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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
蒼の戯れ

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120/201

第118話 言葉はなくとも──

夜もすっかり更け

喫茶桜の静けさが寝室にまで染み渡る頃──


時也とアリアは

いつも通り二人きりの時間を過ごしていた。


灯りを落とし

淡い橙の明かりだけが壁を優しく照らす。


ふと──

時也は記憶の隅に引っかかっていた感覚に

突き動かされるように

箪笥の引き出しから、昨日の着物を取り出した。


広げたその布地に、彼は眉を顰める。

薄布の随所に走る、細く鋭い裂け目。


それはまるで──

微細な刃物、あるいは鋭利な糸に

引っ掛けられたかのようだった。


さらに布地の一部は

黒ずんだ染みで硬くなっている。


乾いた血だった。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


声を漏らすわけでも無く

ただただ思案の沼に沈んでいくように

時也はその着物を見下ろしていた。


床に広げ、膝を折り

そこにある無惨な痕跡を睨みつけるその表情は

冷静な分析と拭えぬ疑念

そしてどこか焦燥の色を帯びていた。


そんな時也の姿を

アリアは静かに鏡越しに見つめていた。


鏡面台に腰掛け、緩やかに金の髪を梳きながら

彼の横顔を──

その沈んだ目を──


じっと見ていた。


やがて

音もなく立ち上がったアリアは床に膝をつくと

背後から時也の身体をそっと抱きしめた。


その腕は、氷のように冷たく

それでいて彼だけを暖める

炎のように確かだった。


「⋯⋯アリアさん?」


驚いたように振り向こうとした時也の頬を

アリアの白い指が静かに撫でる。


時也はそのまま彼女の腕を軽く取り

自分の前にアリアを座らせるように導くと

互いの身体を正面から抱きしめた。


肩越しに、アリアは床にある着物を見下ろした。


そこには──確かにあった。

誰かが、彼を傷つけた痕跡。


それも

時也が一切気付かぬほど巧妙に、確実に。


無言の激情が、アリアの胸に広がる。


怒り、憎悪

そして──恐れ。


再び彼が奪われるかもしれないという

決して誰にも知られたくないほどの

ひそやかな⋯⋯恐れ。


アリアは時也の背に腕を回したまま

もう片方の手で、そっと着物の裾に触れた。


微かに、燃え上がる音。


一瞬で

着物は炎に包まれ──塵となって床に舞った。


「⋯⋯っ!」


時也がその異変に気付いて

顔をそちらに向けようとするが──


アリアはそれを許さず

両手で彼の頬を覆い、再び正面に向かせる。


氷のような手が

けれど強く、真っ直ぐに時也を捉えた。


「⋯⋯お前は、私が──護る」


その一言は、静かで

それでいて確かな決意の声だった。


「アリアさん⋯⋯ふふ。

僕は──貴女の夫ですよ?

護るのは、僕でなければ困ります」


言葉を紡げば、すべてを壊してしまいそうで──

アリアは時也の唇に容赦なく自らの唇を重ねた。


唇は熱を帯び

感情を、想いを、叫びを

すべて沈黙のまま伝えていく。


静けさの中にただ

心と心のぶつかる音があった。


アリアの指は震え、時也の背を強く抱き締める。


まるで、それを離してしまえば

またあの悪夢の日々ように──

彼が消えてしまうかのように。


時也はその全てを、言葉なく受け止める。


アリアが語らぬ想いも、張り詰めた温もりも

彼女の全てを、その胸の奥に刻むように。


静かな夜に

二人の影だけが、長くひとつに重なっていた。



静まり返った夜の寝室に

二人の乱れた呼吸だけが──

ゆっくりと落ち着いていく。


しっとりと火照った身体を

時也とアリアは裸身のまま

互いに抱きしめていた。


重なった胸の鼓動が

ようやく静寂と調和し始めた頃──

時也が、ふっと息を吐いた。


「⋯⋯もう、アリアさん⋯⋯

あんな恥ずかしい発言は

人前では控えてください⋯⋯

僕の心臓が持ちませんよ」


彼女を胸に抱きながら

穏やかに笑みを浮かべてそう囁く。


アリアはその腕の中

目を伏せながらも、僅かに首を傾げる。


表情は相変わらず無表情にも見えるが

瞳だけが僅かに揺れていた。


ほんのりと紅潮した頬と、まだ熱を宿す肌。


そして何より、その仕草──

小首を傾げたその微かな動きが

彼女なりの照れの現れであることを

時也は知っていた。


「ふふ⋯⋯。

ですが、本音を言えば、嬉しかったんですよ。

アリアさんが皆の前で

僕に向けてくれた言葉⋯⋯」


掌が、アリアの背をゆっくりと撫でる。


「⋯⋯おかげで、今夜はぐっすり眠れそうです」


そう告げながら

時也はゆっくりと身体を起こし

アリアをそっと抱き上げるように引き寄せた。


そして目を閉じ、重なるように

そっと──だが深く、彼女の唇を奪う。


唇と唇が重なった瞬間

アリアの身体が僅かに震える。


舌が触れ合い、唇の端から吐息が漏れ出す。


その呼吸すら飲み込むように

時也は濃密に、心を込めてキスを交わした。


この時間が、永遠であってほしい──


そんな想いを秘めて、唇を離すことなく

何度も角度を変えながら、深く口づけを続ける。


指先はそっとアリアの腰を撫で上げ

やがて彼女の頬へ、耳元へと移動する。


彼女の、まだ熱を孕んだ耳に飾られた

紅のピアスがほんの微かに揺れた。


チリ──と

微かな音が、時也の指先の中で鳴る。


(僕が、貴女を必ず護ります──!)


指先は再び頬へと戻り

時也はもう一度、深く、ゆっくりと唇を重ねた。


言葉も何も介さず

ただ想いだけが触れ合うキスだった。


彼の愛と、祈りと、願いをすべて込めた

沈黙の口づけ。


アリアの長い睫毛が揺れ

腕がぎゅっと時也の背を抱きしめる。


唇を離した時、二人の額がそっと触れ合った。


夜はまだ静かで、深くて──

愛し合った後のその温もりの中で

二人は寄り添い、微睡むように瞳を閉じた。

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