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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
手は繋げずとも

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第122話 白き咆哮

「これで、完璧ですね。

今、アリアさんに逢わさせて差し上げます。

きっと、貴女も彼女の優しさに触れたら

疲れが癒えるでしょう」


真っ白になった猫をふわりと腕に抱き上げながら

時也はするりと襷紐を解いた。


やわらかな毛並みに

微かな湯の香りと洗いたての清潔な気配。


タオルの中、猫は満ち足りたように喉を鳴らし

小さな鼻先を時也の襟元に押し当てていた。


そのまま、足音も柔らかく

時也はバスルームからリビングへと戻ってくる。


「アリアさん、お待たせいたしました。

こちらが、例の猫──」


だが。

その瞬間だった。


猫の耳が、ピクリと動いたかと思うと──

ふわふわと整えたばかりの毛並みが

ブワッと逆立つ。


「───っ!?」


低く唸る音と同時に

猫の背が丸まり、全身に緊張が走る。


「痛っ⋯⋯!」


鋭い爪が、時也の腕をかすめて走る。


真っ白な毛を散らしながら猫は飛び降りると

爪を地に叩きつけるように立て

しゃあっ──と牙を剥いた。


唸り声は低く、威嚇の火種は明確に

一つの方向へと向けられている。


アリア──


彼女はソファーに腰掛けたまま

静かに猫を見下ろしていた。


深紅の瞳には、怒りも、驚きも

戸惑いさえなかった。


まるで──

最初から、こうなる事を知っていたかのように。


リビングにいた全員が

空気の張り詰めを感じたその時──

猫が、飛んだ。


爪を振りかざし、牙を剥き

容赦の欠片も無い突進。


その身の小ささを嘲るような

恐るべき速度と気迫だった。


ソーレンが椅子を蹴って立ち上がりかけた

その瞬間──


だが、間に合わなかった。

アリアは、動かなかった。


座したまま、目を伏せもせず

襲いかかる白い影を真正面から迎えた。


爪が頬を抉り

首筋に牙が食い込み

血が一閃──


それでも彼女は、腕も振るわず

目を逸らすこともなく

ただ静かにその暴力を受け止め続けていた。


紅い花のように、白いドレスに血が滲む。


それでも、アリアは一言も発さず──

ただ、そこに座り続けていた。


猫は、何度も何度も、爪を振り上げた。


肩口に引き裂くような傷を与え

彼女の髪を噛み千切り

それでも⋯⋯

アリアの瞳から

涙も叫びも一滴として零れることはなかった。


静謐の中、ただ一つ──


雪原のような身体が紅に染まる

白猫の咆哮だけが空間を切り裂いていた。


「⋯⋯や、やめなさい──っ!」


呆然とした顔で立ち尽くしていた時也が

ようやく我に返ったように叫ぶと

乱暴に暴れ回る白猫に手を伸ばした。


猫は鋭く威嚇の声を上げながら空中に跳ね

なおもアリアへと牙を向けようとする。


だが、その身体を抱き締めるように

時也が自らの腕に押さえつけた。


「⋯⋯大丈夫、大丈夫ですから⋯⋯

落ち着いてください──っ!」


小さな身体には、想像もつかぬ程の力があった。


前脚が時也の袖を裂き

腕を噛み

爪が血を滲ませていく。


それでも時也は力を緩めず

その白い命を抱きしめ続けた。


猫の熱が、怒りが

呼吸の乱れと共に伝わる。


「⋯⋯良い。

気が済むまで⋯⋯やらせてやれ」


低く、静かな声だった。


時也は驚きに目を見開き

猫を押さえたままアリアを見つめた。


彼女の肩や頬には、いくつもの裂傷が刻まれ

首元には牙の痕が紅く広がっている。


それでもアリアは身じろぎ一つせず

ただ、猫に正面から向き合っていた。


「しかし⋯⋯アリアさん⋯⋯っ」


時也が困惑と痛みを滲ませて呼びかける。


アリアは深紅の瞳を細め

白猫をじっと見据えながら

ゆっくりと口を開いた。


「⋯⋯良いと言っている。

怨みを、晴らさせる事が⋯⋯

せめて、私にできることだ」


静謐。

その一言が場の空気を瞬時に凍らせる。


ソーレンも、レイチェルも、青龍すらも──

ただその意味を飲み込めずに立ち尽くしていた。


アリアの言葉に、宿った意味。

その響きに──ようやく誰もが気付いた。


この猫は、ただの猫ではない。

この怒りは、理不尽ではない。


この爪と牙は、過去から連なる哀しみの証だ。


──転生者。


その言葉が誰の口からも発せられぬまま

喉元で凍り付いていた。


時也の腕の中

猫はとうとう疲れ果てたように

ただ小さく震えるだけになった。


呼吸が浅く、喉の奥で鳴る声ももはやか細い。


アリアはゆっくりと立ち上がる。


傷だらけの身体のまま、猫に近付き

その頭にそっと手を置いた。


その指先に触れた瞬間──

白猫の身体が、僅かに震えた。


「⋯⋯すまなかった」


アリアは静かに

だが確かな手つきで、猫の頭を撫で続けていた。


指先が触れる度に

白く美しい毛並みが震えるように揺れる。


その声音に宿る痛みと、長き時の重みは

誰も口を挟めない程に深く沈んでいた。


「すまなかった⋯⋯⋯ティアナ」


その名を口にした瞬間──

猫の瞳が、大きく見開かれた。


透き通る蒼の瞳孔が一気に広がり

耳がぴんと立つ。


「⋯⋯あっ!」


時也の驚きの声が漏れたのと同時に

猫は彼の腕からふわりと飛ぶと

一直線にアリアの胸元へと飛び込んだ。


勢いを殺すことなく

アリアの胸に顔を押し当て

小さな身体が震えた。


そして

猫はアリアの頬に残された爪痕をそっと舐めた。


温かな舌の感触が血の残滓をすくい取り

やがて彼女の頬にその額を擦り寄せた。


「⋯⋯ありがとう。

お前は、私の⋯⋯唯一の友だったな⋯⋯」


その囁きは震えていた。


「⋯⋯手に掛けるのが

どれほど⋯⋯辛かったか⋯⋯⋯」


アリアは、猫を両腕で優しく抱きしめた。


その白い身体を、紅く染まった服の上に包み込み

頬を猫の額に寄せて目を閉じる。


小さな嗚咽のような息遣いと共に

彼女の長い睫毛の先から一粒の涙が溢れた。


それはただの水ではなかった。


限界まで押し込めた哀しみ

溢れるように募った懺悔

千年という時の底で濾過され

凝縮された感情の結晶──


透明な、まるで朝露に似た美しき光の粒。

それはそっと頬から滑り落ち、床に──


カラリ。


美しい音を立てて、転がった。


時也はゆっくりと膝をつき

目の前に落ちたそのひと雫を手に取った。


掌の中で揺れるそれは

まるで命の欠片のように

仄かに光を反射していた。


──アリアの涙の宝石。


それは、彼女が心から流した

数少ない〝感情〟の証だった。

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