第117話 沼と甘い誘惑
パンケーキの
香ばしい香りが満ちる喫茶桜の午後。
穏やかに流れる空気の中で──
時也の視線だけが
ある一点に釘付けにされていた。
絆創膏に大きく広がり──滲んだ紅。
「⋯⋯絆創膏、取り替えましょうか?」
不意に放たれたその言葉に
ソーレンがパンケーキを切る手を止め
もぐもぐと口を動かしながら
目線だけで時也を見上げた。
「⋯⋯あ?おう、サンキュー」
気怠げな声とは裏腹に
彼の声には少しだけ
照れくさそうな響きが混じっていた。
時也は戸棚から救急箱を取り出すと
パンケーキを口いっぱいに頬張るソーレンの隣に
腰を落とす。
そして、そっと彼のこめかみに貼られた
絆創膏に指先を添えた。
柔らかく、優しく。
まるで子供の傷に触れるかのように
慎重に剥がしていく。
「ちょ⋯⋯!いっぺんに剥がせよ!
くすぐったいっつーの」
ぶつぶつと文句を言いながらも
ソーレンは黙って任せていた。
やがて露わになった傷口に
時也の手がふと止まる。
そこには、紅く腫れた皮膚に
深く刻まれた裂傷が走っていた。
乾いた血の縁には
傷の深さを物語るかのような痛ましさがある。
(⋯⋯いったい、どれだけ派手に転んだら
こんな傷に⋯⋯)
胸に小さな違和感が芽生える。
時也は消毒綿を取り出し
傷口にそっと押し当てた。
「くぅ⋯⋯!しみる──っ!」
小さく呻くソーレンに
時也は僅かに微笑みながら消毒を施していく。
一枚では足りず、もう一枚新しいものをと
汚れた消毒綿を捨てようとした
瞬間──
チリッと光る何かが
血の滲んだ白い綿に紛れて見えた。
(これは⋯⋯硝子片?)
小さな破片。
それは明らかに路面の砂利や石ではない──
人工物の煌めきだった。
(街中とはいえ⋯⋯
落ちていた瓶でも踏んだんでしょうか?
いや、それにしても⋯⋯)
不審な思考が、頭をもたげてくる。
ソーレンほどの戦闘経験者であれば
たとえバナナの皮を踏んだとしても
無意識に受け身を取るはず──
それが出来ないほどの〝何か〟があった⋯⋯?
「レイチェルさん⋯⋯」
時也の声が、思案の色を含んで低く落ちた。
「ん?なぁに?時也さん」
ふわりと笑って、レイチェルが振り返る。
「ソーレンさんが転んだ時の様子を
教えてください。
出来れば──事細かに、お願いします」
「おい!揶揄う気かよ!」
ソーレンが声を荒げるのを他所に
レイチェルはけらけらと笑いながら答えた。
「えっとね──
あれはお店を出て、少し歩いたときだったの!
新作アクセ見た帰りでテンション高く話してたら
ソーレンが前を歩いてて──
いきなり『うおっ!?』って叫んで
足元で、何かがぬるっと滑って
重心崩して──ドカン!って!」
「ドカン!って──お前、俺は爆弾かよ⋯⋯」
「でも本当に派手だったんだから!
そしたら、頭ぶつけちゃってて
あっという間に大きな絆創膏コースよ!
私も慌てちゃったし結構心配したんだからね?」
(⋯⋯本当に?)
彼女の話に、齟齬は感じられない。
表情も声色も普段のレイチェルそのものだった。
だが──
傷の形はまるで──
ボトルの角のような直線的な切創。
皮膚が裂かれた形は
ただ転んだだけではできない。
しかも、混じっていたのはガラス片のみ。
砂利は、ない。
(⋯⋯まるで、誰かに殴られたような──)
そこまで考えた時
ふと過ぎるのは、先ほどの自分の失態。
脚立代わりに持ち上げたソーレンが
自分に振り落とされ
何の抵抗もなく落ちてきたあの瞬間。
彼は、完全に身を預けていた。
──信じていたのだ。
〝時也が落とさないと〟──
(⋯⋯信頼していたから、無防備でいた)
それがもし、この傷も同じだったとしたら⋯⋯?
「おい⋯⋯おいって!
時也!さっきから顔が近ぇんだよ!!」
肘で小突かれ
時也は思考の深みから引き戻された。
「あ⋯⋯あぁ、すみません」
取り繕うように微笑みながら
再び視線を傷口に落とす。
冷静を装いながら
もう一度その形を色を⋯⋯脳裏に焼きつけた。
そして、新しい絆創膏を丁寧に貼り直す。
「⋯⋯はい、これで大丈夫です」
「ったく。変なトコで気ぃ遣ってくんだな⋯⋯」
パンケーキに戻るソーレンの横顔を見つめながら
時也の心に渦巻く〝違和感〟は
確信へと近付いていく──
だがその先は、まだ霧の中だった。
かすかな焦燥が、喉の奥をひりつかせていく。
喫茶桜の空気は、いつもと変わらない。
窓から差し込む午後の光
甘く香るパンケーキ、笑い声。
それなのに──
時也の胸の奥だけがしんしんと冷え続けていた。
(あの硝子片⋯⋯あの傷の形⋯⋯)
手元ではアリアのパンケーキを
一口大に切り分けながらも
意識の奥底では絶えず思考の糸を紡いでいる。
何かが、確かに起きていた。
そして、それは自分の知らない場所で。
自分の知らない時間に。
──いや、思い出せないだけなのか?
「時也さん⋯⋯大丈夫?
アリアさんのパンケーキ、もう細切れよ?」
レイチェルの声が
不安そうに時也を呼び戻した。
「⋯⋯あ!」
はっとして手を止めた時也は
自分がどれだけ同じ箇所を
ナイフで刻んでいたかに気付き
切り分けられ過ぎたパンケーキを見下ろした。
もはや一口どころか
ふわふわの生地は細かく千切られ
まるでパン粉のようになっている。
アリアは、そんなパンケーキではなく
時也そのものを見つめていた。
深紅の瞳に宿るのは、変わらずの無言──
だが、どこか不安を孕んでいるようにも見えた。
「すみません⋯⋯。
少しだけ疲れが溜まっているのかもしれません。
昨夜、あまり眠れなくて⋯⋯」
言い訳がましく、けれど素直にそう呟いた時也に
レイチェルが明るく返す。
「なら、今夜は早めに寝ないとね!」
「⋯⋯はい」
レイチェルは、ふふっと笑いながら
隣のソーレンに目を向ける。
「ソーレンも、無理はダメだからね!
痛かったら、ちゃんと休む事!」
「はいはい。
お気遣い、ありがとうよ。お喋りさん」
軽く頭を搔きながら
ソーレンは残ったパンケーキを口に放り込んだ。
そのこめかみの絆創膏が、光を反射する。
時也の瞳が、無意識にそこへ向けられた。
(⋯⋯⋯わからない)
だが、何かが決定的に違うとは解る。
そう、胸が叫んでいる。
本能と直感のざわめき⋯⋯
(何かを⋯⋯忘れている。
⋯⋯⋯いや
〝忘れさせられてる〟のだとしたら──⋯)
再び思案の沼に沈みかける時也の頬に
ひんやりとした感触が添えられた。
不意に触れた指先。
まるで白磁のように滑らかで
美しい──アリアの指だった。
「⋯⋯時也」
アリアはそのまま
そっと彼の顔を自分へ向け静かに近付く。
深紅の瞳が、鳶色の瞳をまっすぐに見つめた。
時也の鼓動が、一拍大きく高鳴る。
その距離は至近──
呼吸が⋯⋯触れ合いそうなほど。
「⋯⋯お前が良く眠れるよう
今夜は、私が⋯⋯疲れ果てさせてやろうか」
その瞬間──
「⋯⋯ぶっはッ!!」
ソーレンが
口に含んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。
同時に
レイチェルが「ふぐっ!」と奇声を上げながら
パンケーキを喉に詰まらせかけ
慌てて水をがぶ飲みしている。
「っ、アリ⋯⋯アリアさん──っ!?
い、い、今、なんと⋯⋯!」
人前で発言するとは思っていなかった内容に
時也の思考が完全に崩壊する。
顔はみるみる赤く染まり、目は泳ぎ
言葉にならない呟きだけが漏れ続けていた。
「⋯⋯アリアさん、大胆⋯⋯っ!」
レイチェルが頬を真っ赤に染め
手で顔を覆いながら
指の隙間からアリアと時也を覗いている。
その隣でソーレンは盛大に息を吐き
椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
「はぁ⋯⋯アホくせぇ」
だが、内心──彼は思っていた。
(アイツが、何を悩んでるか知らねぇけど
アリアなりの精一杯の──ズレた冗談か)
その言葉に感情がこもっていたのか
あるいは、ただ彼女らしい愛情表現だったのか。
誰にも分からなかったが──
その場に流れた空気だけは
確かに優しく、少し照れ臭かった。
違和感と言う名の〝穴〟に
片足を掴まれていようと⋯⋯




