表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
因果の導き

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/43

第17話 水も滴る兄弟喧嘩?

(確か、時也さんの部屋は──

私が居た部屋から右に二つ目⋯⋯)


レイチェルは

意識が朦朧とする時也の体を支えながら

廊下をゆっくりと進んでいた。


陽差しがすっかり翳った室内。


壁に取り付けられた小さなランプの光だけが

彼女の足元を照らしていた。


そして辿り着いた、夫婦の自室。


──だが、そこには、まるで悪戯のような

それでいて深刻な意味を孕んだ張り紙が

ドアの前にぶら下がっていた。


『ヘタレはまだ入るな』


雑に破いたコピー用紙。


油性マジックで殴り書かれた文字は

荒れていて読みづらく

紙はテープもまともに貼られず

斜めにぶらぶらと揺れている。


ソーレンの字だと、すぐに分かった。


あまりにも彼らしい、ぶっきらぼうな忠告。


「……⋯⋯」


レイチェルは思わず唇を噛んだ。


(きっと、アリアさんは⋯⋯

まだ、あの惨たらしい姿のままで

回復を待っているのかもしれない)


扉の向こうにいるアリアを思うと

喉が詰まるような感覚が込み上げてくる。


時也は、瞼を閉じたまま

微かに唇を震わせていた。


「⋯⋯⋯アリアさん」


まるで熱に浮かされたような掠れ声が

彼の口から零れた。


その一言に

レイチェルの胸がきゅっと締めつけられる。


(……この人は、こんなにも辛いのに。

それでもアリアさんのことばかり)


恋しさが、血のように滲んでいた。


誰よりも傷ついて、誰よりも痛みを負って

それでも──あの人の名を呼ぶ。


それが、余計に胸を打った。


この場に立ち尽くしている時間は

彼の疲労をさらに悪化させるだけだった。


だが──


(どの部屋を使えばいいのか、分からない……)


昨日来たばかりのレイチェルには

他の空き部屋の状況など分かるはずもない。


ふらつく時也の体を支えながら、逡巡して──

レイチェルは、静かに決断した。


(だったら……)


「行きましょう、時也さん」


小さく声をかけ、自分の部屋へと導く。


そこはまだ荷物も少なく

簡素なベッドとランプしかない。


だが今は、それで十分だった。


レイチェルは

時也の体をそっとベッドへと横たえた。


その裾と乱れた着物を、優しく整える。


「⋯⋯アリア⋯さん⋯⋯」


再び同じ言葉が漏れる。


彼の顔は蒼白で、冷や汗に濡れ

呼吸は浅く掠れていた。


時折、無意識に眉を寄せ

譫言(うわごと)のように彼女の名を呼ぶ。


「……早く、アリアさんに逢いたいですね……」


レイチェルは、祈るように呟きながら

毛布をそっと肩までかけた。


しばらく彼の寝息が安定するのを確認し

部屋の扉を静かに閉じた。


──階下に戻ると、異音が耳を打つ。


「おい!ジッとしてろっての!」


不機嫌な声。


(ソーレンさん……?)


リビングの扉を開けると

案の定の光景が目に飛び込んできた。


ソーレンが

まるで濡れた犬を拭くような勢いで

青龍の身体を雑にタオルで拭いていた。


幼子の姿をした青龍は

全身を縮こまらせながら身を捩り

必死に抵抗している。


「い、痛い!止めんか!

私は貴様の手など借りずとも身体を拭けるっ!」


「濡れたまんま時也んとこに行くだろ、お前! 床が水滴で汚れんだよ!!」


そのやり取りはまるで

手のかかる弟と、それを叱る兄の

喧嘩のようだった。


レイチェルは、そのやり取りに

ふっと肩の力が抜けるのを感じた。


──だが、その一歩隣の空間で

また別の現実が待っていた。


リビングの片隅。


転生者の男が、椅子に縛られていた。

意識はないようで、ぐったりと頭を垂れている。


洗い清められたばかりなのだろう。


髪は濡れており

衣服は明らかに着せられたもので

シャツのボタンも掛け違えてチグハグ。


皮膚に擦り傷や青あざが見えるが

それでもあの凄惨な姿で入ってきた時よりは

ずっと人間らしい姿に戻っていた。


(……私の時は

きっと青龍が身体を拭いてくれたんだ)


ふと、あの時を思い出す。


目覚めた時、すぐ側にいてくれたのは──

青龍だった。


それを思うと、目の前の小さな背中に

不思議と感謝の念が込み上げてくる。


「ヘタレの世話を任せちまって

すまなかったな」


その時、低く投げられた声に

レイチェルは顔を上げた。


ソーレンが、まだ青龍の身体を拭きながら

ちらと、こちらに視線を向けていた。


「……いえ、そんな」


思わず、レイチェルの顔に苦笑が浮かんだ。


すると、すぐさま青龍の声が

跳ね返るように響いた。


「申し訳ありません、レイチェル様!

直ぐに私が時也様の所へ参りますので……っ!」


青龍は立ち上がろうとしたが──


「おめぇは、先ずは身体を乾かしてからだ!」


ソーレンが無造作に

彼の小さな頭を押さえつけた。


「なっ、貴様……!」


青龍はキッと睨みつける。

だが、ソーレンは意に介さず。


「さっきも言ったろうが!

濡れたまんま歩かれちゃ

また俺の仕事が増えんだよ!」


「貴様はつくづく無礼な男だな!

雑に私を拭くな!皮膚が剥がれるだろう!」


「お前の皮膚はもう充分剥がれてるだろ」


「なんだとっ!?」


二人のやり取りに、レイチェルは思わず

吹き出してしまいそうになった。


(まるで、本物の兄と弟みたい……)


世話焼きの不器用なお兄ちゃんと

負けん気の強い弟。


それは、ここ喫茶桜の常連でも見られない

裏側だけの微笑ましい風景だった。


「私、厨房で仕込みの続きをしてきますね!」


レイチェルが声を掛け

リビングを出ようとしたその時──


「おい!」


ぶっきらぼうな声が背中を叩いた。


振り返ると、ソーレンが眉を寄せながら言った。


「アリアの席には行くなよ?

まだ掃除終わってねぇんだ」


その一言に、レイチェルは目を見開き──

やがて、小さく頷いた。


「……分かりましたっ」


(根っこは、優しいんだな……)


その言い方は不器用で、雑だった。


けれど、その言葉には確かに

〝気遣い〟が滲んでいた。


「じゃあ、時也さんが汚してしまった方は

私が掃除しておきますね」


「……おう。サンキューな!助かるよ」


ソーレンの言葉は

ぶっきらぼうなままだったが──

その響きには、どこか優しさがあった。


「……っ」


レイチェルの胸がぎゅっと締めつけられる。


─ありがとう─


たった一言。


けれど、それが今の彼女にとって

どれほど沁みる言葉だったか。


孤独だった。

誰にも頼れなかった。

信じても異能に裏切られ、彷徨い続けた日々。


それでも──

今は、ここにいる。


誰かと肩を並べ、誰かの役に立っている。


そして、誰かの〝ありがとう〟を

受け取ることができる。


(……まるで、家族ができたみたい)


温かさが、胸の奥にじんわりと広がっていく。

それは、涙よりも、優しい感情だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ