第128話 烙印
アラインの瞳は遠く霞む桜の丘を捉えたまま
僅かに見開かれていた。
夜の帳が満ちる中
その口元には、笑みと呼ぶには
あまりに無機質な弧のような歪みが浮かぶ。
愉悦とも、皮肉ともつかぬその歪な笑みに
風がそっと頬を撫でる。
「⋯⋯あの丘を見ていると──昔を思い出すね。
ねぇ⋯⋯アリア」
その声は、誰に届くこともなく
風の中に溶けていった。
⸻
アラインの背には
生まれつき深々と裂けた傷跡が刻まれていた。
背骨に沿うように、三条の鉤爪の痕。
まるで巨大な猛禽が爪を立てたかのような
生々しい跡だった。
血肉を裂かれたその跡は
誰の手によるものでもなく
何かの〝呪い〟のように彼の皮膚を貫いていた。
─神の怒りを受けた子─
誰かが、そう言った。
それが両親の言葉だったか助産師の嘆きだったか
当たり前に記憶は無い。
だが確かに
それがこの世界における最初の〝烙印〟だった。
赤ん坊だったアラインは名も与えられぬまま
寒空の下に佇む孤児院の前に置き去りにされた。
泣き声は風に紛れ、誰にも届かず。
だが皮肉にも、その背の傷だけは
誰よりも強烈に他者の記憶に焼き付けられた。
その日からアラインの世界に
優しさというものは一度も現れなかった。
服は、破れた他の孤児達の寄せ集め
冷たい寝床には、薄いボロ布が一枚
配給は当たり前のように後回しにされた。
職員達は
忌々しいものを見るような目で彼を見下ろし
他の孤児達は彼の存在を遠巻きに避けていく。
いや──恐れていたのだ。
あの瞳を、背中の傷痕を。
擦れ違う度に浴びせられる冷笑
ささやかれる呪詛
押し殺した恐怖。
それらがアラインにとって
〝人との関わり〟というものの原型になった。
彼にとって、人は敵意を向けてくる存在であり
痛みを与える事で距離を図るものだった。
だからこそ、彼は学んだ。
暴力こそが
唯一他者と関係を結べる言語であると。
そしてそれは、成長と共に〝再現〟される。
床に押し倒された孤児の頬を
無表情のまま拳で殴りつける。
その瞳に映るのは
恐怖に震える歪んだ瞳と嗚咽混じりの謝罪だけ。
しかしどれだけ泣こうが許す気は起きなかった。
許し方を⋯⋯知らなかった。
ある日、アラインは不思議な感覚に気付く。
目の前の孤児が自分を〝恐怖の存在〟として
強く意識すればするほど
その者の過去や秘密がまるで開かれた本のように
頭に流れ込んでくるのだ。
幼少期の失禁、盗み見た日記、家族の死。
誰にも言えずに隠していた記憶を
アラインは読み取っては静かに笑った。
そして、その記憶の本文に
新たな〝頁〟を差し込むように──
自在に書き込める事を知った。
「昨日、ボクに逆らえば
君のペットが死ぬって言ったよね?
⋯⋯忘れたの?あぁ、可哀そうに。
やっぱり言葉じゃ──足りなかったんだね」
次第に孤児達は
アラインの言葉に逆らわなくなっていく。
昨日までの現実が書き換わっていく中で
彼を恐れ、崇め、従い始めた。
やがて、職員までもが
アラインの指示に従うようになっていった。
献立が変わり
寝室が変わり
礼儀が変わり
制度が変わっていく。
少しずつ、音もなく、静かに。
まるで、柔らかな絹で首を絞められるように。
孤児院は変わっていった。
アラインを中心とした
─秩序と支配の館へと─
微笑めば、皆が跪き。
唇を歪めれば、誰かが泣きながら懺悔する。
彼の言葉ひとつで、世界が曲がる。
それはアラインにとって〝愛〟などとは無縁の
歪んだ快楽だった。
服従の記憶を植え込む。
恐怖を記憶に刻み込む。
敬愛を、作り物の神話のように与える。
「ほら、ボクは優しいだろう?」
微笑みながら、またひとつ
誰かの現実が塗り潰されていく──⋯。




