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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
重力を司りし者

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第19話 ソーレンという男

シャツの胸ポケットから

無造作に煙草を一本取り出すと

ソーレンは手慣れた動きでライターを取り出す。


カチリと乾いた音が煙草の先に橙を灯し

紫煙をゆっくりと唇から吐き出しながら

琥珀色の切れ長な目を細め

遠くを見るように視線を漂わせた。


レイチェルは隣で黙って

細く煙を吐く横顔を見つめた。



ガキの頃の記憶なんて、曖昧だ。


けど、一つだけ

はっきりと覚えてる事がある。


俺には母親がいなかった。


死んだのか、捨てられたのか──

それすら知らねぇ。


ただ、家にはいつも、知らねぇ女がいた。


入れ替わり立ち替わり

酒と香水のきつい匂いを纏った女達。


中には肌を露出したままソファに転がって

息も絶え絶えの奴もいた。


「ママって呼んでいいのよ?」


そう言った女の顔は思い出せない。


けど──

微かに焼けた煙草と

鼻を突く薬品の甘ったるい匂いだけが

記憶の底にこびりついてる。


親父が何で俺を傍に置いてたのかは

わからねぇ。


母親の忘れ形見だからか

売り飛ばすつもりだったのか

それとも──ただの気まぐれか⋯⋯


今となっちゃ、どうでもいい話だ。


結局、俺は⋯⋯親父にとって

都合のいい

〝サンドバッグ〟でしかなかったんだから。


意味もなく浴びせられる罵声。

唐突に飛んでくる拳。


腹を蹴り上げられ

床に転がる俺を見下ろす親父の顔は

いつも愉しそうだった。


その度に、頭の何処かで思ってた。


─俺はなんで⋯⋯生きてんだ?─


生きていたって、意味なんかねぇのに。


そんな日々が続いたある日

俺はやっちまった。


空腹に耐えかねて

パンを切り分ける前に

先にひと齧りしてしまった。


たったそれだけの事で

親父の顔が醜く歪んだ。


怒鳴るより早く

親父の手には(なた)が握られていた。


「てめぇ⋯⋯っ!」


視界が揺れる。


刃がギラリと鈍く光り

俺の頭上で振り上げられる。


⋯⋯ああ、終わるんだな。


10歳ぐらいだったか?


俺の人生はこんなもんなんだって

何処かで諦めてた。


でも、同時に

心の奥底で何かが引っ掛かっていた。


─此処で終わっていいのか?─

─俺は本当に⋯⋯死にたいのか?─


──違う。


生きたい。

生きて、何かを掴みたかった。


このまま終わるなんて、冗談じゃねぇ。


その瞬間──何かが弾けた。


何をどうすればいいのか

何ができるのか

頭で考えるより早く理解していた。


まるで、生まれた時から

この力の使い方を知っていたかのように。


重力が──捻れた。


親父の身体が

鉈ごと床に引き摺られるように落ちた。


「⋯⋯っ、あァ?」


親父の顔が苦痛に歪む。


そのデケェ身体が

あり得ねぇ程の力で押し潰されていた。


「なん、だ⋯⋯っ!?」


親父は

何が起きているのか理解できねぇまま藻掻いた。


でも──もう遅ぇ⋯⋯。


次の瞬間

〝何か〟が、弾けるような音がした。


豚みてぇな声だったよ。


ズブズブと骨が砕ける音。


皮膚が裂け、肉が潰れ

血がじわじわと噴き出して染み出ていく感覚。


床に沈み込むように

親父の身体はどんどん足元で圧縮されていった。


骨が軋む音が耳に残る。


次第に声も出せなくなり

親父の姿はぺちゃんこに潰れ

床にべったりと広がる赤黒い染みになった。


鉈だけが

転がるように床に落ちた。


──ああ。スカッとした。

これが〝解放〟ってやつなんだな。


俺は、息をつく。

胸が妙に軽い。


親父が消えた家の中は、静寂に包まれていた。

外の喧騒が、まるで別世界みてぇだった。


俺はゆっくりと立ち上がり

潰れた血の海を跨ぐ。


もう、殴られることも──

蹴られることもねぇ。


俺は⋯⋯自由だ。


初めて手にした〝力〟が

俺に生きる理由を与えた。


この夜、俺は全てを捨て

ただ一人、暗い街を歩き始めた。


親父を潰してから、俺は街を彷徨った。

行く当てなんざ、最初からねぇ。


寒かろうが

腹が減ろうが

泣き言を言う相手すらいない。


ただ、身体が動く限り──何処までも歩いた。


けどな

何処に行こうが

俺に向けられる目は、同じだった。


親父もそうだったが

街にいる奴らも誰もかれもが

俺を蔑む目で見てやがった。


小汚いガキが一人でうろついてりゃ

当然かもしれねぇ。


ボロボロの服

傷だらけの手足

泥と血に塗れた顔


まるで──〝野良犬〟だ。


いや、違うな。


野良犬ですら

まだ〝可哀想〟とか言って餌を投げる奴もいる。


でも、俺には

そんなものすらなかった。


目が合った瞬間、眉を顰めて道を避ける。

店先で物を漁ってりゃ、石を投げられる。


言葉を掛けてくるのは

酔っ払いか

同じように汚ねぇガキばかりだ。


それでも

生きなきゃならなかった。


名前なんざ

親父が居た頃から呼ばれた事もなかった。


「おい」

「てめぇ」

「クソガキ」


それが、俺に向けられる全てだった。


だから俺は、自分の名前すら知らなかった。


そもそも、そんなもん

必要とも思わなかった。


だって、目の前にいる奴らは

皆──〝敵〟でしかなかったからな。


生きるために、何でも盗んだ。

腹が減ったら、パンを掠め取った。

そしたら、今度は誰かに盗られた。


何度も何度も繰り返すうちに

自然と身体が動くようになった。


奪われたくなかったら、奪え。

殺されたくなかったら、殺せ。


それが

俺がこの街で生き残る唯一の手段だった。


俺は本当に

ただの汚ねぇ野良犬だったんだ。


何歳だったかなんて、数えてる暇もなかったな。


そんな日々が、いつまで続いたか。

変わらねぇ日々の中で、ある時⋯⋯


街に異変が起きた。


見慣れない奴らが、静かに紛れ込んできたんだ。


最初は気付かなかった。


でも、何日か経つうちに

〝違和感〟が募っていった。


コイツらは──何か、違う。


─街に馴染みすぎている─


新しく来たはずの連中が

まるで〝最初からこの街にいた〟

かのように振る舞う。


いつの間にか市場に顔を出し

いつの間にか酒場に入り込み

何の疑いも持たれずに人々と話している。


商売人か?──いや、違う。

ただの旅人か?──それも違う。


こいつらは⋯⋯〝武装集団〟だ。

武器を持って歩いてる訳じゃねぇ。


でも俺は、本能で理解していた。


コイツらは何かを〝狩る〟為に

此処にやって来たんだってな。


目つき、仕草、立ち振る舞い

そして何より──


〝匂い〟が、違う。


獲物を探す、狼の群れのような雰囲気。


表向きは穏やかに見えても

常に周囲を警戒し

目で測り耳を澄ませている。


街のゴミ溜めで生きてる

俺みてぇなもんには一発でわかった。


─追ってる獲物が、この街にいる─

ってな。


俺は興味を持った。


コイツらの目的は何なのか。

何を狩ろうとしているのか。


俺みたいなクソガキが

どうこうできる話じゃねぇが⋯⋯


本能が告げていた。


この連中に関わるのは

〝何か〟を変える切っ掛けになる──ってな。


だから俺はそいつらを

遠くから観察し始めた。

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