第107話 灼炎の痕
夢の中で──
彼はいつも追い詰められていた。
夜のように暗く、どこまでも赤く燃える空の下。
炎を纏った怪鳥が上空を滑空しながら
彼を嘲笑うように追い回していた。
その怪鳥は
まるで遊ぶかのように鋭く伸びた鉤爪を掠めさせ
青年の間近を幾度となく通り過ぎていく。
その度に風圧が巻き起こり、足元の地が割れ
青年の華奢な身体は
煽られながらも懸命に走り続けていた。
青年の姿は、初めて夢を見た時から変わらない。
腰まで伸びた漆黒の髪は
緩やかな三つ編みで纏められ
動く度に風を孕んで揺れている。
白磁のような肌
細い手足
胸元まで開いた黒衣が、裂けては翻る。
まるで女性と見紛う程の、美しさ。
だが、その顔には常に怯えがあり
澄んだアースブルーの瞳は恐怖に震えていた。
何度も夢で見てきた、その光景──
青年が必死に逃げ、怪鳥に弄ばれ
やがて──地に這いつくばる。
夢の中で、結末は常に同じだった。
怪鳥はついに彼の背後を取り
鋭く巨大な鉤爪で背を貫くようにして押し倒す。
地面に組み敷かれた青年の背中に
燃えるような激痛が走る。
爪が皮膚に食い込むと同時に
焼け爛れるような焦げた音が響き
辺りに焦臭が立ち込めた。
引き裂かれた皮膚の下からは血が噴き出し
筋肉が裂ける音が耳の奥に残る。
アースブルーの瞳が見開かれ
やがて震えながら涙を溢れさせる。
喉の奥から漏れ出た悲鳴は鋭く
頭を突き刺すように響き
彼自身の胸にまで痛みが蘇る。
その時──
「⋯⋯無駄な苦痛は、いらん⋯⋯」
どこかで、誰かの声がした。
青年が朦朧とする意識の中で振り返ると
そこには、彼を見下ろす人物が立っていた。
腰まである流れるような
絹糸のように艶やかな金髪。
かつて青年が〝美しい〟と思ったその姿。
燃えるような深紅の瞳は
優しさも温もりも湛えていたはずだった。
──だが、今は違う。
その髪には返り血がこびりつき
硬く固まっている。
目元からは一切の感情が消え
ただ冷たい光が宿るだけ。
まるで、人ではない何か。
無機質な人形のような──
否、〝絶望そのもの〟の化身のように
青年を見下ろしていた。
「⋯⋯何故ですか!?何故──っ!!」
血に濡れた手を伸ばし、青年は声を上げた。
それでもその手は空を掴むばかりで
彼女は、一歩たりとも近付くことはなかった。
その声とともに
彼の意識はいつも炎に包まれて終わりを迎える。
世界が崩れ落ちるように暗転し
何もかもが消えていく。
そして──男は目を覚ます。
寝台の上
天井のシミを見つめながら、荒く息を吐く。
喉の奥には、夢で聞いた叫び声が張りついたまま
肺を圧迫しているようだった。
全身がじっとりと汗に濡れ
冷たい空気が体温を奪っていく。
(彼はきっと⋯⋯
最期に、恨み言を吐きたかったのだろうな)
男は、いつも同じ結論に辿り着く。
夢の中の青年が
あの時、彼女に向かって伸ばした手。
それは救いではなく、疑問だった。
そして、呪いにも似た問いだったのだろう。
男は薄く笑った。
感情が乾いていく感覚が
逆に心地よくさえ思えた。
「⋯⋯もうすぐだ。
もうすぐ⋯⋯キミの願いは──叶うんだ」
静かに呟いた声に、誰も応える者はいない。
だが、瞳には涙が滲んでいた。
夢の余韻がまだ指先を震わせ
胸に鈍い痛みを残している。
男はゆっくりとシャツを脱ぎ
寝台を降りて背中を鏡に向けた。
そこに広がるのは──
引き裂かれたような火傷の痕。
赤黒く焼け爛れた皮膚が無残に盛り上がり
まるで巨大な鉤爪で貫かれたかのような
醜い傷が──背全体に刻まれている。
それはただの夢ではなく
確かに己の肉体に刻まれた
〝現実〟そのものだった。
男は鏡の中の傷を見つめ
何かに取り憑かれたように──嗤った。
長く、くぐもったその声は
夜明けの光すら拒むように
部屋の隅へと沈んでいった。




