第14話 狂気と名演技
昼下がりの喧騒が
ほんの僅かに静まりはじめたその時──
喫茶 桜の空気が、ふっと
まるで何かに撫でられたように変わった。
甘やかな焼き菓子の香りと
深煎りコーヒーの芳しさが満ちる店内。
そこに、風のようなざわめきが混ざる。
それは香りではなく、音でもない。
感覚の領域に触れる、ぴりりとした緊張の波。
(え⋯⋯?なに、今の⋯⋯)
レイチェルは、皿を手にしたまま動きを止めた。
無意識のうちに背筋が伸び
視線を周囲へと走らせる。
席を埋める客たちは
変わらず賑やかに談笑を続けている。
カップが揺れ、スプーンが音を立て
笑い声が柔らかく重なる──
だが、その賑わいの中心で
店のスタッフ達だけが
静かに異変を察知していた。
時也は厨房の奥で一瞬手を止め
ソーレンはカウンターの奥で眉を寄せ
アリアは本から目を上げ
青龍はピクリと耳を動かす。
まるで全員の意識が、一斉に──
一点に向かって凝縮されたように。
(──外だ)
レイチェルは吸い寄せられるように
窓の外に目を向けた。
そして、そこに〝それ〟を見た。
喧騒の中にぽつりと立つ一人の──男。
痩せ細った体躯。
土気色の肌に、くっきりと浮かぶ黒い隈。
頬はこけ、唇は乾いて裂けていた。
その瞳だけが、異様なほど鋭く光を宿している。
男は動かない。
ただ、じっと。
窓越しにアリアを──
まるで獲物を狙う蛇のように、睨みつけていた。
その顔には、明確な感情があった。
怨嗟。
憎悪。
執念。
あらゆる負の感情を煮詰めたような
粘つくような視線。
その気配に触れた瞬間、空気が──
冷たく、重く、沈んだ。
「〝特別ゲスト〟です。
皆様、丁寧な接客をお願いいたします」
時也の声が、インカム越しに淡々と響いた。
いつもの穏やかさを保ちながらも
その言葉の背後には研ぎ澄まされた冷気が漂う。
氷の刃のような声だった。
「⋯⋯特別ゲストって⋯⋯まさか」
レイチェルは息を呑んだ。
〝転生者〟──アリアに強い因縁を持つ者たち。
昨日、その存在を初めて知ったばかりだった。
そして、彼女自身もまた──その一人。
(こんなにも早く他の転生者に逢うなんて⋯⋯)
全身の血が急速に冷えていくのを感じながら
レイチェルの表情が強張った。
その瞬間。
「レイチェルさん!笑顔、ですよ?」
時也の声が、ぴしゃりと鋭く耳元を打った。
はっとして、慌てて表情を緩める。
だがその時──
「うわあああああん!」
店外から、くぐもった泣き声が届いた。
驚きとともに、レイチェルが振り返る。
(──青龍!?)
防音の施された店内にも、微かに届くその声。
窓の外に目を向けると──青龍がいた。
まだあどけない幼子の姿の青龍が
あの男の足元で地面に座り込み
全身を震わせながら声を上げて泣いていた。
「お、おい、泣くなって⋯⋯!」
男は明らかに動揺し
周囲の視線を気にするように
きょろきょろと辺りを見回す。
困惑と苛立ちを滲ませながら
ぎこちなく青龍をあやし始めた。
「うるせぇって⋯⋯!
まじで⋯⋯ちょ、泣くなっつーの!」
焦燥の色が濃くなっていく男の顔。
その手が、ついに青龍の体を抱き上げた。
──その瞬間だった。
スパァンッ!
鋭い音が鳴り響いた。
青龍の小さな手が
稲妻のように男の首筋へと叩き込まれた。
正確無比。
迷いのない手刀。
その一撃は、まるで龍の爪のように鋭く──
「──っ!」
男の身体がびくりと仰け反り
次の瞬間、全身の力が抜けたように
ぐったりと前のめりに崩れ落ち始めた。
「⋯⋯やっぱ、青龍は容赦ねぇな」
カウンターの奥から
ソーレンがぼそりと呟いた。
その瞳には、驚きもなければ、焦りもない。
彼は無造作に手を上げた。
その動きに呼応するように──
気絶した男の身体が、ふわりと浮き上がる。
だが、浮いたようには見えなかった。
重力を巧みに操作し
男の足を操るようにして歩かせる。
意識を失っていながらも
まるで自ら歩いているかのように
男は青龍を抱いたまま店内へと入っていった。
客たちは、訝しむこともなく──
〝迷子の子を助けた親切な人〟くらいにしか
見ていない。
「いらっしゃいませ」
時也の声が、にこやかに響いた。
「あそこのお席のお子さんです。
ご協力いただきまして、ありがとうございます」
自然な仕草で、頭を下げる。
男は既に意識がない。
それでも、演技は完璧だった。
レイチェルは呆気に取られながらも
その見事な一連のやりとりに心を奪われる。
(青龍も、時也さんも⋯⋯凄い演技派ね)
青龍にしがみつかれたままの男は
ソーレンに導かれて
アリアの特設席へと運ばれていく。
──そして。
シャッ!
時也が静かに手を伸ばし、カーテンを引いた。
それは
まるで舞台の幕が閉じるような一瞬だった。
アリアの席が、外界から完全に遮断される。
気絶した転生者とアリアが
ひとつの空間に隔てられた。
誰にも邪魔されることのない、密室が完成する。
その手際の一つひとつは
もはや〝自然〟という域を超え
店という舞台装置の中に完璧に溶け込んでいた。
(⋯⋯めっちゃ自然だったわ)
レイチェルは無意識に息を呑んだ。
我に返ると
自分の手が止まっていたことに気付き
慌てて、手にした皿を持ち直す。
(普通に⋯⋯普通に、振る舞わないと!)
大丈夫。
ここにいる人たちは、ただ強いだけではない。
その力を、制御し、使いこなし、隠し──
必要な時には、完璧な演者として振る舞う。
(なら、私も⋯⋯)
レイチェルは深く息を吸い
制服の胸元を整えた。
そして──
精一杯の笑顔を浮かべた。
カウンターを背にして、何事もなかったように
店内を流れるように動き出す。
⸻
「レイチェルさん。
少しの間⋯⋯お店を一人でまわせますか?」
背後から届いたその声は
いつも通りの柔らかさを保ちながら
どこか緊張を帯びていた。
レイチェルが振り返みた時也は
その表情には微笑が浮かんでいたが
鳶色の瞳には、確かな切迫と
慎重な気配が漂っていた。
「青龍の情報ですと、例の彼は──
睡眠薬を常用しているらしく……
おそらく直ぐに目が覚めてしまうと思うのです」
その言葉に、レイチェルは小さく目を見開いた。
(だから、飴じゃなくて気絶させたのね⋯⋯)
常習性、耐性、意識の覚醒時間──
それら全てを踏まえた上での判断。
そう考えれば
あの幼子の姿をした青龍が見せた
泣き真似の理由も、すとんと腑に落ちた。
あれは作戦だったのだ。
人目を引き、近付かせ、警戒心を解き
接触の隙を作るための──演技。
「大丈夫!任せてください、時也さん!」
レイチェルは、迷いなく頷いた。
自分にできることを果たしたい
その一心だった。
「ありがとうございます。助かります⋯⋯」
安堵を滲ませた声でそう告げると
時也は微笑を浮かべ、静かに背を向ける。
そのまま、ソーレンと並んで
居住スペースへと消えていった。
その背中を見送りながら
レイチェルはふと気づく。
(⋯⋯そういえば
青龍の声がインカムに入ってなかったな)
時也と青龍には
機械なんかいらない
特別な情報交換の手段があるのかもしれない。
(テレパシー、とか⋯⋯?なんてね)
あり得ない、と笑い飛ばすには
あまりにもこの店は不思議な事が多過ぎた。
微かに首を振って、気持ちを切り替える。
(私にできることを、ちゃんとやらなきゃ)
目の前のホールに視線を戻せば
そこには穏やかな風景が広がっていた。
笑顔の客たち。
立ち昇る湯気。
響き渡る食器の音と、香ばしい香り。
レイチェルは席を巡り、食器を片付け
注文状況を把握しながら
それとなく客の表情を観察していった。
──その時だった。
店の奥、特設席から戻ってきた時也。
その腕には、バイオリン。
続いて現れたソーレンの手には
銀色に光るサックス。
(え⋯⋯っ?)
唐突すぎる光景に目を見張るレイチェルの耳に
歓声が届いた。
「うわぁ!今日はラッキーだな!」
「いいね、いいね!待ってたよー!」
常連らしき客たちが声を上げ
直後、ぱちぱちと拍手が起こる。
どうやら、時也とソーレンが時折こうして
演奏を披露することを知る人々が
サプライズに喜んでいるらしい。
「ご来店、誠にありがとうございます」
時也がバイオリンの弓を軽く掲げ
優雅に一礼をする。
「今から短い時間ではございますが
僕たちの演奏を
楽しんでいただければと思います」
そう言ったその瞬間──
空気がふわりと和らぎ
まるで店の中に春の風が流れ込んだようだった。
──そして、音が生まれた。
バイオリンの弓が優雅に跳ね
甘く滑らかな旋律を紡ぎ出す。
その旋律に、ソーレンのサックスが重なる。
艶やかな低音がリズムを刻み
音の奥行きを深めていく。
意外な組み合わせにもかかわらず
音は溶け合い
ひとつの旋風となって店内を包み込む。
まるでクラシックとジャズが
密やかに語り合っているかのようだった。
客たちは自然と手拍子を始め
音に揺られながら身を預けていく。
レイチェルもまた、その空気に包まれながら
ふと視線をずらした。
──特設席。
その横を通り過ぎた、まさにその瞬間だった。
「──っ!」
濁った怒声が、硝子の奥から漏れ出す。
言葉にはならぬ、押し殺したような怒鳴り声。
それが、演奏の背後で確かに響いた。
(⋯⋯もう、目が覚めたの!?)
思わず息を呑んだその時──
耳を貫く、異様な音。
バキッ⋯⋯
ゴキッ⋯⋯
ズグ⋯⋯
骨が軋み、肉が裂けるような──生々しい音。
音楽に掻き消されるように微かではあったが
確かにそれは、あの硝子の奥から聞こえていた。
(──っ!)
レイチェルの顔から血の気が引く。
今、あの奥で何が起きているのか──
想像するには、充分すぎる音だった。
(演奏は⋯⋯カモフラージュ⋯⋯!)
奏でられる旋律は、優雅に、軽やかに──
だが、演奏する二人の表情は
どこか悲壮に陰を帯びていた。
時也の眉は僅かに寄り
ソーレンの唇は固く結ばれている。
(アリアさんは、今⋯⋯)
あの美しい彼女が、今、ガラスの奥で──
それを知る客は、誰もいない。
笑顔で手拍子を打つ人々。
音楽に酔いしれる彼らが
何も知らずに喜んでいるその姿が
レイチェルにはやけに残酷に見えた。
演奏は、思いのほか長く続いた。
その間にも何度か、鈍い音が耳を掠める。
その度に、時也のバイオリンは一層鋭く鳴き
ソーレンのサックスは低く、深く
呻くように響いた。
そして──やがて音が止まった。
最後の音が空間に溶け、静寂が戻る。
「ブラボー!」
「素敵だったわ!」
店内には拍手と歓声が巻き起こる。
時也とソーレンは
それぞれ楽器を軽く持ち直し、深く一礼した。
音楽という幕が降りたその瞬間
彼らは再び、何もなかったかのように
喫茶のスタッフへと戻っていく。
その背中を、レイチェルは無言で見つめた。
それから、最後の客が店を後にするまで──
彼女は一瞬たりとも気を抜くことなく
動き続けた。
──そして。
ドアベルが鳴り、最後の来客が出ていくと
ようやく静けさが店内に広がった。
誰もいない客席。
温もりの僅か残るカップと
皿の上のクッキーの欠片。
その間を満たすのは
コーヒーと焼き菓子の香り。
レイチェルは、ようやく
押し殺していた呼吸を吐き出した。
「⋯⋯⋯⋯はぁ⋯っ」
肩が大きく上下する。
頭の奥に残っているのは、香りと──
静かな余韻。
血の気が戻ってくる。
指先に力が入る。
まだ、足が震えていた。
だが、それでも。
──彼女は立っていた。
この喫茶桜という舞台の一員として。
異能を背負いながら
そして、彼らの決意を守る者のひとりとして。




