第18話 特製コーヒー
厨房の奥では、レイチェルが一人
黙々と仕込みに向き合っていた。
磨き上げられた作業台の上に
丁寧に並べられた保存容器や計量器具。
誰にも話しかけられることのないこの時間が
逆に彼女の集中を研ぎ澄ませる。
目をやれば
棚の端には何枚もの付箋が貼られていた。
字は整っており、小さな注意書きや数値が
綿密に、けれど読みやすく記されている。
「鶏胸肉:ひと袋50gずつに小分けし、冷凍」
「じゃが芋:
皮付きのまま茹で、粗熱を取って冷蔵」
「カスタード:翌日用
牛乳400ml/卵黄3個/上白糖70g/薄力粉30g
/バニラビーンズ少量(焦げに要注意)」
どれも、時也の字だ。
几帳面な性格がよく表れていた。
メモを目で追うだけで
今どれだけ仕込みが済んでいて
何をしておくべきかが一目瞭然だった。
(……すごい。これなら、誰が見ても分かる)
頭の中で工程を組み立てながら
レイチェルは淡々と作業を進める。
まるで、静謐な調べの中で踊るように──
刃物の音、鍋の湯気
そして計量器の針が合う音が
彼女の小さなリズムとなっていた。
ホールの方からは、まだ微かな物音が聞こえる。
(⋯⋯まだ、ソーレンさんが
掃除中なのかな⋯⋯)
そう思いながらも、彼女の手は止まらない。
指先は軽やかに動き
包丁の刃が滑らかに食材を断つ音が
夜の静けさに柔らかく溶けていった。
──その時だった。
ドタドタドタ⋯⋯と
階段を駆け下りる軽快な足音が響いた。
続いて、厨房の扉が勢いよく開かれる。
「よお!手伝うことはあるか?」
勢いと共に現れたのは、ソーレンだった。
つい先程まで特設席を掃除していたはずの彼は
レイチェルを気遣ってか
既に着替えを済ませていた。
白地のシャツの袖を捲り
額にはほんのり汗が残っている。
「もう直ぐ終わるわ!」
レイチェルがそう返すと
彼は一瞬思案するように目を細めた。
「じゃあ、一緒に休憩でもするか?
俺の特製コーヒー入れてやるから
終わったらリビングに来な!」
気の抜けたような笑みと共に
ひらりと手を振って
彼はリビングへと姿を消していった。
レイチェルは
仕込みの最後の仕上げに取り掛かる。
指先が、自然とリズミカルに動く。
(⋯⋯ふふ。特製コーヒーか⋯⋯)
彼の不器用な優しさが、じんわりと胸に滲んだ。
ぶっきらぼうなその言葉が、今はどうしてか
柔らかく響いていた。
やがて作業を終え、手を洗い
厨房の明かりを一つ落とす。
レイチェルがリビングへと向かうと
そこにはソーレンがソファに深く腰掛けていた。
一息ついたような表情で
彼は既にコーヒーカップを片手に
脚を組んで寛いでいる。
「お疲れさん!疲れたろ?」
朗らかな声が
どこか照れ隠しのように彼女を迎えた。
リビングの片隅にあった椅子──
そこに縛られていたはずの転生者の男の姿は
既に無かった。
(⋯⋯どこかの部屋に、寝かされてるのかな?)
そのまま視線を戻すと
ソーレンは占領していた長い脚を僅かにずらし
空いたスペースを示すように
片手でソファを叩いた。
その手には
もう一つのコーヒーカップが握られていた。
「ありがとう」
そう言ってカップを受け取り
彼女はソファに腰掛ける。
湯気の立つそのカップにそっと口をつけると
ふわりと酸味の立った香りが鼻先を擽る。
一口、啜る。
時也の淹れるコーヒーに比べれば
酸味はやや鋭く、苦味も強めで──
決して洗練された味とは言えなかった。
けれど、不思議と心が落ち着く。
焚き火の前で、温もりを手にするような
どこか安心感のある味だった。
「どうだよ?やってけそうか?」
ソーレンが何気なく口を開く。
「⋯⋯あはは。いろいろ驚きの連続だけど⋯⋯
なんとか大丈夫そうです」
苦笑しながらも
その言葉には確かな実感が込められていた。
ソーレンは「だろうな」と呟いて、肩を竦める。
「転生者には
なりたくてなったんじゃねぇが⋯⋯
厄介だよな、いろいろとよ」
ぼそりと吐き出されたその言葉は
コーヒーの味と同じく、どこか苦かった。
「⋯⋯運命の重みって、意味でな?」
レイチェルは、黙って頷いた。
否応なく背負わされた過去と力。
それが人を傷つけ、自分を蝕むことがあると──
誰よりも彼女は知っていた。
「ねぇ?もし良かったら⋯⋯
ソーレンさんの昔のことを教えてくれない?」
思い切って口にしたその問いに
ソーレンはカップを唇に運んだまま
少しの間沈黙する。
その指が、無意識にカップの縁をなぞっていた。
「⋯⋯俺の話なんざ
あんま、おもしれぇもんじゃないがな」
「それでも、聞きたいの。
此処にいる皆のこと、理解したいから!」
レイチェルの真っ直ぐな眼差しに
ソーレンは小さく舌打ちするように息を漏らし
頭を掻いた。
「⋯⋯ったく⋯⋯しゃーねぇな。
胸糞悪くしても⋯⋯責任取らねぇぜ?」
そう言ってカップをテーブルに置くと
彼の視線はどこか遠くを見つめていた。
まるで、過去の自分に向き合うかのように
やがて──ぽつり、ぽつりと語り始める。
重ねてきた日々の、痛みの痕跡を辿るように。
言葉のひとつひとつが、夜の静寂に
滲むように溶けていった。




