第115話 警鐘と不協和音
喫茶桜の店内には
いつもの穏やかな空気が流れていた。
外から差し込む春の光が
カウンターやテーブルの縁に
柔らかな陰影を落としている。
仄かに漂うコーヒーと、焼き菓子の香りの中
時也は顔を伏せたまま、ゆっくりと目を開けた。
「⋯⋯時也」
その声に、背筋が震えた。
静謐な水面に小石が落ちるような──
か細く、美しく
けれど確かに耳奥へ染み入る声。
「⋯⋯あれ⋯⋯俺、は⋯⋯?」
思わず漏れたその一言に
自らもはっとして言葉を飲み込んだ。
「〝俺〟!?今の聞き違い?
時也さん、俺って言った?」
レイチェルの声が、店内に跳ねるように響く。
驚いたような、けれどどこか楽しげな声音。
すぐ隣では
アリアが無言のまま彼を見つめていた。
深紅の瞳は静かに揺れ
その瞳に宿る僅かな陰りが
言葉にしがたい心配を滲ませていた。
「⋯⋯すみません⋯⋯
寝惚けてた、ようです⋯⋯」
頭を軽く振り
時也はゆっくりと身体を起こした。
そこには木目の綺麗なテーブルがあり
その上には、途中まで挿し終えた
フラワーアレンジメントが置かれていた。
小さな春の草花──
薄桃のガーベラ、黄色いミモザ。
緑の葉がまだ整えられていない状態で
仄かな香りを放っている。
「おいおい、ボケてんじゃねーぞ?
お前、転んで頭でも打ったのか?
服もボロボロだしよ」
ソーレンが低い声で呟き
顎で時也の着物を指し示す。
時也はその言葉に
袖をたくし上げて、視線を落とす。
「⋯⋯え?」
藍色の着物は所々に裂け目があり
血の跡のような黒ずみも混じっていた。
着物の状態に反して、身体に痛みは──ない。
不死の身体が、修復したのだろうか。
「ソーレンだって
転んで頭に怪我してるじゃないの」
「てめ──レイチェル!
言うなって言ったろうが!」
「しかも⋯⋯バナナの皮で!」
ふふっと、レイチェルが悪戯っぽく笑う。
ソーレンは額の絆創膏を手で隠しながら
レイチェルを睨みつけるが
それもいつものやり取りだ。
けれど──
(こんな怪我をするような、記憶は、ない⋯⋯)
時也の中で
何かが不自然に抜け落ちているような
感覚があった。
ぽっかりと穴が空いたような
無音の空間に、立ち尽くすような違和感。
(さっきまで⋯⋯僕は、何処かにいた⋯⋯? )
記憶の糸を手繰ろうとすればするほど
頭がざらつき、輪郭がぼやけていく。
思考の奥深くで
何かが〝都合よく〟消されている──
そんな漠然とした警鐘が胸中に響いて止まない。
時也は、何気ない振る舞いのまま
そっと胸元の懐へと手を入れた。
そこに差し入れられていたはずの
束から、二、三枚──護符が抜かれている。
「⋯⋯これは」
ごく僅かに、鳶色の瞳に鋭さが戻る。
笑顔を保ったまま、指先を静かに帯へ戻した。
(⋯⋯今、この平穏の中に
何かが⋯⋯混じっている──?)
⸻
夜の空気は静かで、ひんやりと肌を撫でていた。
時也は静かに裏庭へと出ると
袖の内側から煙草を取り出し
一本、口元に咥える。
手元の小さなライターで火をつけると
微かな火花と共に、煙がふわりと立ち上がった。
その煙を見つめながら
彼は懐から携帯電話を取り出す。
すでに何度も教わったはずのその機械は
彼にとって未だに馴染みのない存在であり
指先はやや戸惑いを見せる。
「⋯⋯えぇと、ここを押して⋯⋯
これは──あぁ、違う⋯⋯」
眉を顰めながら何度か操作し
ようやく〝通話〟の画面に辿り着いた時
呼出音が耳に届いた。
表示された文字列は──『エリスさん』
時也はふっと、小さく安堵の息を吐いた。
やがて、澄んだ少女の声が携帯から響いた。
『あら、お父様!
ようやく操作を覚えたんですか?』
その奥から、もうひとつ。
くすくすと笑うルナリアの声。
まるで風鈴のように、涼やかに耳へ届く。
「こんばんは、お二人とも。
つかぬ事をお聞きしたいのですが⋯⋯
今日、こちらにいらっしゃいましたか?」
『そちらに伺うのは、来週の店休日ですよ!
お父様ったら──
そんなに楽しみにしてくださってたんですね!
嬉しいです!』
声に、不審な点はなかった。
エリスの声も、ルナリアの笑みも
音の抑揚も、間合いも、言葉選びも⋯⋯
どれも彼女達らしさに満ちていた。
しかし──
何故か、心の奥底に引っ掛かりが残る。
「はは⋯⋯。
いつだって僕は
貴女達に逢いたいと思っていますよ。
今日は──何をしていたのですか?」
『今日は
陰陽師としての仕事を頂いていましたので
二人で向かいましたわ』
「ああ⋯⋯そうでしたか。
立派になって⋯⋯僕は、誇らしく思います」
『ありがとうございます!お父様』
エリスの声は、嬉しさを滲ませていた。
携帯越しにも
娘たちの微笑む姿が見えるようだった。
だが⋯⋯それでも。
(⋯⋯おかしい。
おかしくは、ない筈⋯⋯なのに⋯⋯)
語尾ひとつ、呼吸ひとつに至るまで
完璧に〝本物〟の筈なのに──
なぜかその言葉が、心の奥に届かない。
まるで、何か透明な膜に阻まれているような⋯⋯
説明のつかない違和感が胸に淡く残った。
「また⋯⋯掛けますね。
愛してますよ、二人とも」
電話を切り、煙草の火を灰皿に押し付けて消す。
薄く立ち上った白い煙は
闇夜の中に溶けていった。
そしてその静けさの中──
時也は胸の奥にぽっかりと空いた
小さな〝穴〟を抱えたまま
ただ夜を見つめていた。




