第127話 蠢くもの
ソーレンは
外の気配を最後にもう一度だけ確かめると
ふっと肩の力を抜いて小さく溜め息を漏らした。
「⋯⋯ま。
あの猫が戦える証明になったし──
情報も、アイツが聞いてんだろ」
ふと見上げた、二階の窓。
そこには
月明かりに照らされた時也の姿があった。
窓辺に立つその黒褐色の髪が風に揺れ
鳶色の瞳がソーレンと合った瞬間
まるで声なき言葉が届くように
時也は穏やかな笑みを浮かべた。
─ご心配なく─
言葉にしなくとも伝わるその意図に
ソーレンはガシガシと頭を掻いた。
「はー⋯⋯まったくよ」
小さく呟いて
重たい足取りで室内へ戻っていく。
リビングのケージでは
ティアナが既に戻っていた。
しかも
ケージの扉には鍵まできちんと掛けられており
堂々と香箱座りで眠りにつこうとしている。
「⋯⋯ほんと、ウチに居る女は強くて困るわ」
半ば呆れながらもどこか誇らしげに
ソーレンは伸びをして
誰に聞かせるでもない大きな欠伸をひとつ。
そのまま、廊下を抜けて自室へと戻っていった。
同じ頃。
時也はまだ、窓辺に佇んでいた。
月明かりに照らされた庭の奥。
先ほどティアナが
そしてソーレンが向かった場所を
冷たい視線でじっと見下ろしている。
(⋯⋯フリューゲル・スナイダー⋯⋯)
初めて聞くはずのその名前が
耳の奥に不快なざわめきを起こす。
喉の奥に引っかかったまま吐き出せない
〝何か〟──
脳裏には、嘲るような笑みの影。
けれどその口元の上にあるはずの瞳は
まったく笑っていない──
蛇の毒のように甘く絡む声が
影のように意識の縁を撫でる。
(⋯⋯思い出せない⋯⋯だが⋯⋯)
「⋯⋯彼女の翼を──斬らせて堪るか」
時也は静かに
しかし確固たる決意を込めて呟くと
勢いよくカーテンを閉じた。
⸻
その夜、どこかの高層ビルの一角。
夜の帳に閉ざされた屋上で
黒のロングコートを纏った男がひとり
望遠鏡を手に空を仰いでいた。
「⋯⋯アライン様。
離反した者の捜索は──如何なさいますか?
これ以上は例の店に近付き過ぎてしまいます」
控えていた男の声は恐る恐るではあったが
任務を忘れまいと努めていた。
だがその声の震えは
彼の視線の先にいる〝主〟の背を見ていれば
誰もが納得せざるを得なかった。
返事はすぐには返らない。
男はただ黙って、銀縁の望遠鏡を覗いていた。
その長く一束に編み込まれた黒髪が
夜風にふわりと靡く度に
薄明かりに照らされる横顔が僅かに覗く。
美しいと言うにはあまりに冷たく
静かすぎて感情が読み取れない。
静寂を破ったのは、やがてその細い指が
望遠鏡をゆっくり下ろした時だった。
「ん〜?もう、イイよ」
耳に心地良い低く柔らかな声。
だがその響きはまるで毒入りの蜜のようだった。
「多分──死んだろうから」
彼の視線の先には、遥か遠くの丘
桜の樹々に囲まれた喫茶店──
〝桜〟が小さく佇んでいる。
まるで
昔からその景色を見慣れていたかのように
だが懐かしむ様子もなく
ただ静かにそこを眺めている。
彼の足元には
一人の男が四つん這いになっていた。
顔面を床に押しつけるようにして
額から血を滲ませながら震えている。
「⋯⋯ボス⋯⋯すみません⋯⋯!
もう、勝手はしないので⋯⋯許して⋯⋯っ」
だが、返ってくるのは沈黙。
彼はまるで、それを聞いていないかのように
優雅に、だが少し気怠さを帯びて
男の背に腰を下ろしている。
まるで、そこが玉座であるかのように
自然に美しい脚を組み直す。
そして
右の腰に佩いた大太刀にそっと指を添える。
その仕草一つひとつが
あまりに優雅で、狂気的に美しかった──⋯
「⋯⋯ねぇ?」
その口元が弧を描く。
微笑みなのか、愉悦か、あるいは嘲りか──
その答えを知る前に、彼の言葉が続いた。
「椅子が話していいと思ってる?」
次の瞬間、大太刀が音も無く鞘を離れる。
冷たい月の光を浴びて、細く長い刃が鈍く光る。
男の足首──
アキレス腱の辺りへとその刃先が触れた瞬間
空気が一変した。
刺すのではなく、沈めるように。
押し込むのではなく
あくまで丁寧に〝添わせる〟ように。
やがて
バツン──
粘膜を裂く音と共に、腱が断たれた。
「ひっ⋯⋯あ゛っ⋯⋯があああっ!!」
悲鳴が闇夜に溶ける中、彼はただ黙っていた。
男の呻きも
血の匂いも
悲鳴さえも
まるで存在していないかのように。
その双眸──
アースブルーの瞳が静かに再び丘の方へと向く。
桜の木々に囲まれたあの場所を見つめながら
わずかにその唇が動いた。
「⋯⋯何が〝桜の丘〟だよ」
その声に、温度は無かった。
「今も昔も──
〝呪いの丘〟と呼ぶ方が相応しいのにねぇ?」
夜風が彼の髪をさらりと撫でた。
闇に溶けるようなその立ち姿は
まるで影そのものだった。




