第17話 水も滴る兄弟喧嘩?
(確か、時也さんの部屋は──
私が居た部屋から右に二つ目⋯⋯)
レイチェルは
意識が朦朧とする時也の体を支えながら
廊下をゆっくりと進んでいた。
陽差しがすっかり翳った室内。
壁に取り付けられた小さなランプの光だけが
彼女の足元を照らしていた。
そして辿り着いた、夫婦の自室。
──だが、そこには、まるで悪戯のような
それでいて深刻な意味を孕んだ張り紙が
ドアの前にぶら下がっていた。
『ヘタレはまだ入るな』
雑に破いたコピー用紙。
油性マジックで殴り書かれた文字は
荒れていて読みづらく
紙はテープもまともに貼られず
斜めにぶらぶらと揺れている。
ソーレンの字だと、すぐに分かった。
あまりにも彼らしい、ぶっきらぼうな忠告。
「……⋯⋯」
レイチェルは思わず唇を噛んだ。
(きっと、アリアさんは⋯⋯
まだ、あの惨たらしい姿のままで
回復を待っているのかもしれない)
扉の向こうにいるアリアを思うと
喉が詰まるような感覚が込み上げてくる。
時也は、瞼を閉じたまま
微かに唇を震わせていた。
「⋯⋯⋯アリアさん」
まるで熱に浮かされたような掠れ声が
彼の口から零れた。
その一言に
レイチェルの胸がきゅっと締めつけられる。
(……この人は、こんなにも辛いのに。
それでもアリアさんのことばかり)
恋しさが、血のように滲んでいた。
誰よりも傷ついて、誰よりも痛みを負って
それでも──あの人の名を呼ぶ。
それが、余計に胸を打った。
この場に立ち尽くしている時間は
彼の疲労をさらに悪化させるだけだった。
だが──
(どの部屋を使えばいいのか、分からない……)
昨日来たばかりのレイチェルには
他の空き部屋の状況など分かるはずもない。
ふらつく時也の体を支えながら、逡巡して──
レイチェルは、静かに決断した。
(だったら……)
「行きましょう、時也さん」
小さく声をかけ、自分の部屋へと導く。
そこはまだ荷物も少なく
簡素なベッドとランプしかない。
だが今は、それで十分だった。
レイチェルは
時也の体をそっとベッドへと横たえた。
その裾と乱れた着物を、優しく整える。
「⋯⋯アリア⋯さん⋯⋯」
再び同じ言葉が漏れる。
彼の顔は蒼白で、冷や汗に濡れ
呼吸は浅く掠れていた。
時折、無意識に眉を寄せ
譫言のように彼女の名を呼ぶ。
「……早く、アリアさんに逢いたいですね……」
レイチェルは、祈るように呟きながら
毛布をそっと肩までかけた。
しばらく彼の寝息が安定するのを確認し
部屋の扉を静かに閉じた。
──階下に戻ると、異音が耳を打つ。
「おい!ジッとしてろっての!」
不機嫌な声。
(ソーレンさん……?)
リビングの扉を開けると
案の定の光景が目に飛び込んできた。
ソーレンが
まるで濡れた犬を拭くような勢いで
青龍の身体を雑にタオルで拭いていた。
幼子の姿をした青龍は
全身を縮こまらせながら身を捩り
必死に抵抗している。
「い、痛い!止めんか!
私は貴様の手など借りずとも身体を拭けるっ!」
「濡れたまんま時也んとこに行くだろ、お前! 床が水滴で汚れんだよ!!」
そのやり取りはまるで
手のかかる弟と、それを叱る兄の
喧嘩のようだった。
レイチェルは、そのやり取りに
ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
──だが、その一歩隣の空間で
また別の現実が待っていた。
リビングの片隅。
転生者の男が、椅子に縛られていた。
意識はないようで、ぐったりと頭を垂れている。
洗い清められたばかりなのだろう。
髪は濡れており
衣服は明らかに着せられたもので
シャツのボタンも掛け違えてチグハグ。
皮膚に擦り傷や青あざが見えるが
それでもあの凄惨な姿で入ってきた時よりは
ずっと人間らしい姿に戻っていた。
(……私の時は
きっと青龍が身体を拭いてくれたんだ)
ふと、あの時を思い出す。
目覚めた時、すぐ側にいてくれたのは──
青龍だった。
それを思うと、目の前の小さな背中に
不思議と感謝の念が込み上げてくる。
「ヘタレの世話を任せちまって
すまなかったな」
その時、低く投げられた声に
レイチェルは顔を上げた。
ソーレンが、まだ青龍の身体を拭きながら
ちらと、こちらに視線を向けていた。
「……いえ、そんな」
思わず、レイチェルの顔に苦笑が浮かんだ。
すると、すぐさま青龍の声が
跳ね返るように響いた。
「申し訳ありません、レイチェル様!
直ぐに私が時也様の所へ参りますので……っ!」
青龍は立ち上がろうとしたが──
「おめぇは、先ずは身体を乾かしてからだ!」
ソーレンが無造作に
彼の小さな頭を押さえつけた。
「なっ、貴様……!」
青龍はキッと睨みつける。
だが、ソーレンは意に介さず。
「さっきも言ったろうが!
濡れたまんま歩かれちゃ
また俺の仕事が増えんだよ!」
「貴様はつくづく無礼な男だな!
雑に私を拭くな!皮膚が剥がれるだろう!」
「お前の皮膚はもう充分剥がれてるだろ」
「なんだとっ!?」
二人のやり取りに、レイチェルは思わず
吹き出してしまいそうになった。
(まるで、本物の兄と弟みたい……)
世話焼きの不器用なお兄ちゃんと
負けん気の強い弟。
それは、ここ喫茶桜の常連でも見られない
裏側だけの微笑ましい風景だった。
「私、厨房で仕込みの続きをしてきますね!」
レイチェルが声を掛け
リビングを出ようとしたその時──
「おい!」
ぶっきらぼうな声が背中を叩いた。
振り返ると、ソーレンが眉を寄せながら言った。
「アリアの席には行くなよ?
まだ掃除終わってねぇんだ」
その一言に、レイチェルは目を見開き──
やがて、小さく頷いた。
「……分かりましたっ」
(根っこは、優しいんだな……)
その言い方は不器用で、雑だった。
けれど、その言葉には確かに
〝気遣い〟が滲んでいた。
「じゃあ、時也さんが汚してしまった方は
私が掃除しておきますね」
「……おう。サンキューな!助かるよ」
ソーレンの言葉は
ぶっきらぼうなままだったが──
その響きには、どこか優しさがあった。
「……っ」
レイチェルの胸がぎゅっと締めつけられる。
─ありがとう─
たった一言。
けれど、それが今の彼女にとって
どれほど沁みる言葉だったか。
孤独だった。
誰にも頼れなかった。
信じても異能に裏切られ、彷徨い続けた日々。
それでも──
今は、ここにいる。
誰かと肩を並べ、誰かの役に立っている。
そして、誰かの〝ありがとう〟を
受け取ることができる。
(……まるで、家族ができたみたい)
温かさが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
それは、涙よりも、優しい感情だった。




