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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
手は繋げずとも

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123/211

第121話 気品を纏う雪原

「⋯⋯とりあえず、連れて中に戻りましょうか。

朝食の時間ですしね」


静かに微笑んだ時也が

しゃがんでそっと腕を差し出すと

猫は一度だけ、その蒼の瞳で彼を見つめ──

そして、ふわりと身を預けた。


長い毛並みが

日の光に銀灰色の光沢を帯びて揺れる。


その小さな身体は、意外なほど軽かった。


猫は抵抗する様子もなく

まるで最初からそう決めていたかのように

時也の腕の中にすっぽりと収まった。


肉球がやわらかく彼の腕を踏み

長い尾がゆるく巻きつく。


時也の胸元で丸くなった猫を見下ろしながら

レイチェルがぱっと目を輝かせた。


「ねぇねぇ、時也さん!この子、飼うの?」


軽く弾む声に

時也は苦笑を含ませながら答えた。


「ふふ。

先ずはアリアさんに

お伺いを立ててから⋯⋯ですね」


その名を聞いた瞬間

どこかで風の音が強くなった気がした。


まるで猫ですら

その名の威厳を理解しているかのように

耳がぴくりと動く。


「得体の知れん猫を、許すかねぇ?

俺は、おちょくられたみてぇで

ムカついてっけど」


ソーレンがぶっきらぼうに吐き捨て

わざと時也の隣を大股で通り過ぎる。


猫はちらりとも視線を寄せず

むしろ時也の腕の中で喉を鳴らしていた。


「猫の方は

お前の事など気にも止めておらんようだがな」


青龍が、肩を払うようにしながら

面白くもなさそうに呟いた。


ソーレンの額にまたもや青筋が浮かぶが

猫の方は完全に無関心を貫いたまま

気持ちよさそうに身体を丸めて目を細める。


「はぁ⋯⋯ったく、どいつもこいつも⋯⋯」


そうぼやきながらも

ソーレンはレイチェルの横に並び

ついでのように彼女の背を軽く押した。


「⋯⋯まぁ。腹ぁ減ったし、朝メシにしようぜ」


「うんっ!わたしも、お腹ぺこぺこ!」


四人と一匹は朝の日差しの中

喫茶桜の玄関をくぐっていった。


抱かれた猫だけが

最後にひとつだけ振り返り──


まるで、何かを想うかのように

静かに目を細めた。



「⋯⋯少しの間

ここで待っていてくださいね?

朝食が終わったら洗って差し上げましょう」


時也は優しく声をかけながら

玄関のマットの上にそっと猫を降ろす。


その手が一度だけ撫でるように背中を過ると

猫は身じろぎ一つせず

静かにその場に香箱座りをした。


知らぬ場所の匂いを確かめるように

鼻先を軽く震わせながら周囲を見渡すと──


やがて瞳を閉じ、しっぽを体に巻き付けて

まるでその場に溶け込むように

穏やかに待ち始めた。


「ふふ⋯⋯お利口さんですね。

では、少しお待ちくださいね?」


時也は扉の前で一度だけ振り返り

静かに微笑むと、リビングへ戻っていった。


扉の向こう

朝の喫茶桜の居住スペースのリビングは

あたたかな朝食の香りに満ちていた。


全員がそれぞれ席につき

すでに並べられた食器と湯気の立つ食事に

自然と笑顔がこぼれる。


時也も手を洗ってから

アリアの隣へと腰を下ろした。


「では、どうぞお召し上がりください」


その一声で、皆が手を合わせる。


「いただきます!」


レイチェルが元気よく声をあげ

ソーレンもぶっきらぼうにそれに続く。


青龍は椅子の上で正座のまま丁寧に一礼し

アリアは無言でフォークを取った。


会話が交わされる中

時也はふと、手を止めてアリアに向き直る。


アリアは静かにパンをちぎり

黙々と口に運んでいた。


「アリアさん。

先程、庭に猫がおりまして⋯⋯

それが、少し不思議な猫なのです」


その言葉に、アリアの指先が止まる。


だが顔を上げることはせず

ただ耳を傾けるように微かに睫毛を揺らす。


「その猫は──結界のようなもので

青龍を閉じ込めておりました」


青龍も補足するように、静かに口を開いた。


「水面のように美しい

まるで、異空間のような結界でございました」


時也と青龍の言葉に

アリアの眼差しがゆっくりと上がる。


静かな深紅が

時也の鳶色と真っ直ぐに交差した。


「朝食の後

その子を洗ってからお連れしますね。

雑菌やノミなどがあれば、大変ですから」


アリアはただ一度、確かに頷いた。

その仕草だけで、時也の表情はやや緩んだ。


食事を一人手早く終えると

時也は食器を整えながら

レイチェルへと声をかけた。


「レイチェルさん

アリアさんに食後のコーヒーを

お願いしてもいいですか?」


「はーい!」


レイチェルの明るい返事に

時也は小さく会釈をし、席を立った。


シンクへ食器を運び終えると、玄関へ向かう。


扉を開けると、猫は先程と同じ姿勢のまま

香箱を組んでじっとしていた。


「⋯⋯お待たせしました」


静かに語りかけながら

時也は膝をついて猫を抱き上げる。


猫はやはり抵抗することもなく

時也の腕の中で丸くなり

ただ小さく喉を鳴らすような震えを見せた。


(⋯⋯賢い猫さんで、助かりましたね)


そう心中で思いながら

時也はバスルームへと向かっていった。


猫を降ろして浴室の扉を静かに閉めると

時也は着物の袖を襷紐で纏めていく。


ぬるま湯の張られた浴槽の傍で

猫を前に椅子に腰を下ろした。


「さあ、少し失礼しますね⋯⋯

嫌だったら、ごめんなさい」


小さく囁きながら

まずはぬるま湯を指ですくって背にかける。


⋯⋯だが、猫はまったく動じなかった。


むしろ目を閉じて

まるで湯の温もりを楽しんでいるかのような

表情を浮かべる。


その姿に、時也は内心の驚きを隠せなかった。


(⋯⋯もっと、手間取るかと思いましたが)


泡立てた石鹸を指の腹で馴染ませると

毛並みの奥に溜まっていた

灰色の汚れが徐々に落ちていく。


それとともに現れたのは、眩いほどに白い毛。


「ふふ。

貴女⋯⋯凄い美人さんだったのですね」


真珠のように輝く毛並みが

濡れた身体に沿って張りついている。


その毛色は、まるで雪原を思わせる純白だった。


湯をかけて泡を流し終えた後

時也は大きめのバスタオルで

猫の身体を丁寧に包む。


「すっきりしましたか?

では、しっかり拭いてあげましょうね」


猫は再び目を細め、まるで擽ったいような表情で

タオルに身を委ねていた。


ドライヤーの微風をあてながら

時也は手櫛で毛を梳かしていく。


毛並みはふわりと広がり

艶やかに光を帯びてゆく。


「⋯⋯綺麗ですね。まるで、雪のようです」


手の中の命に、時也は微かに微笑んだ。


まるで、どこかの貴族にでも飼われていたような

不思議な気品と存在だった。

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