第121話 気品を纏う雪原
「⋯⋯とりあえず、連れて中に戻りましょうか。
朝食の時間ですしね」
静かに微笑んだ時也が
しゃがんでそっと腕を差し出すと
猫は一度だけ、その蒼の瞳で彼を見つめ──
そして、ふわりと身を預けた。
長い毛並みが
日の光に銀灰色の光沢を帯びて揺れる。
その小さな身体は、意外なほど軽かった。
猫は抵抗する様子もなく
まるで最初からそう決めていたかのように
時也の腕の中にすっぽりと収まった。
肉球がやわらかく彼の腕を踏み
長い尾がゆるく巻きつく。
時也の胸元で丸くなった猫を見下ろしながら
レイチェルがぱっと目を輝かせた。
「ねぇねぇ、時也さん!この子、飼うの?」
軽く弾む声に
時也は苦笑を含ませながら答えた。
「ふふ。
先ずはアリアさんに
お伺いを立ててから⋯⋯ですね」
その名を聞いた瞬間
どこかで風の音が強くなった気がした。
まるで猫ですら
その名の威厳を理解しているかのように
耳がぴくりと動く。
「得体の知れん猫を、許すかねぇ?
俺は、おちょくられたみてぇで
ムカついてっけど」
ソーレンがぶっきらぼうに吐き捨て
わざと時也の隣を大股で通り過ぎる。
猫はちらりとも視線を寄せず
むしろ時也の腕の中で喉を鳴らしていた。
「猫の方は
お前の事など気にも止めておらんようだがな」
青龍が、肩を払うようにしながら
面白くもなさそうに呟いた。
ソーレンの額にまたもや青筋が浮かぶが
猫の方は完全に無関心を貫いたまま
気持ちよさそうに身体を丸めて目を細める。
「はぁ⋯⋯ったく、どいつもこいつも⋯⋯」
そうぼやきながらも
ソーレンはレイチェルの横に並び
ついでのように彼女の背を軽く押した。
「⋯⋯まぁ。腹ぁ減ったし、朝メシにしようぜ」
「うんっ!わたしも、お腹ぺこぺこ!」
四人と一匹は朝の日差しの中
喫茶桜の玄関をくぐっていった。
抱かれた猫だけが
最後にひとつだけ振り返り──
まるで、何かを想うかのように
静かに目を細めた。
⸻
「⋯⋯少しの間
ここで待っていてくださいね?
朝食が終わったら洗って差し上げましょう」
時也は優しく声をかけながら
玄関のマットの上にそっと猫を降ろす。
その手が一度だけ撫でるように背中を過ると
猫は身じろぎ一つせず
静かにその場に香箱座りをした。
知らぬ場所の匂いを確かめるように
鼻先を軽く震わせながら周囲を見渡すと──
やがて瞳を閉じ、しっぽを体に巻き付けて
まるでその場に溶け込むように
穏やかに待ち始めた。
「ふふ⋯⋯お利口さんですね。
では、少しお待ちくださいね?」
時也は扉の前で一度だけ振り返り
静かに微笑むと、リビングへ戻っていった。
扉の向こう
朝の喫茶桜の居住スペースのリビングは
あたたかな朝食の香りに満ちていた。
全員がそれぞれ席につき
すでに並べられた食器と湯気の立つ食事に
自然と笑顔がこぼれる。
時也も手を洗ってから
アリアの隣へと腰を下ろした。
「では、どうぞお召し上がりください」
その一声で、皆が手を合わせる。
「いただきます!」
レイチェルが元気よく声をあげ
ソーレンもぶっきらぼうにそれに続く。
青龍は椅子の上で正座のまま丁寧に一礼し
アリアは無言でフォークを取った。
会話が交わされる中
時也はふと、手を止めてアリアに向き直る。
アリアは静かにパンをちぎり
黙々と口に運んでいた。
「アリアさん。
先程、庭に猫がおりまして⋯⋯
それが、少し不思議な猫なのです」
その言葉に、アリアの指先が止まる。
だが顔を上げることはせず
ただ耳を傾けるように微かに睫毛を揺らす。
「その猫は──結界のようなもので
青龍を閉じ込めておりました」
青龍も補足するように、静かに口を開いた。
「水面のように美しい
まるで、異空間のような結界でございました」
時也と青龍の言葉に
アリアの眼差しがゆっくりと上がる。
静かな深紅が
時也の鳶色と真っ直ぐに交差した。
「朝食の後
その子を洗ってからお連れしますね。
雑菌やノミなどがあれば、大変ですから」
アリアはただ一度、確かに頷いた。
その仕草だけで、時也の表情はやや緩んだ。
食事を一人手早く終えると
時也は食器を整えながら
レイチェルへと声をかけた。
「レイチェルさん
アリアさんに食後のコーヒーを
お願いしてもいいですか?」
「はーい!」
レイチェルの明るい返事に
時也は小さく会釈をし、席を立った。
シンクへ食器を運び終えると、玄関へ向かう。
扉を開けると、猫は先程と同じ姿勢のまま
香箱を組んでじっとしていた。
「⋯⋯お待たせしました」
静かに語りかけながら
時也は膝をついて猫を抱き上げる。
猫はやはり抵抗することもなく
時也の腕の中で丸くなり
ただ小さく喉を鳴らすような震えを見せた。
(⋯⋯賢い猫さんで、助かりましたね)
そう心中で思いながら
時也はバスルームへと向かっていった。
猫を降ろして浴室の扉を静かに閉めると
時也は着物の袖を襷紐で纏めていく。
ぬるま湯の張られた浴槽の傍で
猫を前に椅子に腰を下ろした。
「さあ、少し失礼しますね⋯⋯
嫌だったら、ごめんなさい」
小さく囁きながら
まずはぬるま湯を指ですくって背にかける。
⋯⋯だが、猫はまったく動じなかった。
むしろ目を閉じて
まるで湯の温もりを楽しんでいるかのような
表情を浮かべる。
その姿に、時也は内心の驚きを隠せなかった。
(⋯⋯もっと、手間取るかと思いましたが)
泡立てた石鹸を指の腹で馴染ませると
毛並みの奥に溜まっていた
灰色の汚れが徐々に落ちていく。
それとともに現れたのは、眩いほどに白い毛。
「ふふ。
貴女⋯⋯凄い美人さんだったのですね」
真珠のように輝く毛並みが
濡れた身体に沿って張りついている。
その毛色は、まるで雪原を思わせる純白だった。
湯をかけて泡を流し終えた後
時也は大きめのバスタオルで
猫の身体を丁寧に包む。
「すっきりしましたか?
では、しっかり拭いてあげましょうね」
猫は再び目を細め、まるで擽ったいような表情で
タオルに身を委ねていた。
ドライヤーの微風をあてながら
時也は手櫛で毛を梳かしていく。
毛並みはふわりと広がり
艶やかに光を帯びてゆく。
「⋯⋯綺麗ですね。まるで、雪のようです」
手の中の命に、時也は微かに微笑んだ。
まるで、どこかの貴族にでも飼われていたような
不思議な気品と存在だった。




