第12話 新しい朝
朝の陽光が薄いカーテンを透かして
柔らかに差し込んでいた。
その光は、まるで淡く溶ける金色の霧のように
室内の空気を優しく染め上げている。
レイチェルは、ゆっくりと瞼を開いた。
視界に映るのは、丁寧に磨かれた木目の天井。
自然のままの節目が穏やかに並び
どこか懐かしさを誘う温もりがあった。
(⋯⋯ここ⋯⋯どこだっけ?)
目覚めの鈍い思考が
寝惚けた意識の海をふらふらと彷徨う。
けれど、肌に触れる柔らかなシーツの感触と
身体を包み込むような温かさが
ここが安全な場所であることを教えていた。
〝喫茶 桜〟
その言葉が
ふわりと記憶の底から浮かび上がってくる。
昨日の出来事──
時也との会話、アリアの静かな瞳
鈴を受け取ったときの掌のぬくもり。
すべてが夢ではなく、現実だった。
「⋯⋯ゆ、夢じゃ⋯⋯なかったぁぁぁ!」
跳ね起きるように上体を起こし
思わず声が漏れる。
それに気付いて、慌てて口元を押さえた。
胸の内から、ふわりと安堵が広がる。
(良かった⋯⋯)
ちゃんと、此処に居場所があった。
確かに、彼のあの言葉は本物だったのだ。
壁の時計に目をやると、短針は八を指していた。
(もう八時か⋯⋯)
朝の支度に追われる音もせず
ただ静かに、優しい時間が流れている。
部屋を出たレイチェルの足元には
木の床が靴下越しにしっとりと心地好い感触を
伝えてきた。
階段を降りて扉を開けると
広々としたリビングが目に入る。
白を基調とした空間には
クラシックな家具が上品に配置され
窓辺から差し込む陽光が
調度品の縁を淡く照らしていた。
テーブルの向こう側にいたのは──
新聞を広げ
眼鏡越しに記事へ視線を走らせる時也。
隣では
アリアが静かにカップを唇に運んでいた。
無言ながらも
そこには朝の穏やかな営みがあった。
「⋯⋯お、おはようございます⋯⋯っ」
一歩踏み出し、少し緊張を滲ませて声を掛ける。
「おはようございます、レイチェルさん。
しっかり休めましたか?」
新聞から顔を上げた時也は
柔らかな笑みを浮かべていた。
その眼差しには、変わらぬ優しさが宿っている。
「はい! 久しぶりに、ぐっすりと!」
ぱっと明るく答えるレイチェルに
彼は微笑を深めた。
その隣でアリアも
無表情ながら静かに深紅の瞳を向けてくる。
その眼差しには、昨日よりもわずかに──
ほんの僅かに、柔らかさが宿っていた。
「今、お食事をお持ちしますね。
どうか、掛けてお待ちください」
そう言って時也は椅子を引き
静かに立ち上がった。
「は、はい……っ」
促されるまま
レイチェルは椅子に腰を下ろした。
ほのかに漂うコーヒーの香りが
緊張した身体を解していく。
静寂と香りの中
アリアと二人きりという状況に
思わず視線が彷徨う。
気まずい──
というより、ただただ緊張する。
まるで
目の前の女性が人ならぬ存在であることを
本能で感じ取っているかのようだった。
ほどなくして
時也が朝食を載せたトレイを手に戻ってきた。
その所作は無駄がなく、皿が揺れることもない。
目玉焼きにこんがり焼けたベーコン、トースト
瑞々しいサラダ、スープ
角切りの果物が添えられたプレート。
湯気の立つスープが
ほっとする香りを立ち昇らせていた。
「さてと⋯⋯」
時也はトレイをテーブルに置くと
懐から襷紐を取り出す。
片端を口に咥え、袖をくるりとたくし上げ
肩の後ろで結ぶ。
慣れた動きで無駄がなく、完成したその姿は
どこか凛々しい空気をまとっていた。
静かな職人の風格──
彼の別の顔が、そこにあった。
「⋯⋯何か?」
視線に気づき、時也が微笑む。
「あ⋯⋯すみません、つい⋯っ」
「ふふ。いいんですよ。
自分では慣れた動きでも
他人の目には新鮮に映るものですからね」
そう言って彼が差し出したのは
喫茶店の制服だった。
「お食事が済みましたら
こちらに着替えてください。
先ずは、お店の雰囲気に
慣れていただこうと思っています」
「⋯⋯私も、ここで……働いて良いんですか?」
その問いには、ほんの僅かな震えがあった。
「もちろんですよ。
今日は、良かったら
奥のテーブルで動きを見ていてください」
「⋯⋯はいっ!」
言葉がはっきりと返せたのは
不思議なほど自然な感情だった。
「では、後程⋯⋯店内でお待ちしていますね」
そう告げて、時也はアリアに視線を向ける。
軽く頷いた彼女と共に
喫茶へと繋がる扉の奥へと姿を消した。
扉が静かに閉まる。
レイチェルは、ゆっくりと朝食へ目を移した。
湯気の立つコンソメスープに
そっとスプーンを浸す。
ひと口──
「⋯⋯あ」
口いっぱいに広がる、優しい味わい。
野菜の甘みが溶け込んだスープは、温かくて
どこか懐かしい。
まるで、時也の優しさが
そのまま形になったような味だった。
目を閉じる。
涙ではない
ただ、胸の奥があたたかくなる感覚に
包まれながら──
「んぅ〜、美味しっ!
⋯⋯本当に、来て良かったぁ⋯⋯っ」
レイチェルは、心からそう思った。
新しい朝、新しい居場所。
それは、ほんの一歩を踏み出しただけの
まだ名もない始まり。
けれど──
それは確かに、希望の匂いがした。
⸻
静かに扉を押し開けたレイチェルの視界に
穏やかな朝の光が差し込む
喫茶店の店内が広がった。
まだ開店前の静けさが残る空間。
だが、その中には確かに
生命が息付いている気配があった。
ふわり──
足を踏み入れた瞬間
焼きたての香りが鼻腔をくすぐる。
香ばしく甘やかな匂い。
バターが溶け、焦げ目を帯びた生地の芳しさが
空気に混ざり合っていた。
(スコーン……?それともパイかな……?)
確かな正体は分からない。
けれどその香りは、どこか懐かしく
胸の奥をくすぐる優しさを宿していた。
その香りに、深く息を吸い込む。
心が、静かに落ち着いていくのを感じた。
そこに混じるのは
しっかりと焙煎されたコーヒーの香り。
甘やかさと苦みが織り交ざり
まるで此処が〝日常の始まりの場所〟だと
告げているかのようだった。
レイチェルは、胸元に手を添え
自然と笑みをこぼした。
視線を落とせば、身に纏った制服が目に映る。
真新しい白のワイシャツ。
黒のスカートは膝丈で
程よく動きやすくデザインされている。
その布地には
小さな桜の刺繍があしらわれていた。
胸元や袖口、裾の一部に控えめに咲く桜──
ふわりと揺れるたび
優しい温もりを宿すように花弁が踊っていた。
腰に巻いたサロンエプロンにも
同じ桜の意匠が施されている。
「⋯⋯素敵な制服」
小さく呟く声には、心からの喜びが滲んでいた。
その時──
ふと、誰かの視線を感じて顔を上げる。
硝子張りの特設席。
その奥に座るアリアの姿があった。
深紅の瞳──
まるで燃えるような紅玉のような色彩が
真っ直ぐにレイチェルを射抜いていた。
(⋯⋯怒ってる訳じゃ、ないんだもんね⋯⋯?)
思わず胸がざわつく。
だが──それが杞憂だと、一瞬で理解できた。
アリアの口元が、ほんの僅かに──
けれど確かに、柔らかく緩んだ気がしたからだ。
その一瞬は幻のように儚く
しかし確かに彼女の心を打った。
──カラン。
「嬢ちゃん」
突然の声に、レイチェルの肩が跳ねた。
振り向けば、カウンターの奥にソーレンがいた。
手にはシルバーのポリッシュクロスを持ち
器用な指先でカトラリーを磨いている。
「制服、すげぇ似合うじゃねぇか」
少しぶっきらぼうな言い回し。
だがその声色には
からかいよりも素直な称賛が感じられた。
「えっと⋯⋯ありがとうございます」
ぎこちなく返しながらも
レイチェルは彼の方へ歩み寄っていく。
「⋯⋯なぁ?
時也には、気をつけろよ?」
「え?」
意味が分からず眉を寄せると──
「⋯⋯あいつ、アリアと仕事に関しちゃ
うぜぇくらいに細けぇからな」
潜めてるように
だが、わざとらしく大きめの声。
きっと時也に聞こえるよう、わざとなのだろう。
思わず口元に苦笑が浮かぶ。
(時也さん⋯⋯絶対、聞こえてるよね⋯⋯)
目だけで店内を見回す。
整った空間、磨き上げられたカウンター。
ソーレンが自称していた
〝綺麗好き〟という言葉は
確かにその通りだった。
──だが。
(⋯⋯惜しい、なぁ)
シルバーはどれも丁寧に磨かれている。
けれど配置が雑で
バスケットの中でフォークとナイフが入り混じり
スプーンが縁に飛び出ている。
〝磨く〟ことには長けていても
〝整える〟ことには、少し不器用らしい。
レイチェルは、ほんの一瞬だけ迷った。
けれど次の瞬間
迷いを捨てるように、指を鳴らす。
──パチン
空気が微かに揺れた。
艶やかな黒髪がふわりと風を孕み
瞬く間に茶色の髪へと変化する。
その瞳は、透き通るような蒼。
制服はそのままだが
足元にはローラースケートが現れた。
コロコロと柔らかく車輪が回る音が
床を滑るように響く。
数年前、街のダイナーで出会ったある女性。
どんなに混雑する店内でも笑顔を絶やさず
きびきびと動いていたあのウエイターの姿──
今、レイチェルはその姿を借りていた。
軽やかなステップで滑りながら
テーブルを巡っていく。
手際よく、流れるように。
カトラリーはバスケットの中で整然と並び
テーブルクロスの皺を指先で伸ばし
椅子の位置も揃えていく。
その動きには、一切の無駄がなかった。
──そして。
再びソーレンの前にピタリと止まり
ふわりと髪が揺れる。
次の瞬間──
黒髪のボブカットとエメラルドグリーンの瞳が
戻っていた。
擬態は解かれ
レイチェルは再び今の〝自分〟に戻る。
(⋯⋯三十分。
それ以上擬態すると──
私は〝私〟でなくなってしまう)
擬態の限界は、経験と感覚で知っている。
だからこそ
迷いなく、冷静に引き際を見極めた。
「⋯⋯ほぉ。嬢ちゃん、やるな」
ソーレンが、驚きを隠さない声で呟いた。
初めて見た擬態能力。
だが、拒絶も困惑もなかった。
(⋯⋯こんなにも
あっさり受け入れられるなんて)
レイチェルの心が、ふわりと軽くなっていた。
「ふふ!
私は、嬢ちゃんだなんて名前じゃないですよ!」
言いながら、ぺろりと舌を出す。
「レイチェルです!よろしくお願いしますね!」
しっかりと名乗ったその声には
今までにない自信が宿っていた。
「それに、本当の私は──
貴方よりも、もしかしたら歳上かもですよ?
ソーレン?」
あえて〝さん〟を付けず、親しげに呼ぶ。
その瞬間──
「なっ──!」
ソーレンは明らかに動揺し
耳まで真っ赤に染まっていく。
「⋯⋯⋯ったく。女って⋯⋯めんどくせぇ⋯⋯」
ぷいっと顔を背け
頭をガシガシと搔く仕草が、妙に年若く見えた。
「ふふっ」
つい、声を漏らして笑ってしまう。
(⋯⋯この人、ぶっきらぼうっていうより──
コミュニケーション下手なだけなんだろうな)
そう気付いた時
ふとした親しみが胸に芽生えた。
昨日までの緊張と不安は
もうどこにもなかった。
──確かに今、彼女はここで息をしている。
新たな一日が始まろうとしていた。




