第114話 厄災の記憶
「別に、了承してくれなくても良いよ」
甘く歪んだ声が、耳元に滑り込むように響いた。
「キミを殺してからゆっくり捕まえて⋯⋯
血を搾り取れば良いんだから。
あぁ、キミの首でもぶら下げてたら──
涙の宝石も十分に取れるだろうね?
今から楽しみだよ」
しかし──時也の心は微動だにしない。
その声は確かに
目の前に居るであろう男の口から
発せられているはずだった。
だが、届かない。
怒りも、興奮も、嘲笑すら──
何一つ、心から伝わってこない。
(あぁ⋯⋯またですか)
録音されたテープのように
繰り返すだけに聴こえる声。
恐らくこれは
目前の男の意思から発する言葉では無い。
(⋯⋯僕を操り人形で殺せるとでも
本気でお思いなのでしょうか)
時也の中に、僅かに芽生えた怒気──
だがそれは激情ではなく、凛とした怒りだった。
己の命をどうこうという話ではない。
─アリアを傷つけようとする意思─
そのものが、彼にとって最大の怒りの種だった。
目隠しの下で目を閉じたまま
時也はそっと息を吸う。
その瞬間──
(──咲きなさい)
声すら無く、彼の心が命じるだけで
空間に無数の桜の花弁が舞い上がった。
淡い桃色のそれは
ひらりと風に乗るように見えて
刃のように鋭利な意志を帯びていた。
一枚一枚が鋼鉄のように研ぎ澄まされ
静かにだが確実にピアノ線を斬っていく。
プツ──プツリ──
繊細な音が室内に連続して響き
拘束の鋼が一つ、また一つと断たれていく。
「させるか──!」
突如、男の声が響き、空気が裂ける。
時也の反応を読んだかのように大太刀が閃き──
彼の胸元へと、一直線に突き出された。
「───ッ!」
咄嗟に身体を逸らし
首筋を掠めるようにして刃を躱す。
しかし、まだ切れていなかったピアノ線が
肩口から腹にかけて肉を裂き
紅が衣をまた滲ませた。
だが、時也の表情は変わらない。
(ふぅ⋯⋯
首に絡んでいたピアノ線が切れて助かりました)
花弁たちが最後の線を断ち切り
四肢を拘束していた縄までもが
音も無く解かれる。
まるで囁くように、身体の自由が戻ってきた。
静かに、だが確かな意志で
時也は両足で床を踏み締める。
痺れと痛みの残る身体を引き起こし
ゆっくりと立ち上がった。
指先で目隠しを摘み、外す。
その奥から現れた鳶色の瞳は──
いつもの柔和な色を湛えてはいなかった。
そこには
凍てつくような静かな怒りが宿っていた。
炎のような激情ではなく
風雪の如き、確かな覚悟と清冽とした怒気。
敵が震えもせず見返すなら
それすら切り裂く覚悟で──
時也は、そこに〝闘う男〟として立っていた。
時也は血の滴る足を引きずることなく
一歩、また一歩と静かに進んでいく。
床に軌跡を滴らせる紅い雫は
歩みを重ねるにつれて、いつしか消え──
男の目の前で止まった時には
血の気配すら感じさせなかった。
「キミも⋯⋯アリア同様、不死なのか。
それもあの血の恩恵かな?
あぁ⋯⋯欲しいねぇ、あの血──!」
男の声は、いやらしい程に
喉の奥から転がるようだった。
まるで自らの欲望を噛みしめて愉しむように
舌を鳴らしながら嗤っている。
その軽蔑を孕んだような音色は
時也の怒りを確実に煽った。
ギリッと
奥歯が擦れる音が時也の喉奥で響いた。
それは抑え込まれた怒気の、明確な兆候だった。
「貴方がたは⋯⋯ご存知ですか?
不死の⋯⋯彼女の永遠という──苦痛を」
その問いは冷たく
怒りと悲しみが入り混じっていた。
「ははははっ!
不死?最高に、素晴らしい事じゃないか!
キミも⋯⋯
実のところ気に入ってるんじゃないのかい?
だからこそ、傷を負っても躱したんだろう?
キミも不死を──」
「⋯⋯煩い」
時也の声が、凍てつくように鋭くなった。
「彼女ではなく、お前みたいな奴が呪われたなら
〝俺〟は──どれだけ喜んだか!!」
それは、常に穏やかで敬語を崩さぬ時也が
久しく晒した〝素〟の言葉だった。
次の瞬間──
時也の足元から
ぶわりと大量の桜の花弁が湧き上がる。
その姿はまるで
淡い桜ではなく──怒りに染められた〝血の華〟
時也の携えた護符が指先で、ぴんと一枚震えた。
旋風のように渦を巻きながら
瞬きの間に、男を中心に結界が展開される。
「おん かかか びさんまえい そわか──!」
結界が完全に閉じた刹那
その中で花弁が、奔流と化す。
結界内はまるで、巨大なミキサーの如く
花弁が音もなく男の身体を裂き、刻み──
血飛沫が美しくも、おぞましく舞った。
男の身体が捩じれ、肉が裂かれ
骨が粉砕される音が
まるで雨音のように結界の外に漏れ出る。
「──はぁっ!⋯はっ⋯⋯っ、⋯⋯」
時也の肩が大きく上下する。
自身でも制御できない程の
怒りを放出したことに
胸の奥から滲み出る興奮と後悔が混ざる。
しかし、息を整える間もなく──
足音と共に、新たな気配が部屋に現れる。
男達が五人。
まるで群れを成すようにぞろぞろと現れ
武器を携え、口々に嗤いを漏らす。
「また⋯⋯欲に塗れた、下劣な笑顔を──!」
呟くように言った時也の足元から
再び地が震えた。
床を割るようにして現れたのは
鋭く伸びる桜の若枝と、絡みつく蔓。
その一本一本が意思を持ったかのように
蛇の如く蠢きながら男達の足元へと襲いかかる。
一人の男が振りかざした刃で躱す間もなく
蔓が腕を縛り、咽喉から体内へと侵入していく。
別の男は脇腹に枝が突き刺さり
肉を掻き分けるように突き進む痛みに
断末魔の悲鳴が紅く咲いた。
逃げ惑う男達を目掛け次々に植物達が襲い掛かり
容赦なく蔓が──その身体に捩じ込まれていく。
叫びも嗚咽も
咽喉を擦り切れさせて吐き出されるが──
やがてそれも呑まれ
静寂の中に咀嚼音のような
どこか生々しい湿音だけが響く。
時也の瞳には、もはや慈悲の色は無かった。
ある者は桜の花弁によって細切れに刻まれ
ある者はその身体を苗床として
血と肉の紅で咲かされた
〝桜〟の若木へと変えられていく。
紅く咲いた若木の幹には
名も無き男たちの、顔の名残がまだあった。
今はただ、春の風を受ける木の一部として
彼らの終焉を物語るだけ。
そして、時也の足元には──血の川。
桜の花弁はその上にそっと舞い落ち
薄紅に染まってなお
どこまでも美しく揺れていた。
部屋の中の敵の気配が全て絶たれると
時也は肺の中から
全てを出し切るように深く息を吐いた。
そして、ギッと鳶色の瞳を見開くと
思い切り手を鋭く翳した。
彼の背後から、無数の枝や根が勢いよく前方へ
瞬時に部屋に響き渡る──破壊音。
崩れ落ちた鉄扉横の石壁の向こうは
黒々とした空間だった。
瓦礫と土埃が舞い上がり
舞い散る桜の花弁が淡く輝いては
それらを押し流すように散ってゆく。
伸びた太く鋭い桜の枝は、鉄と石を軽々と貫き
まるでそこにあってはならぬものを
排除するように、空間を穿った。
立ち昇る塵煙の向こう。
そこに──男は居た。
ゆっくりと、一歩を踏み出す音が響く。
硬質なブーツが石畳を鳴らす度に
その場にいる空気そのものがじわりと重くなる。
その男は
壁の向こう側に隠れるように佇んでいたが
今は姿を晒し
揺るがぬ意志と余裕をまとっていた。
年の頃は壮年といったところだが
背筋は伸び、無駄な肉の無い引き締まった体躯が
戦場を潜り抜けてきた男であることを
物語っている。
髪は深い黒で
整えられた無精髭が
ただの戦士ではない知性と狡猾さを滲ませた。
男の瞳が、時也を捉える。
まるで何かを見透かしているような
冷えた光があった。
「⋯⋯いい加減
貴方が自ら──話したらどうですか?」
怒りを押し殺すように
だが、鋭利に刃を忍ばせたような声だった。
男は笑った。
短く、含みのある、どこか哀れむような笑み。
「ふふ。
キミは本当に⋯⋯厄介だねぇ?」
時也は確信していた。
男達に言葉を紡がせ
意のままに動かしていたのは、この男。
彼の心の声は、明確に聞こえていた。
アリアへの、歪んだ執着と愉悦、支配への欲望。
それが澱のように時也の内に溜まり
静かな怒りの火に、油を注いでゆく。
男は数歩、石の破片を踏みながら歩み寄ると
右手を軽く広げて
まるで懺悔の問いのように語りかけた。
「⋯⋯ねぇ、時也。
キミにとって──〝ボクは何〟だい?」
瞬間、時也の鳶色の瞳に冷たい光が灯る。
心を読んだわけではない。
だが、これは──
自分の核を問う問いだった。
時也は桜の花弁を背に、僅かに目を伏せる。
だが、その表情に迷いはない。
そして、静かに言い放った。
「貴方は⋯⋯絶対に、彼女に触れさせてはならぬ
──〝災い〟です」
静かな声だった。
だが、まるでこの空間に
裁が下されたかのような、重みがあった。
「誰にとっても
〝悪〟で済まされるものではない。
ましてや彼女にとって
貴方が生きているだけで災いになるのなら──」
時也は一歩、男に近づいた。
その背後から、桜の枝が複雑に伸び
まるでその答えに呼応するように
花弁が舞い上がる。
時也の姿は花吹雪の中心で一際、神聖で──
そして冷酷だった。
「⋯⋯俺が、お前を──終わらせる」
淡々と、穏やかに
それでも確かな殺意がそこにあった。
男は、微かに息を呑んだ。
その答えは、同情も、憐れみもない。
ただ一つ〝赦さない〟という意志が
鋭利な刃のように突き刺さっていた。
「⋯⋯ありがとう、時也。
キミは、僕を──そう〝認識〟したんだね?」
その言葉には、歓喜とも哀れみともつかない
奇妙な響きがあった。
男は、まるで舞台に上がる役者のように
緩やかに右手を持ち上げる。
指先が胸元で静かに揃えられ
時也の鳶色の瞳が、その所作を捕らえた瞬間──
「───っ!」
読んだ。
次に起こること、その意図──
すべてが、頭の中に流れ込んでくる。
瞬時に、時也は動いた。
桜の花弁が弾けるように舞い上がり
刃の如く空間を裂く。
咄嗟の判断で
男の手が動くより早く──
その身を貫かんとする奔流。
しかし──
パチン⋯⋯
乾いた、指を鳴らす音。
それだけだった。
時也の動きが、途端に止まった。
花弁は空中でふわりと漂い
力を失ったように散ってゆく。
さながら、春の終わりに落ちる花のように。
「な⋯⋯っ」
息を飲もうとしたその瞬間でさえ、遅かった。
全身を包むような──違和感。
自分の内側に入り込まれたような、不快な感触。
「もう、覚えてられないだろうけど⋯⋯
姿を現す心算は無かったのに
ボクを見つけた、ご褒美に──」
男は柔らかな微笑を浮かべ
胸に手を当て、ゆっくりと一礼する。
その所作は
まるでどこかの舞踏会に現れた貴族のようで
場違いなほどに優雅だった。
「ボク達は『フリューゲル・スナイダー』
〝翼を切る者〟だ。
覚えてられるなら、覚えててごらんよ。
櫻塚、時也──」
そして、もう一度──指が鳴る。
パチン。
その音は、まるで終焉の鐘だった。
時也の膝が崩れ落ちる。
全身から力が抜け、視界が白く濁っていく。
読めない。
見えない。
感じられない。
ただ、沈む──
ゆっくりと、静かに
床へと吸い込まれるように。
地面に頬をつける直前
僅かに見上げた視界の中で
男の姿がぼやけていく。
そこに立つ男の姿が、別人に変わっていた。
華奢な体躯。
その胸元に下がる、一つに編まれた黒髪。
女性と見紛う程、整った顔立ちから覗く
冷酷さを孕んだアースブルーの瞳。
時也の意識が、闇に沈む直前──風が吹いた。
ほんの僅か、花弁を揺らすほどの。
その中に、男の嗤う気配があった。
ひどく穏やかで、だが残酷な──悦びの気配が。
それが〝彼〟との、初めての邂逅だった。
名も知らぬ──〝厄災〟の始まり。




