第112話 消える記憶
「ソーレン!此処よ!」
レイチェルの声が
空間を震わせるように響いた瞬間
ドアが軋む音と共に吹っ飛ぶと
重厚な気配が現れる。
ソーレンの姿が現れたその一瞬で
濃厚な血の匂いに包まれていた空気が変わった。
彼女の元へと駆け寄り
互いの無事を確認するように──
何も言葉はいらなかった。
レイチェルはソーレンの胸に飛び込み
彼の逞しい腕がしっかりと彼女を受け止める。
「おぉ。
すげぇな、全員片付けたのかよ。
一人で偉かったな」
「ふふ。ソーレンが強いおかげよ!」
レイチェルの頭を
ソーレンは優しく子供にでもするように撫でた。
その掌には、戦いの荒々しさではなく
愛おしさと安堵の温もりだけがあった。
「⋯⋯先ずは、こっから出ないとだな」
余計な言葉は要らない。
二人は互いの気配を感じ合うように歩き出した。
建物の廃れた階段を
互いに寄り添うようにして降りていく。
──その頃。
その建物の屋上。
風が唸りを上げる中、一人の青年が佇んでいた。
ロングコートの裾を風が弄び
彼の長く纏められた黒髪が靡く。
その姿はまるで──
この世界に溶け込んだ、影そのものだった。
階下を見下ろすその眼差し。
空のように澄んだ、アースブルーの瞳が
逃れようとする二人を鋭く射抜く。
「悪いけど⋯⋯
ここでの記憶を
持ち帰らせる訳にはいかないんだよねぇ」
青年の手が、ゆっくりと動く。
その動きに一切の無駄がなく
まるで儀式のように慎重だった。
そして──指が静かに一度、鳴らされる。
パチン──!
乾いた音が空間に満ちた瞬間。
下を歩いていたソーレンとレイチェルの身体が
僅かに痙攣するようにピタリと動きを止める。
表情も、呼吸も
まるで時間が一瞬だけ凍りついたかのように。
次の瞬間──
ソーレンが笑いながら頭を掻き
レイチェルが陽気に隣を歩く。
まるで〝途中まで観ていた映画〟を
再生ボタンで〝続きから流した〟かのように──
ごく自然な他愛のない会話を交わしながら
二人はその場を離れていく。
「ねぇ!
今どき漫画じゃあるまいし
バナナの皮で滑って転ぶってある!?」
「うるせぇよ⋯⋯時也達には言うなよ?
あぁ、頭痛ってぇ!」
記憶を改竄された二人の表情には
恐怖の影もなく、何も無く──
ただ穏やかで、平和な時間が流れていた。
青年はその様子を
無表情に、どこか遠く見つめていた。
(⋯⋯もう、何も覚えていない。
けど──)
この異能も、完璧ではない。
何かの拍子にふとした切っ掛けで
忘れたはずの記憶が
再び浮かび上がることもある。
だからこそ、青年は──
名前を知られるわけには、まだいかなかった。
「使い捨ての駒だけじゃ⋯⋯
やっぱり無理だったか」
淡々と呟く声の裏に、僅かな苛立ちが混じる。
今回動かした男達には、彼の正体が漏れぬよう
情報を漏らそうとした瞬間〝自死する〟という
強迫観念を、深く深く植え込んであった。
それは
さながら命を代価とした──〝記憶の鍵〟
「ふふ⋯⋯
でも、キミ達の能力は⋯⋯よぉく、わかったよ」
風が再び強く吹き、彼の黒髪が宙に舞う。
青年のアースブルーの瞳が
不気味に、妖しく光る。
まるで獲物を見定めるように。
まるで、次の手を──確信に変えていくように。
その視線の先には、笑いながら歩いていく二人。
ソーレンとレイチェル。
その背は、まだ何も知らない。
この先に待つものが
あまりにも──冷酷で残酷であることを。




