第13話 仲良し⋯?
「いやはや⋯⋯
レイチェルさんは頼もしい限りですね」
その声は、蒸気と香ばしい匂いが立ち上る
厨房の奥から届いた。
穏やかでありながら
確かな感嘆を含んだ声音だった。
レイチェルが思わず振り向くと
藍染めの着物の袖を襷掛けにし
髪をすっきりと結い上げた時也が
湯気の間からひょっこりと顔を覗かせていた。
彼の表情は、まるで春の陽射しのように柔らかく
その鳶色の瞳には深い信頼の光が宿っている。
しかし、次の瞬間──
「ソーレンさん」
呼びかけた声の調子が
すっと一段階低くなった。
穏やかさを保ちながらも
そこには明確な温度差があった。
「貴方も、見習ってくださいね?」
その一言の中には
ほのかに苦味を含んだ皮肉が滲んでいた。
まるで春先に降る冷たい雨のように
やんわりと、しかし確実に響く。
「はぁ?」
カウンターの奥で
グラスを磨いていたソーレンが
眉間に深い皺を寄せて振り返る。
その琥珀色の眼差しは
遠慮のない苛立ちを露わにし
時也を真っすぐに睨みつけた。
「俺は、俺なりにやってんだよ。
大体、どう並べても同じだろ?」
「まぁまぁ」
時也は苦笑を漏らし
片手をひらりと振って宥めるように応じた。
その仕草にはどこか余裕があり
年長者のような包容力さえ感じさせる。
「ですが、僕としては──
しっかりお客様が
心地良く使えるようにしていただけると
ありがたいんですけどね?」
再び投げかけられたその言葉は
やはり柔らかく
だが確かな責任感を孕んでいた。
「うっぜぇな⋯⋯」
ソーレンは不満げに舌打ちし
カウンターの縁に肘をついて顔をしかめる。
言葉は荒いが
どこか慣れたやり取りに近いものが滲んでいた。
そのやり取りを見ていたレイチェルは
つい堪えきれずに小さく笑ってしまった。
(この二人⋯⋯
やっぱり、ずっとこんな感じなんだ)
どこか噛み合わないようで
絶妙な距離感がある。
険悪というには程遠く
むしろ家族のような温かさすら感じさせる──
それは、心に沁み入る安心感を伴っていた。
「では⋯⋯」
時也はレイチェルへと視線を向け
ふわりと表情を緩める。
そして、背筋を伸ばして丁寧に一礼した。
「本日から、よろしくお願いしますね」
その声音には
形式を超えた誠意と慈愛がにじんでいた。
言葉ではなく
心で伝えようとする真摯な気持ちが
空気を柔らかく染めていく。
「⋯⋯はいっ!」
レイチェルもまた姿勢を正し
制服のスカートを整えながら、力強く応えた。
自然と胸が熱くなり、声に思いが宿る。
「んじゃ、開店すっか!」
ソーレンが不貞腐れたように呟き
入口の方へと歩き出す。
だがその背中には
ほんの僅かにやる気の色も感じられた。
「ソーレンさん
開店のベルは僕が鳴らしますよ」
「へいへい⋯⋯
どうせ俺が鳴らしたら
音がガンガラガン!って雑で、うるせぇって
怒んだろ?」
「分かってるなら、そうしないでください」
「へぇーへぇー」
ソーレンは不機嫌さを強調するように
片手をだらしなく振りながら
カウンターの奥へと戻っていった。
彼なりの拗ねた演技のようでもあり
どこか微笑ましい空気が残る。
そんなやり取りを背に
時也は店の扉へと歩を進めた。
木製の札に手を添え、そっと裏返す。
──「Closed」から「Open」へ。
札が揺れ、控えめな音を立てた。
「さぁ、今日も頑張りましょうね」
その声は、まるで花が咲くように柔らかく
けれど芯のある響きだった。
取っ手に指をかけ、そっと扉を押し開ける。
カラン──
開店のベルが澄んだ音を立てて店内に満ちる。
瞬間、朝の風が冷たくも清らかに流れ込み
焙煎された豆の香りと
焼き上がったばかりのフィナンシェや
マドレーヌの香ばしさが渦を巻くように
店内を漂う。
レイチェルは制服の胸元にあしらわれた
桜の刺繍をそっと指でなぞった。
布の下に伝わる刺繍の凹凸が
何故か今は心地良く感じられた。
(⋯⋯ここが、私の新しい居場所)
深く、穏やかに息を吸い込む。
胸の中にじんわりと広がる温もりは
初めて居場所を得た安堵と
今日という日への小さな勇気だった。
外の風よりも、何よりも
心がぽかぽかと温かかった。
⸻
営業が始まり、しばらくの時が流れると──
昼下がりの喫茶桜は
静かな熱気に包まれていた。
陽が高く昇りきった頃には
店内の席はほぼ埋まり
扉が開くたびに微かな風と共に
新たな来客の気配が流れ込んでくる。
陽光を受けて柔らかに揺れるレースのカーテン。
磨き上げられたテーブルの上では
白い陶器のカップが湯気を立て
カトラリーが交わる度に澄んだ音を奏でていた。
あちらこちらの席では
笑みを交えた談笑が飛び交い
その中に微かに混じる食器の触れ合う音と
静かに奏でられるピアノの旋律が
店内に心地良いリズムを生み出していた。
──それは、穏やかで
どこまでも静謐な〝忙しさ〟
「ソーレンさん」
耳元のインカムに
時也の落ち着いた声がふわりと届いた。
「三番と五番テーブルのご新規様の接客は
紳士的にお願いします」
「⋯⋯へいへい」
カウンターの奥
グラスを拭きながらソーレンが気怠げに返す。
その声音に苛立ちはなく
むしろ淡い照れ隠しのような響きがあった。
「八番は⋯⋯いつも通りの貴方で良いでしょう」
「は!そりゃ、楽で助かるぜ」
ソーレンがわずかに口元を緩めながら
整えられたシルバーを手にする。
客の性格、空気の流れ──
そしてどの客にどう対応するか。
店主である時也は、それらを熟知し
少しの無駄もなく采配を振るっている。
荒っぽいソーレンすら
場に応じて上手く扱っていることは
誰の目にも明らかだった。
「レイチェルさん」
インカム越しに名を呼ばれ
レイチェルは反射的に背筋を伸ばす。
「空いた食器を
その機動力を活かして下げつつ
お待ちのご新規様用に
テーブルのセットをお願いします」
「了解です!」
明るく返事をした彼女は
すぐさまローラースケートで動き出す。
──シャッ。
床を滑る音と共に
レイチェルはテーブルの間を
するりと抜けていく。
空になったカップ
使い終えた銀器を器用に片付けながら
次の客のためにテーブルを整えていく手際は
見事だった。
その最中、視界の端にふと映ったのは──
時也が銀のポットを手に
奥の特設席へと向かう姿。
そこに座るのは
金糸を流したような長髪の女性──アリア。
静かに本をめくっている彼女の横顔は
春の光を纏った彫刻のように美しい。
「⋯⋯あいつ
レイチェルが使えるとわかった途端
今日はアリアから離れねぇつもりか。
うざってぇ⋯⋯」
ソーレンの低く呟く声が
カウンターの奥から漏れる。
拗ねたような声音で
カトラリーをやや雑にバスケットに並べながら
ちらりと厨房の方を睨んでいた。
そんな様子に
レイチェルは思わず吹き出しそうになり
唇を指先で抑えながらくすりと微笑んだ。
しばらく営業が進むと──
「──〝スペシャル〟です」
インカムから届いた時也の声が
不意に空気の温度を変える。
穏やかなはずのその声音には
どこか翳りがあった。
「レイチェルさん。
四番テーブルへ⋯⋯御答えを」
「了解しました」
ローラースケートの車輪が
控えめに床を滑る音を立てる。
レイチェルがカウンターに向かうと
時也は黙ってカップを差し出してきた。
その中には、深く澄んだ琥珀色の液体──
香り高い一杯の珈琲が、僅かに揺れている。
「女性のお客様の方へ⋯⋯お願いしますね」
囁くようなその声は、どこか遠く
少しだけ疲れているように聞こえた。
カップの表面には、柔らかなラテアート。
桜の花弁のように描かれたその曲線は
微かに揺れ
彼女の指先に託された思いを物語っていた。
そして、そのソーサーの上──
添えられた一枚の小さな白い紙。
丁寧に折り畳まれたそれは
珈琲の香りに溶け込みながら
何か大切なものを内包していた。
(これ……アドバイスの紙)
レイチェルは紙が目立たぬようにカップを重ね
ソーサーごとそっと手に取ると
再び軽やかに滑るようにテーブルへと向かった。
──四番テーブル。
そこに座っていたのは
若い男女の二人組だった。
「お待たせしました」
レイチェルは静かに言葉を添え
カップを女性の前にそっと置く。
女性は返事をせず
視線をカップに落としたまま
ただじっとその中を見つめていた。
華奢な肩には薄手のカーディガンがかかり
目の下には深い隈。
頬はこけ、表情には言葉では覆えない疲労と
沈黙が張り付いていた。
レイチェルは深く一礼し
何も言わずにその場を離れる。
──カチャ
ソーサーに触れる微かな音が
背後から聞こえた。
振り返らずに歩きながら
レイチェルはちらりと横目で彼女の様子を伺う。
(期待とは⋯⋯答えが違っていたのかしら)
その答えは、女性の表情に現れていた。
カップを持つ手が微かに震えている。
目を伏せたまま
ソーサーの上に置かれていた白い紙を
そっと手に取り──
そして、力いっぱい、ぎゅっと握り締めていた。
涙は零れない。
だが、その震える肩は
堪えきれぬ感情の奔流を抱えていることを
如実に示していた。
(⋯⋯どうか
これが救いに、繋がりますように)
レイチェルは、心の中でそっと祈る。
その願いが、言葉を越えて
目の前の誰かの胸に届くように。
彼女の、見えない涙の底に
ひと雫の光が灯るように──




