力の力を使えば
負ける事なんて有り得なかった。
なのに、こいつには⋯⋯何もできなかった。
俺の誇りは、あっさりと叩き折られた。
⸻
その時だった。
再び、頭の中で何かが弾けた。
激しい頭痛が襲う。
何かが──いや
〝誰か〟が爆発するように、俺の中を暴れ回る。
「ぐっ⋯⋯あ、ぁ⋯⋯っ!?」
目の前が、めちゃくちゃに歪む。
知らない光景が、一気に流れ込んできた。
知らない、場所。
知らない、奴ら。
そして──〝あの女の笑顔〟
紅蓮の炎。
焼ける痛み。
響き渡る悲鳴。
——何だ?
何を見せられてる?
俺は、ただの野良犬だった。
俺の人生に、こんな記憶はねぇはずだ。
なのに、俺の頭の中には
まるで〝忘れていた何か〟が、押し寄せてくる。
「っ⋯⋯、ぁ⋯⋯
あああああああああああああああ!!!!」
咆哮のような叫びが、喉の奥から迸る。
わからねぇ。
何も⋯⋯わからねぇ。
ただ、焼け爛れるような痛みの中で
俺は──〝理解した〟んだ。
唐突に。
理由もなく。
ただ、確信だけが其処にあった。
俺は転がったまま
空を見上げたまま──
呟いた。
「⋯⋯なぁ、そこのガキ」
視線を動かす。
山吹色の瞳が、変わらず俺を見下ろしていた。
俺は⋯⋯なんだ?
何者なんだ?
いや、そんな事はどうでもいい。
今、重要なのは〝それ〟じゃねぇ。
俺が、俺自身が
この気持ちをどう処理すればいいのか
それが⋯⋯わからなかった。
だから、ただ一つ聞いた。
「俺は⋯⋯彼女の為に──どうしたら、良い?」
声が震えていた。
そして、その時になって漸く気付いた。
俺は⋯⋯
物心ついて初めて──
涙を流して泣いていたんだ。
「アリア様を御守りし
我が主に尽くせば良かろう」
俺を覗き込む山吹色の瞳が、僅かに細められる。
「私は青龍──主様の、式神だ」
俺の目の前で、ガキ──いや
青龍は静かに言った。
まだ身体の痛みが抜けきらないまま
寝転がった状態で青龍を見上げた。
小さい身体。
全身に巻かれた包帯。
それなのに
その小さな身体の
何処から湧き出るのかと思う程の──
圧倒的な威厳。
こいつは、人間じゃねぇ。
それは、直感的にわかった。
「アリア様って、その女の事か?
主は⋯⋯桜?
はっ!お前、キノコか何かかよ?」
俺が冗談めかして言うと
青龍の山吹色の瞳がさらに細められた。
「⋯⋯口の減らぬ小童め。
やれやれ⋯⋯
主様が起きるまで
先ずは貴様の口の利き方を躾ねばなるまいな」
青龍はそう言いながら
静かに桜の方へ視線を向けた。
⸻
それからの数年間──⋯
俺は森の中で、青龍に鍛えられる事になった。
⋯⋯いや
鍛えられたって言葉じゃ生温い。
アイツは
〝地獄〟のような日々を
俺に叩き込んできやがった。
「我が主様は⋯⋯
お前ぐらいの頃には朝廷に居られる帝に仕え
陰陽頭にまで成っていたぞ!
さぁ、立て!」
チョウテイ?
ミカド?
そんな言葉、知らねぇよ。
事ある毎に〝我が主様〟とやらと比べられる。
そして俺が少しでも反抗すると
礼節がなっていないだの
言葉遣いを正せだの──
延々と説教を垂れられた。
その度に
「知るかよ、そんなもん!」
と反抗したが⋯⋯
本気でぶつかれば
俺は何度でも地面に叩き伏せられた。
俺は、青龍には勝てなかった。
最初の頃なんか
手加減されてても、まるで相手にならなかった。
でも、その分──俺は自分の弱さを実感した。
それが、俺を変えた。
〝強くなりたい〟と、初めて心の底から思った。
だから、俺は必死に喰らい付いた。
どれだけ倒されても、何度でも立ち上がった。
青龍は⋯⋯全く容赦がねぇ。
だけど、何処か俺を⋯⋯
〝見込んで〟いるような気もしていた。
⸻
修練が終わると
俺は息を切らしながら、地面に倒れ込んでいた。
腹は減るし、体はボロボロ。
そんな俺を見下ろした青龍は
溜息を吐くと、何も言わずに森へ消えていった。
暫くすると
奴は川で捕った魚や
森で仕留めた獣の肉を手に戻ってくる。
そいつを捌いて手際よく飯を作るのが
いつもの流れだった。
焚き火の上で焼かれた
肉の香ばしい匂いが漂う。
白い煙が、夜空へと溶けていく。
俺は夢中で飯を頬張りながら、ふと気づいた。
青龍は焚き火の前で、桜の幹に身を預けていた。
いつものように頭を寄せるようにして
まるで、何かの音を聴くように。
俺は口をもぐもぐと動かしながら
ぽつりと呟いた。
「お前さ⋯⋯いっつも何を聴いてんだよ?」
青龍はゆっくりと目を開いただけで
俺の問いに答えなかった。
だが、その様子に興味を持った俺は
桜の幹に手を当て、耳を押し付けてみた。
その瞬間──俺は息を呑んだ。
桜から、微かに響いてくる音があった。
人間や動物の心臓の音にそっくりな
確かな〝鼓動〟が。
「⋯⋯これ⋯⋯」
言葉が出なかった。
桜が⋯⋯生きてる?
いや、違う。
生きてるのは当然だ。
けど、これは〝植物の出す音〟なんかじゃねぇ。
まるで──
人間の心臓が、そこにあるかのような
確かな〝生命の音〟
「主様は⋯⋯生きておられる」
青龍が、静かに言った。
「この身が滅びぬのが、その証⋯⋯」
焚き火の光に照らされた銀髪が、僅かに揺れる。
青龍の横顔は、何処か寂しそうに見えた。
「私は、待っているんだ。
主様に、再び相見えるその日を」
その声には、何百年もの想いが滲んでいた。
俺は、それをただ聞いていた。
そして、何を思ったのか無意識に手を伸ばし
青龍の頭をポンポンと撫でた。
「──!?こら、貴様っ!何をするか!」
青龍の眉間に皺が寄る。
けれど俺は気にせず、ニヤリと笑った。
「早く、逢えると良いな。
主様にも、アリアにも」
「アリア様とお呼びしろ!
この小童が!」
「はいはい」
俺はさらに小さく感じるようになった青龍の頭を
軽くわしゃわしゃと撫でた。
その小さな身体の中に
どれだけの〝想い〟が詰まっているのか
この頃の俺には、まだ知る由もなかった。
「⋯⋯背丈ばっかり伸びおって」
そう呟いた青龍の声が
どこか拗ねたように聞こえた。




